第12話-城-

「何かいいことでもあったの?今日ずっと楽しそうだよね」

昼休み。
影ちゃんに作ってもらったお弁当を頬張っていると、サユリが尋ねてきた。
今日ずっと、と言うことはこのお弁当に満足していることではないのだろう。
すると、思い当たるのは一つだ。

「最近ね、おじさんと仲良くなったの。今日も遊びに行くから楽しみで」
「え…それ、大丈夫なのかよ」

何故かリュータは顔をしかめている。

「黒ちゃんと同じ事言うんだね」
「多分、俺じゃなくても同じこと言うぜ」
「悪いことなの?」

言葉を濁しつつ、リュータは言った。

「悪いっつーか。……そんなおっさんと何すんだよ」
「お部屋片付けてあげたり、ご飯作ってあげたりとか」
「通い妻かよ!それが楽しいのかよ」
「すごく楽しいよ」

だって、おじさんは私を決して怖がらない。
たったそれだけのことと思うだろうが、私にとってはそれが何よりも嬉しい。
傍にいてもいいという許可をくれたおじさんに何か返したいという思いから、家に上げてもらった時は家事を引き受ける。
おじさんは面倒だと言いつつも、私に付き合い、する事なす事褒めてくれる。
それがまた嬉しくて、つい色々してしまうのだ。

そして今日も、私はおじさんの家に行く。
黒ちゃんには事前に伝えてあるし、放課後学校からまっすぐ行けばいいだろう。






────放課後


途中まではバイトがあるというリュータと、それに付くハヤトと共に帰った。
今はもう一人でおじさんの家に向かっている。
胸が躍っているせいか、足取りがとても軽い。

「あれ、ジャック!」
「ああ。か」

こんな住宅街でどうしたのだろう。
なんだか焦っているように見える。

「MZDの家はこっちじゃないぞ」
「今日はおじさんのところ行こうと思って」
「やめておけ。今日はなんだか妙な胸騒ぎがする」
「そう?心配しすぎじゃない?」
「油断は死を招く。俺も付いていくから今日は帰ろう」

ジャックの眼光が鋭い。偶にこの状態のジャックを見る。
なんとなくだけど、暗殺者としてのジャックがこうなんだと思う。

「そこまで言うなら……」

おじさんと直接約束したわけではないし、行かないことに問題はない。
しかし、このジャックの様子は気になる。
私の手を引いたジャックは、最初は歩いて、しかしだんだんと足早になっていく。

「ちょっと。早いよ」
「駄目だ。を早くMZDか黒神の所へ帰さないと」

私でさえまだ汗一つかいていないというのに、ジャックは数筋の汗が顔に流れ、呼吸が乱れている。
ジャックの言う胸騒ぎとやらが全く理解できないが、こんなジャックを見ると私まで心がざわついてくる。
本当に今、たった今、後ろに誰かがいて、それから必死に逃れているような気分にさせられる。

止まれば、終わり。
いくら疲れようとも、重かろうとも足を動かし続けなければならないという強迫観念が心臓を掴む。
何も見えない、いるかさえも定かでない、そんな何かが、怖い。
激しく息をつきながら、走って、走って、走って、走って。
でも身体に纏わりつく、じとじととした空気から逃げることが出来ない。
汗が噴出す。
疲れからか、それとも恐怖からか。わからない。
ただ、一刻も早く、黒ちゃんのところへ帰りたい。



!!」











冷たい。


ぼんやりとした頭で感じたのは身体を痺れさす凍るような冷たさだった。
硬いものが私の下にある。そのせいだろうか身体が軋んでいる。
とすると、私は床で寝てしまったのだろうか。
ならば起きてベッドに行かないと。
接着剤でも付けたかのように開かぬ目を無理やりに見開いた。

そこに広がるのは、薄暗い石畳の部屋。
私は今までこの場所を一度も見たことがない。
気だるい身体に鞭打ち、私は半身を起こした。
部屋の一面には鉄格子がつけられ、それ以外の面は石畳になっている。

「ジャック!」

私は部屋に乱雑に転がっているジャックに駆け寄る。
仰向けにするが外傷はなく、小さな寝息を立てていた。
どうやら、何の問題もなさそうである。

とすると、今一番問題なのは、ここが何処で何時なのかだ。
つい最近門限を破ったばかりであるし、今日は特に遅れられない。
それにしても、ジャックは何故こんなところに連れてきたのだろう。
いや、そういえばジャックは私とMZDの家に向かっていたのではなかったか。

────ん?

少しずつ、くるくると頭が動き出す。

もしかして、
もしかしてであるが、
私はとんでもない思い違いをしているのでは。

「目覚めたか」

何の音もなく、その人は部屋の中に現れた。
何かの仮装なのだろう、頭部に不思議な被り物をしており、全身を黒いマントで覆っている。
目の位置に空いた二つの縦長の穴の奥では赤い光がぼうっと浮かんでいて、それは私を見ているようだ。

「どちら様ですか?」
「ジャックも偶には良い拾物をする」

私の問いに答える様子はなく、白い手袋をつけた手で私の顎をすくう。
先程よりも男との距離がぐっと近づく。
香水であろうか、仄かに香る不思議なにおいが鼻腔をくすぐる。

「貴様、人間か」

私の顔を様々な角度に傾けながら、男は問う。

「そうです」
「空言を」
「嘘じゃないです……」

年齢を間違われることは多々あるが、とうとう種族までも間違われるとは。
だんだん私のことがわからなくなる。

「どうせ人型を模しただけのものであろう」

そう言って、仮面の男は私の首元に手をかけ一直線に下ろした。
獣が叫んだような音を立て、Yシャツは私の肌を解放する。
どれだけ力を入れたのかは不明だが、下に着ていたキャミソールをも切り裂かれた。

「私の趣味ではないが」

男の手が私の身体をまさぐる。
何故だろう先程の石畳よりも遥かに冷たい。
なんて冷たい手袋だ。冷水にでも浸していたよう。

「っふふ」

冷たくとも、布特有の柔らかさは兼ね備えており、肌を撫でればくすぐったくなる。
男は手を止め、再度赤い灯火で私の瞳を捉えた。

「……貴様、何の恐怖も感じないのか」
「い、いえ。服が破れたことを家で怒られるかと思うと、とても怖いです」

黒ちゃんに怒られるとことん追究される姿が容易に想像できる。
破った分は、新たに購入してもらう必要もあり申し訳ない。
そもそも、この人が何の了承もなく破ることが問題であるのに、本人は意にも介していない。

だが、不思議と怒ることが出来ない。
変な仮装のせいだろうか。
それとも、この人の纏う不思議な雰囲気のせいか。

「全く頭痛がする。ジャックの時でも手を焼いたというのに」

男は手を引き、私から離れた。

「ジャックのお知り合いですか?」
「アレから何も聞いていないのか」

私は首を振った。
こんな知り合いがいるなんて聞いたことがない。
いや、元々知らないのだ。ジャックの交友関係なんて。
聞いてもあまり積極的に話したがらないのだ。
こんな不思議な人が知り合いだから、あまり言いたくなかったのだろうか。

「我が名はヴィルヘルム。高位魔族に名を連ねている」
「本当に?」

────魔族。
神様と人間は見たことがあるが、魔族は初めてだ。
不思議な雰囲気だと思っていたが、これが理由だったのか。
顔の綻びが止まらない。
こんな面白そうな人と知り合いなんて、ジャックも教えてくれれば良かったのに。

「……何故その感情が出る」
「私、魔族の方と会うのは、初めてで……」
「成る程。貴様の輝きはその異端さ故か」

輝きとは、不思議なことを言う人だ。
私は光物を身につけていないというのに。

「ってぇ…。げ、ヴィルヘルム様!…なんでも!?」
「ジャック!」

頭を抑えるジャックに駆け寄る。

「起きてくれて良かった。なんだか、私たち、」
「そいつから離れろ」

腕を引かれジャックの後ろへと移動させられる。

「何故まで連れてきた」
「コレクション兼食事だ」

コレクションも気になるが、私を食事と称する意味とは。
魔族の食事とは人間の血肉なのだろうか、やっぱり。

、こいつは俺の上司だ。暗殺の」
「え」

背筋に冷たいものが通った。
普段通りに接していたが、一歩間違えれば何が起こっていたか。

「なるほど、そう言えば恐怖するのか」

ジャックやおじさんに関しては、暗殺系職業でも平気だ。
私に害を与えないことを知っているから。
だが、この人は違うだろう。意思疎通が困難な相手のようだから。

「安心しろ。今の所、貴様を殺す気はない」
「気まぐれに殺すだろ、アンタなら」
「それは分からんぞ。この娘次第だ」

鮮紅に射抜かれる。
私は初めて、その綺麗な光から目を逸らした。
少しだけ、怖くて。

「いくら恐怖しようと、神は来んぞ」

何故、私と二人が結びついたんだろう。
まだ何も言っていないのに。

「既に貴様があの黒神の元にいたという情報は得ている」
「黒ちゃんのこと、知ってるの?」
「永い時を過ごした者で奴を知らぬ者などいない」
「今まで誰も知ってる人なんていなかったのに」

MZDとは対照的に黒神という名の神については誰も知らなかった。
それなのに、この人はわざわざ、あの黒神、と呼んだ。

「忌むべき存在を記憶に留めたいと思う酔狂な者等いまいて」

全世界の生物に嫌われていると言った、黒ちゃんの言葉を思い出した。
嫌われた場面を見たこともなく、何でそんなことを言うのかと思っていたが、もしかして以前何かあったのだろうか。

をこれからどうするつもりだ?」
「手元に置く。この娘にはまだ分からぬことが多いからな」

そう言って、黒ちゃんやMZDのように瞬時に姿が消えた。
私とジャックのみが、ぽつんと冷たい部屋に残される。

「……ごめん」
「どうして?」

ジャックは私を指差した。正確には、服。破かれた制服。

「服だけだよ。痛いことはされてない」
「俺が何か探してくる。……いや、一緒にだ。何があるかわからないからな」

ジャックは鉄格子を炎でもって溶かすと、私たちは部屋の外へと出た。
周囲も同じく、鉄格子付きの部屋ばかりである。
石畳を踏み鳴らしながら、長い長い廊下を行くと、やがて階段へ行き着く。
石畳の螺旋階段の先の扉を開けると、先程とは景観ががらりと変わる。

「すっごーーい!!お城みたい!!!」

今自分たちがいる場所は廊下だと思うが、普段見慣れた平たい天井ではなくアーチ。
足をつけた床は先程の石畳とは違って、少しきらきらと輝いている。
石材であることは確かだが、何の種類であろう。
普段フローリングしか見てない私はこれだけで心を揺さぶられる。

「アイツ、こっちの世界までこんな城建てたのか」
「ねぇ、ヴィルヘルムさんって、いっつもあんな被り物してるの?」
「ああ。中に顔があるのか、それともあれが顔かそれはわからない」

城内は見たこともないものばかりで、私の心は躍りっぱなしであった。
広い廊下には絵画や彫刻が置かれ、下に敷かれていた絨毯も不思議な模様が描かれていてとても綺麗だ。
数え切れないほどある部屋には、簡素であっても素人目に見て凄いと思わせるような彫りが施されている家具だとか、重々しい絵画だとかが溢れていた。
部屋自体の作りも変わっていて、天井の木が複雑に組まれていたり、綺麗な模様が描かれていたり、シャンデリアがあったりと、もう何もかもが別世界であった。

「まだお部屋があるの!?すごーい!!」
「そうだな。それより……」

ジャックはちらちらと後ろを見やる。
私は立ち止まり、後ろに振り返った。

この城には電気がないため、ジャックが持つ灯りから距離が離れる程闇が濃くなる。
不思議なことに、その闇全体が蠢いていた。
ふわふわとくねくねちりちりと動くものが、びっしりと敷き詰められている。

「あいつら、さっきからを狙っているみたいだ」
「あれは何?」
「低級魔族らしい。詳しいことは知らない」

低級ということはヴィルヘルムさんよりも弱い立場の魔族なのだろう。

「邪魔だ」

たまに集団から飛び出した、小さな魔族にジャックは容赦なく炎を吹きかける。
炎に当てられたそれはぴょーんとまた私達から離れて闇に紛れていく。

「結構小さかったね。犬や猫みたいに噛むのかな」
「何があるかはわからない。絶対、手を出さないでくれ」
「はーい」

と、答えつつも、私はその低級魔族達に近づきたくてうずうずしている。
どんなものか見てみたいし、あわよくば触ってみたい。
ゾンビみたいにあまり見た目が良くないのであれば結構だが、ジャックの炎に払われたものを見る限りそんなことはなさそうだった。
真っ黒でもやもやしていて、見た目はそう、黒まんじゅう。

「あ、一匹こっち来た!」

それはその場でうりうりと動いたかと思えば、さっと直線移動をする。
そんなコミカルな動きが私を誘う。

「面倒な、って!」

虫を捕まえる要領で、キャッチしてみた。
そっと手を開くと、重さのないまんじゅう型魔族がふるふるとしている。
感触としては動物と同じく毛で覆われているようだ。
裂け目はないので、目も口もないのだろう。噛まれる心配はなさそうだ。

!」
「ご、ごめん。で、でも噛まなかったよ」

黒まんじゅうを撫でるが、毛が気持ちいいだけで、特に害はない。

「本当か……?」

恐る恐るジャックが指を差し出す。
すると、先ほど毛しかなかった饅頭から鋭い牙が飛び出し、ジャックの指を噛み切ろうとする。
牙が食い込む寸前にジャックは手を引いた。

「やっぱり危険だ」
「そうかな。……君もジャックを噛まないでよね」

うりうりと黒まんじゅうを撫でるが、やはり噛まれない。
何故だろう。

「この子ってずっとこの城にいるんだよね。それなら服の場所知ってるんじゃないかな」
「そんなものに人間の言葉が通じるのか?」
「ねぇ、服ってわかる?こういうの。持ってきて欲しいの」

破れた制服を指差した。
黒まんじゅうは私から離れ、長い廊下の向こうへ消えた。

「……通じた、かな?」

ならば、他の魔族も言葉が分かるのかもしれない。
私は周囲にいる暗闇に向かって叫んだ

「ねぇ!そっちにも沢山いるよね!私達、服、探してるの!こういうの!知ってるなら持ってきて!」

闇は私の声を吸い込んだ。
何も変化はないように見える。

「全員散っていく。……なんでの言うことを聞くんだ」
「え、本当?凄いね!魔族でもちゃんとお話出来るなんて」
「本当に持ってくるかはわからない。アイツへ報告しに行っただけかもしれないからな」

しばらくは何の音沙汰もなく、私とジャックは部屋を確認して、制服の代わりになるものを探した。
しかしどれだけ探しても何もない。
家具はあるのに、何も収納されていない。
このお城は、ヴィルヘルムさんと小さい魔族しかいないのだろうか。

「……、後ろ」

引き出しを開けるのを止め、促されたとおりに後ろを振り返った。
部屋の中で大量の布がゆらゆらと動いている。

「持ってきてくれたんだ!」

布の集団に駆け寄ると、いろいろな形の生物が様々な布製品を持っていた。
今まで暗くて分からなかったが、虫のようなもの、触手があるもの、動物のようなものと様々な形をしている。
見た目は、正直、怖い。
だが、わざわざ持ってきてくれたということは、優しい魔族なんだろう。

「それはカーテンだね。それは絨毯かな、うーん、それはスカーフ…。
 あ、これはそう!」

エプロンドレスだ。少し埃っぽい。
この城に使用人がいるのだろうか。いたのだろうか。

「ありがとね!」

芋虫にイソギンチャクをくっつけたような魔族にお礼を言い、私は早速着替えた。
サイズは少し大きいが、なんとか着られる。良かった。
この服の感想を聞こうとジャックの方へ振り返ると、額に皺を寄せ難しい顔をしていた。

「……納得いかない。何故こいつ等はの命令に忠実なんだ」
「不思議だよね」


ジャックは私の両肩を掴んだ。思わずたじろぐ。

が楽しそうなのは嬉しい。でも、ここはヴィルヘルムの城なんだ。
 アイツの機嫌を損ねれば殺される。魔族だって徘徊してる。
 みたいに戦闘訓練を受けてない者なんて簡単に殺せる。
 俺だってを守りきれる自信はないんだ。
 自分の身は自分で守る必要がある。
 だからもっと、緊張感を持ってくれ。
 俺は、……に何かあって欲しくないんだ」

黒ちゃんの姿と重なって見えた。
私はいつも、大事な人にこんな姿をさせてしまう。

「……ごめん」
「分かればいい。気をつけてくれ」

私は初めて見るものばかりで、舞い上がっていた。
確かによく考えれば、私とジャックを連れてきたのはあの人のようだし、暗殺者の偉い人みたいだし、実際偉そうだし、服を破るような乱暴な人だし、人じゃなくて魔族だし……。
言葉を羅列していくと、今まで私が恐怖しない方がおかしい。

だが、私はそれでも怖さと楽しさが同居する。
殺されるかもしれないとは思うが、殺される気があまりしないのだ。
理由はわからない。高をくくっているのだろうか。





大きな広間に着いた。
天井も先ほど見てきた部屋や廊下よりも随分高く、壁面の彫りや絵も豪華さが増したように思う。
辺りを見回していると、音もなく闇からヴィルヘルムさんが浮かび上がった。

「貴様、どうやってこいつらを手懐けた?」

私は首を振って答えた。

「何もしてないです。よくわからないけど、付いて来るんです」

広間入り口を見ると、左右の壁に隠れきれなかった魔族が溢れている。
服を運んでもらった時からずっと、私達と少し距離をあけてついてきていた。

「散れ、鬱陶しい」

ヴィルヘルムさんがそう言うと、烏合の衆がサッと逃げていく。

「丁度いい、貴様を小間使いとして使ってやる」
「は、はい」

丁度良いと言うのは、エプロンドレスを着ているからだろう。
着られる服ならなんでもいいと思ったが、間違いだったのかもしれない。

「さっそく貴様に命令することがある。
 あちらの部屋に茶葉がある。淹れてみろ」
「はい」

ヴィルヘルムさんが指差した部屋へ行く。
走っていると、ふっと、我に返った。

なんでこんなことになってんだろ。
早く帰らないと怒られるのに。

そんなことを思いながら、明かりのない部屋で手探る。
ここの住民は皆平気なのだろうか。私には全く見えない。

「明かり欲しいな……」

ひとり言つと、それに反応して部屋内に小さな光球がぽつぽつと出現する。
よく見ると、さっきまで付いてきていた魔族の上に光球が浮かんでいる。

「ありがとう!」

これで戸棚も水周りも視認できる。
私は急いで用意をし、小さな魔族が渡してきたトレンチで運んだ。

「……及第点だ。頭は軽いが雑用にはそこそこ使える」

多分、褒めてくれているんだろう。
ちょっとほっとする。

「ジャック、貴様には仕事がある。すぐに発て」
「このままをどうするつもりだ」
「貴様が知る必要はない」

双方一歩も引くつもりがないのか、睨みあって動かない。

「ジャック、私は大丈夫だよ。行っておいで」
「だが、今から俺がすることは」
「わかってる。……怪我しないようにね」

そっか、ジャックは気を使ってたんだ。
自分が今から誰かを殺めるということ。

初めて出くわした暗殺者としてのジャックの姿。
私は、今から誰かの命が消されると言うのに、あまり怖くなかった。
いつも触れているあの手で、誰かの血が流されるというのに。
私がこんなに薄情な人間であるなんて知らなかった。

「行ってくる」
「ジャック。余計な真似はしない方が懸命だぞ」

ヴィルヘルムさんは小馬鹿にしたように笑う。
ジャックは舌を打った。

、急いで終わらせるから。待ってて」

駆け出すジャックに手を振って見送った。
こつりと音が鳴り、気付けばヴィルヘルムさんが私のすぐ隣にいた。

「さて、邪魔は居なくなった」

何をするのかと思えば、ヴィルヘルムさんは私の身体の中に手を入れた。
鳩尾付近に他人の手が貫通している。
驚く暇もなく、痺れるような痛みが全身に巡る。
吐き気が起き、耳がキーンとする
全身がやすりで研磨されているようだ。

「っやぁ!!」

すっと、ヴィルヘルムさんは腕を引く。
痛みから解放され、私は床に座り込んだ。
貫通していたというのに、私の身体からは血が出ていないし服も破れていない。
ただ、身体がとても気だるい。頭がぐわんぐわんとする。

「もう一度問う。貴様は人間か」
「人間です……」

しつこい。
いきなり痛いことをしておいて、それはない。
痛い目をみて、ようやくジャックの忠告を聞き入れる気になった。
これは突然殺されてもしょうがないかもしれない。

ヴィルヘルムさんはしばらく思案し、「しばらく好きにするがよい」と言って、どこかへ消えた。
普段生活している部屋の何倍もの広さの広間には私だけがいる。
音も何もなく、石材のせいか薄ら寒い。
急に寂しさの波が襲ってくる。

「誰かいません…かー……」

細々と声をあげると、扉からもそもそと先ほどの低級魔族が現れる。
見た目は怖いが、私の言葉に反応して来てくれたのは嬉しい。

「優しいんだね」

撫でるというのがわかるかどうかわからないが、近づいてきた何体かの魔族には手で触れてみた。
堅かったり、ふさふさだったり、柔らかかったり、溶けたり、ぬるぬるだったり、魔族とは様々な種類がいた。

「あ、私の言うこと分かるんだよね。だったら、このお城の中に電話ってない?」

あればMZDとは連絡が取れる。
以前二人の力を持ってしても、私のことは探せないと言っていた。
だとすると、私から連絡するしか方法はない。

しばらくして、この城に電話がないことがわかった。
魔族に手伝ってもらって探したが、類のものは見つからなかったのだ。

「はぁ、お腹減ってきた。小間使いってご飯もするのかな」

そもそも魔族のご飯とは何なんだろう。
怒られる前に、ご飯の支度をしなければならないのかヴィルヘルムさんに尋ねないと。

私はヴィルヘルムさんの居場所を魔族に尋ねた。
すると、見たところ書斎だと思われる所へ連れてこられた。
一面本で埋め尽くされていて、なんとも重々しい雰囲気が漂う。

「何の用だ」

机に肘をついたまま、ヴィルヘルムさんは言った。
少し怖いけれど、頑張ろう。

「あの、ヴィルヘルムさんって、食事ってどうす、」

相当な距離があると言うのに、ヴィルヘルムさんは私の目の前に瞬時に移動した。

「手を」

意味が分からないが、従わないときっと怖い思いをする。
私は恐る恐る右手を差し出した。
空を切り裂く音が耳に突き刺さる。

「ったぁ……」

見れば右手は薄皮が向け、赤く変色していた。
何かで叩かれたらしく、ものすごく痛い、熱い。
 
「立場を考えろ」
「すいません」

謝罪したのに、再度叩かれる。
全く同じ部分を叩かれ、更に皮がめくれて熱さが増す。

「い、ではない。『み』だ。教養がないだけでなく言葉も知らぬのか」
「す『み』ませんでした」

こんなに痛いのなんて初めてだ。
叩かれたのは手の甲だと言うのに、右腕全体が痺れている。
指の震えが止まらない。

痛くて、怖い。
──この人が、怖い。

「全く下々の者は何故こうも無知で愚かなのか。理解に苦しむ」
「すみませんでした。ヴィルヘルム様」
「他」
「え」

また叩かれた。
きちんと言葉を選んだのについ聞き返してしまった。
下手に声は出せない。
それにしても、ヴィルヘルム様以外での呼び方というと。

「だ、旦那様」
「他」
「御主人様……?」

小さくだが、確かに目の前の怖い人は笑った。

「久しい気分だ。今後はそう呼べ」
「は、はい、御主人様」
「下がれ」

九十度しっかりと頭を下げ、部屋から逃げ出した。

右手が熱い。

ここまで強く帰りたいと思ったのはこの城に来て初めてだ。
いつもの温かい家が恋しい。黒ちゃんに会えないことが心細い。
もう二度と門限を破らないから、心配をかけないようにするから。
毎度毎度本当にごめんなさい。
でも、その言葉が黒ちゃんに届くことはないのだ。





一人になった私はどこにいていいのか分からず、結局最初にいた石畳の部屋もとい、牢屋の隅で座り込んだ。
冷たいけれどしょうがない。お腹が減ったがしょうがない。
幸いにも孤独だけは多数の魔族のお陰で免れることが出来た。

「……そうやって離れてないで、もうちょっとこっちに来て。何もしないから」

戸惑っているのだろうか、その場で足踏みのようなことをしている。
手招きをし続けてようやくすぐ隣にまで来てくれた。

「私御主人様と違うから、ひどいことしないよ……」

自然と御主人様という言葉が滑り落ちた。
きっとあれだけ叩かれたからだろう。早くもあの人の思い通りだ。

「……ごめんね。本当にありがとう。居てくれてありがとう」

毛虫の感触がする誰かを撫でた。
すると、それは先ほどよりも全体的に大きくなった。
そういう特性なのだろうかと、不思議に思った私は他の子にも手を伸ばす。

「……あ、あれ?」

触った子だけ、形質が変化していく。巨大化したり、触手が増えたりと、明らかに強化されている。
一瞬これはまずいのではと思ったが、私はその考えを消した。
何も考えないことにする。一緒に居てくれるだけで十分。うん。

温かそうな毛を持つ子を抱っこする。
黒まんじゅうとは違って、見た目通りの重さを感じた。
くっついていれば寒さは凌げそうだ。

「持てなくなるから、大きくはならないでね」

一応念を押し、私は抱きついたまま眠ることにした。
歩き回って疲れていたのもあるし、空腹を誤魔化すためでもある。
私は即意識を手放した。











「ひぅっ!!!」

右手への激痛で目が覚めた。

「手間をかけさせおって」

右腕を強引に捕まれ、身体が吸い込まれるような感覚に襲われる。
ほぼ毎日体験しているから分かる。これは空間転移だ。
景色が石畳から、ベッドルームと思しきものに変わる。

「脱げ」

どこかぼうっとする頭のまま、言われたとおり服を脱いだ。
エプロンドレスを脱ぐのは容易く、すぐに下着一枚になる。

「あの、」

尋ねる途中に、柔らかなベッドの上に押し倒された。
両手首は御主人様に捕まれ、シーツの上に縫い付けられている。
叩かれたくないので、私は何も抵抗しない。

「御主人様……私はどうすれば良いのでしょうか?」
「……恐怖しない者には無理な話か」
「申し訳御座いません」

言っている意味はわからないが、とりあえず謝罪しておいた。
何をして欲しいんだろう。

「本当に悦ばせる方法を何も知らぬようだな」

そう言って、御主人様は私の上からのけた。
落ち着いてくると、お腹が減ってくる。

「私も貧相な身体に欲情するほどではない」
「すみません」

胸のないことを言っているのだろう。
魔族でもやっぱり私みたいな身体は悪い方に分類されるのか。

「これを弄ぶ者の気がしれん」

不思議なことに、御主人様は笑っていた。
先ほど見たものよりも、分かりやすく、笑っていた。
この人の笑いどころはよくわからない。

「さっさと下がれ」
「はい!失礼しました」

ベッドから飛び降り、輪のように広がった服を頭から被った。
急いで着て立ち去ろう。

「死神とは、物好きな者のようだな」

手間取ったが背中のファスナーを上げ終え、全速力で走りぬけた。

「娘」

間髪入れず身体を反転させた。
なにか気に障るようなことをしてしまっただろうか。
例えば走るのははしたない、とか。

「人間とは食物からエネルギーを摂取する生物ではなかったか」
「はい、そうです」

だから食べないと力は出ない。
現に私は空腹でふらふらしてくる。

「食事を与えてやってもいいぞ」
「本当ですか!」

つい大きな声をあげてしまった。
怒られるかもしれない。

「ただし、その薄汚い身だけはさっさとどうにかしろ」

確かにこの城の中を歩き回って、加えて床に寝ていたせいで埃っぽい。

「使用人用の風呂は貴様が使役する魔族が知っている。
 終えたら来い」

何処にですかと聞く前に御主人様はいなくなった。
毎回そうだが、相手の理解を待たず自分の用件だけ伝えたら満足するらしい。

だが、今の私はそんなことで腹は立たないし、気にならない。
だって、ようやくご飯にありつけるのだ。
しかもその条件はお風呂に入ること、ただそれだけ。
こんなに簡単に食欲が満たせるなんて幸せである。

私は言われたとおり以前より若干大きく変化した魔族に案内してもらい、シャワーを浴びた。
服の替えはなかったが、魔族の中に便利な能力を持つものがおり、それに洗った服を乾かしてもらった。
服も身体も綺麗にすると、生まれ変わったような気持ちになる。
また魔族に頼んで御主人様のところへ連れて行ってもらった。

「遅い」
「申し訳御座いません」

ご飯が待っている。
私は気を損ねないよう、慎重に振舞わないといけない。

「まぁいい、食することを許可してやる」
「はい!有難う御座います!」

指差す方向にはちゃんと机と椅子が用意され、その上に簡単な食事が置かれている。
床で食べることを覚悟していたのに、なんて優しいんだ。

「いただきます」

パンをちぎり口に含むと、涙が出てくる。
私は一心不乱に、だが行儀よく食べていった。
きゅうきゅうと締め付けていた胃に食物が流し込まれる感覚が更なる涙を誘う。
立派な料理というわけでもないのに、こんなにも美味しいと思えるなんて。
空腹が一番のスパイスであるという言葉は本当だった。

「ごちそうさまでした」

量はなかったのですぐに食べ終えた。
私はすぐさま御主人様の傍に駆け寄り、頭を下げた。

「有難う御座います。私頑張ります、いえ頑張らせて下さい!」

鼻で笑われた。
私は顔を上げ、御主人様の横顔を見た。

「人間とは単純なものだ。アレもそうであった」
「アレとは、どの方で御座いますか?」
「ジャックだ」

つまり、私もジャックも食事で釣られたということか。
そう考えるとなんだか自分が悲しいものに思える。

「少しは貴様について理解した」

そう言って、御主人様は手袋を外した。
露になったその白く綺麗な手で、未だに私の目尻に残っていた涙を掬った。
肌に軽く触れた指は、痛いくらいに冷たい。
手袋が冷たかったんじゃなかった。
この人は、体温が、全く、ないんだ。

「やはりな」
「どういうことでしょうか」
「紅茶」
「はい、只今!」

反射的に返事をし、私は急いで紅茶の用意をする。
僅かな時間だと言うのに、どんどん小間使いが身に染み付いている。
悲しいような気がするが、叩かれないためには必要なことだ。

「お持ちしました」

音を立てぬよう、静かにテーブルの上に置く。
トレンチを抱いたまま、御主人様と少し離れたところで待機する。

「座れ」

簡単な命令だが、私は真剣に悩む。
床か、それとも御主人様の向かいに開いてる椅子か、それとも先ほど食事をした時の椅子か。
間違えれば叩かれる。

私は考えた結果、床に座った。

「……そんなに地べたに這い蹲りたいか、下等な人間め」

この言い方から推測するに、食事時の椅子が正解だったのかもしれないが、今更変更もできない。

「物好きな」

御主人様は椅子の上から私を見下ろして高圧的に尋ねる。

「貴様は人間だと言ったな。それは信じてやる」
「はい、有難う御座います」
「だがそれでは貴様を説明し切れん。貴様は何だ」
「何だと言われましても……。
 私は、ただ神と同居しているだとか、
 人より成長が遅いとか、部分的に記憶喪失だとか、
 人間なのに人間に馴染めないとか、
 それくらいしか人と違う事なんてありません」
「十分多いように見受けられるが」

魔族的に見てもやはり多いのか。

「それらの理由を貴様自身は知っているのか」
「全く知りません。多分、MZDと黒神さんなら知っていると思いますが、
 きっと教えてはくれません」
「簡単にはいかぬか」

すくりと御主人様は立ち上がった。

「私は外出する。貴様は好きに過ごすがいい」

またもや瞬時に消える。
御主人様が消えたことで緊張がとけた私は大きな溜息をついた。
この城でやっていく方法はなんとなく分かったが、この先どうしよう。

体感だが今は夜中なのだと思う。
黒ちゃんにはおじさんの家に行ってくることしか伝えていないので、
絶対にとんでもなく心配している。
なんとか連絡は取りたいが、その術は私にはない。

どうしたものか。

仕方がなく、私は地下の牢へ戻ることにした。
この城や魔族や御主人様のことを知れば、きっと何かしら方法はある。
今日のところは寝て、明日の小間使い生活に備えよう。





(12/04/26)