二度目の夜を駆ける 十話-京 壱-


 隣の部屋の境である襖を勢いよく開け放した。
 二人は当然のように起きていた。
 
「夜分遅くにすみません。審判して下さい」
「どっちもおまえの連れだろうが!!」
 
 シュテンドウジさんの抗議を受け、私は二人に釘を刺した。
 
「不正はいらない。絶対しないで」
 
 なにかを言いたげにするモモタロウくんを抑え、「判った」とヌラリヒョンさんは言った。
 勝負となると宿屋の酒では少なすぎるだろう、とその足で周辺から酒をかき集めるよう手配してくれた。
 ヌラリヒョンさんの顔は京でも効き目があるようだ。
 モモタロウくんは姿勢を正して、私とシュテンドウジさんの間に座っている。
 
「そこはせめてヌラリヒョンだろ。一番信用ならねェヤツじゃねェか」
 
 不服そうに言うと、モモタロウくんは静かに視線を向けた。
 
「大丈夫。どっちも嫌いだから。ね、主《あるじ》さん」
 
 勝てもしない勝負を勝手に決めたことを怒っているのだろう。
 
「馬鹿な主《あるじ》だって判ってるなら諦めて」
 
 それから会話はしなかった。
 シュテンドウジさんは「ガキは面倒くせェな」と言って手持ちの酒を飲んでいた。
 部屋が次第に多種の酒で埋まっていくと、勝負の実感がじわじわと湧いた。
 
「酒の量を競うことで双方相違ないのだな?」
「おう」
「はい」
 
 観客はいない。公平を期すためには必要だというシュテンドウジさんの主張をヌラリヒョンさんが強引に却下した。
 その代わり担保として武器をシュテンドウジさんに渡した。
 不満があればシュテンドウジさんは一方的に暴行を加えることが出来る。
 武具の放棄は当然モモタロウくんも求められた。
 全員が動向に注目する中、無言で刀をシュテンドウジさんの方に滑らせた。
 
「チッ……」
 
 あの鬼斬りが刀を手放したことを重く見て、シュテンドウジさんは敵陣営に囲まれた中での戦いを了承した。
 
「では、準備は良いな?」
 
 ヌラリヒョンさんは私を見てきた。
 
「いけます」
 
 力強く答えた。
 
「ま、タダ酒が呑みまくれるってのは気分良いぜ。メンツは最悪だけどな。おまえも気楽にやれよ」
 
 既に勝った気でいる。
 それは二人も同じだ。
 始まる前から、私は期待されていない。
 売り言葉に買い言葉で、偶発的に発生した勝負。
 私ですら、自分が勝利する光景を思い描けない。
 
「双方、始めよ!」
 
 シュテンドウジさんは開始以前より呑んでいた酒を一気に呑み干し、勝負用の酒に手を付ける。
 私はというと、徳利を目の前にして動かなかった。
 未知なる飲み物への対峙に緊張が走る。
 これはただの飲み物ではない。
 ひとを駄目にする中毒性の高い、臓器を蝕む魔の飲み物である。
 今日一日飲んだところで死ぬことはないだろう。大丈夫。と暗示をかける。
 気持ちを高め、決意を固めて、私は一気にあおった。
 
「主《あるじ》さん!?」
 
 まっっっっっっっっっっっっず!!!!!!
 
「目を剥いて一点見つめてるけど。止めるべきでしょ! ねぇ!」
 
 いきなり嘔吐の瀬戸際に立たされた。
 口内を漂う悪臭が鼻に突き抜けて目が回る。
 こんな苦い物を大人たちは美味い美味いとガブガブ呑んでいるのか。
 コーヒーしかり、酒しかり、大人になると舌が麻痺してくるのかもしれない。
 でなければ、こんな…………ものをありがたがるわけがない。
 
「おまえマジで呑めねェのかよ」
 
 呆れ声にも応えられない。
 
「だからってまだ棄権すんなよ? おまえが負けちゃ呑める酒が減るだろ。
 おれが満足するまで悪あがきは止めてじっとしてな!」
 
 大笑いをしながら、次の瓶へ、次の樽へ、次の桶へと手を付けていく。
 水を飲むように身体の中に流し込んでいき一気に差が広がった。
 それは予想の範疇だが、私が一杯でギブアップすることは読み切れなかった。
 我慢すればなんとかなると思っていたのに。
 
「……も、もし、負けたらモモタロウくんって……?」
「殺す以外ねェだろ」
 
 明確な回答に笑う他ない。
 鬼のシュテンドウジさんにとって、モモタロウくんはそういう相手なのだ。
 やめてください、かしこまり、めでたしめでたし。……にはならない。
 モモタロウくんは始まってからずっと私を心配そうに見ている。
 始まるまでは延々と不機嫌を垂れ流していたのに。
 だから私、精一杯笑って、残りの酒を一気に飲み下し、熱くなる喉を鳴らして徳利を机に叩きつけた。
 
「次、お願いします!」
 
 シュテンドウジさんは大笑いした。
 
「そうこなくっちゃな」
 
 樽と徳利を横に転がしながらそう言った。
 祝いの席で出てくる大型の樽酒を持ち上げて、浴びるように呑んでいく。
 私なんて両手にちょこんとのる徳利一つ分がやっとである。
 絶望的な差であるが、従者の命がかかった勝負に負けるわけにはいかない。
 私はヌラリヒョンさんから次の徳利を奪うように受け取り、百八十度回転させ口の中に落としていった。
 まずいなら、味わわなければ良い。
 舌に極力触れないように、喉の穴に向かって放射する。
 味の問題はクリア。次の問題は胃の大きさである。
 フードファイターは前日に何ガロンもの水を飲み胃を膨らませて容量を増やすらしいがその戦法は取れない。
 この場で出来ることは、満腹感を脳が知覚する前に流し込むことだ。
 喉の奥をこじ開けて濁流を丸呑みする。
 
「酒でおれに勝てるわけねぇだろ。さっさと降参しちまいな」
 
 煽りは無視する。
 これは時間との闘いであり、構っている暇などない。
 満腹感に引っ張られないよう、飲酒と無関係の思考で脳を覆う。
 黄泉は暗かったなあ。
 カグツチさんは無事に着いたのかなあ。
 江戸は今どうなっているのかなあ。
 ヒミコさん怖かったなあ。
 オジゾウサマってどんなひとだろう。
 苦しい気持ちが入り込む隙間を作らないようにひたすらに考えた。
 
「鬼斬りなんか見捨てちまえ。おまえだけならやっていけるだろ」
 
 どんなに真剣に訴えられようと相手にしてはいけない。
 飲食の勝負で最も重要なのは己のペースを崩さないこと。
 休憩なしに酒を摂取する私の次の問題はトイレが近くなることだ。
 しかしそれは意外にも容易く許可された。
 
「隠れて吐き出しているかもしれないのに、良いんですか?」
「ンなことくらいでおれがどうにかなるわけねェだろ!!」
 
 過剰な自信のお陰で、私は摂取と排出を延々と行えば一先ず勝負になることが確定した。
 理屈だけなら誰でも出来そうなのだが、そうはいかないのが大食い勝負である。
 
「ハッ、手が止まってんじゃねェか!」
 
 最大の障害は────飽きだ。
 食べ物には色、形、味、匂いと様々な要素が脳を刺激して食欲を促している。
 飽きることによって、同一の物ばかり食べることを避け、異なる食材を体内に取り込ませる仕組み、らしい。
 ただひたすら同じものを飲み食いすることは、脳の考えに反しているのだ。
 さっきから、いい加減呑むのをやめろと脳が訴えている。
 
「ヌラリヒョンさん、お酒に味変ってないんですか?」
「用いる材料よって酒の味は変わる。腹が膨れてしまうが肴を使うのも手だ」
 
 胃の容量を取られても、飽きから脱出する方が優先だ。
 
「つまめるものでお腹が膨れなさそうなものってあります?」
「塩、味噌あたりだな。シュテンドウジもそれくらいなら良いだろう?」
「おれにはなんでも持ってきてくれて良いぜ!!」
 
 勝負というよりただの酒盛りである。
 こんなにいい加減でも、シュテンドウジさんは三樽分リードしているのだから、流石、酒呑《しゅてん》の名を冠する者である。
 食い散らかしながら尚ペースを落とさない。
 対して私は、塩を一舐めしたら飽きるまで呑み、また一舐めしては呑み、を地道に繰り返すが、量としては全然だ。
 暫く続けていると、変化が訪れた。
 まずいと思っていた酒が美味しいと思えるようになったのだ。
 ジュースを飲むのとさほど変わらない。
 何種類も酒を呑んだ事で味の深みだとか、口当たりだとか、個性を理解できるようになった。
 嫌々流し込むより、美味しいと思って流し込む方が捗った。
 それでもまだまだ差が縮まらない。
 
「衛府のヤツらがウザくてしょうがねェから毎日殺しまわってたら、とうとう百人以上集まってよ、ギャーギャー言うヤツらをブッ飛ばしまくってそりゃ楽しかったぜ。おれが通る間は外に出るな、つって夜の鼓から暁の鼓まで京の一帯がシーンとすんだよ。誰もがおれを恐れて最高の気分だったぜ!」
 
 シュテンドウジさんは相手にされないと判っているのに話続けている。
 自分との会話に飽きていた頃だったので、ラジオ感覚で半分耳を傾けていた。
 内容は主に自慢で、自分は強くて、顔が良くて、モテて、妖たちには畏れられている、と羅列すると特に面白くもない。
 共通しているのは、シュテンドウジさんは自信の塊である。ということだ。
 私とは逆だ。
 モモタロウくんやヌラリヒョンさんも自分に自信があるように見えるので、才を持って何かを成した者とはそういうものなのだろう。
 成した後に自信がついてくると言うのなら。
 モモタロウくんを盗み見ると、目が合いそうになったので慌てて逸らした。
 改めて背中に視線を感じて、緊張感が走った。
 
「おれがおまえに負けるわけにはいかねェ。こっちは山に置いて来たヤツら背負ってんだ」
 
 シュテンドウジさんは握っていた焼き物の徳利を握り壊した。
 ちゃぶ台に透明な液体がぐんぐんと広がり、端から畳へどぼどぼと落ちていく。
 畳が濡れるから拭かないといけない。
 私は手拭いではなく別の形の徳利を持って自分の口に傾けた。
 何があっても余計な絶対にしない。
 
「じゃなきゃガキなんて手出さねェよ。好みでもねェのに。鬼斬りの制御に便利だってだけだ。当然だろ」
 
 やっぱり、シュテンドウジさんは無意味に手を出すひとじゃなかった。
 その事情を推しはかることは容易い。
 守るために、相手を御する力を私たちは欲している。
 
「……食指がうごかねェはずなんだよ。ほんとなら」
 
 シュテンドウジさんは私をジロジロと見回す。
 
「……おまえ、美味そうだよな」
 
 大好きな酒を置いて、じりじりと近づいてくる。
 シュテンドウジさんの鋭い牙がよく見えた。
 絵本に出てくる狼みたいに、薄赤色の肉がどんどんと広がって、
 
「其方にはこっちをやろう」
 
 私とシュテンドウジさんの間に一本の酒が差し込まれた。
 シュテンドウジさんは目の色を変え、その酒を抱きしめた。
 
「白鬼舞酔《はっきまいすい》じゃねェか!!! 鬼なら垂涎モノのブツだぞ! ここらにはねェはずだろ!?」
「其方らが酒造も酒屋も襲うせいでな」
「おれでも数年は呑んでねェんだぞ。本当に呑んで良いんだな! 返せって言うんじゃねェよな!」
「言わぬさ。公平になるようもう一本は娘の方に呑ますぞ」
「ナナシ今すぐ負けろ! そうすりゃ二本ともおれのもんだ」
 
 私は無言でヌラリヒョンさんからその白ナントカを受け取った。
 酒欲しさに襲われては堪らないので、パンパンのお腹をさすりながら呑みかけの酒を急いで飲んでいく。
 
「っかぁあああ、うめえええ!!!」
 
 何を飲んでもうめぇうめぇと言っていたシュテンドウジさんが、今日一番のうめぇを出した。
 瓶に抱き着いて頬擦りをしている。
 私の方も升が空いた。白鬼舞酔に手をつける。
 極上の酒らしいがどうせ子供舌の私には美味しさなんてろくに判ら、
 
「おいしいいいい!!!!!」
 
 もう腹ははちきれんばかりだというのに一気に飲み干してしまった。
 舌を伸ばして瓶から垂れる雫を丁寧に舐め取った。
 
「ねえねえ! モモタロウくん! すごくおいしいよ! ねえねえ! すごいよ! おいしいよ!」
「え。急になに。いや判ったから」
 
 入っていた容器の口をぐいぐいとモモタロウくんの頬に押し付けた。
 
「みてみて! なくなった! ねえねえ! なくなったよ! うはははは!」
「見れば判るよ! なにいきなり態度変えて! 一服盛ったの!?」
「儂は何もしておらぬよ」
「ハハハハハハハ!!!」
 
 シュテンドウジさんは楽しそうに呑み終えた酒の容器の中で泳ぎ出した。
 それが凄く気持ちよさそうで、私も一緒にやりたかったけど、今は勝負だから我慢我慢!
 
「ねーヌラリヒョンさん。これ終わったらプールいきたーい。海いきたーい。宿の横にあったよ!!」
「水路では足の先までしか入れぬよ。また今度にな」
「はあい」
 
 モモタロウくんは眉を顰めて私たちを見ていた。
 にーっと笑いかけると、更に皺が深く刻まれた。
 かわいくなーい。
 
「二人とも急に馬鹿になったんだけど……そんなに凄いのあれ」
「白鬼舞酔は妖……とりわけ鬼の舌に合わせてつくられた上等な品だ。猪口一杯で気持ちよく酔えてな、すぐに眠くなり極楽浄土の夢を見るという」
「死ぬってこと!? ちょっと主《あるじ》さんだけは起きて! 鬼は一生寝て!」
「なあに? 次用意してねー」
 
 変なの。
 焦らなくても、さっきよりもいーっぱい早く呑んでるんだから。
 
「おれが勝った! 勝っただろ!」
 
 シュテンドウジさんは樽とお話ししてる。
 メルヘンかわいいー。
 
「モモタロウはこの勝負、どちらに分があると思っていた?」
「え。……そりゃ鬼だよ。不本意だけど」
「儂も当初はそう考えていた。だが今の両者を見てどうだ」
「主《あるじ》さんは急に馬鹿になって、鬼は……これいびきじゃない?」
「そうだ」
「ねえ、次のお酒はー?」
 
 ヌラリヒョンさんから三つお酒を貰い、私は順に手を付けていく。
 シュテンドウジさんは眠っちゃったみたい。
 
「シュテンドウジは酒好きだが人並みに酔いもする。一方娘は白鬼舞酔でようやく酔いが回ったところだ」
「ほめてるー?」
「うむ。其方は凄いなあ」
「えへへ。ヌラリヒョンさん好き」
「でもずっと黙りこんでたよね。あれ酔ってたからじゃないの?」
「みてみてー。お腹ぱんぱんなのー」
「見せるな。あれは満腹だっただけで、ずっと素面だったの?」
 
 おへそが苦しいよーとしてるところ、せっかく見せてあげたのにしまわれちゃった。
 
「白鬼舞酔の誘いには種族関係なく抗えぬものなのだがな。……まさか其方がこんな特性を有しているとは知らなんだぞ」
 
 何故か知らないが撫でてくれた。
 やったー。
 
「意識のあるこちらの勝利だ」
「意図的に寝かすのはズルじゃない?」
「白鬼舞酔の効果も知っていて呑んだのだから文句は言わせぬ。奴の油断が招いた結果だ」
 
 片付けようとするヌラリヒョンさんに待ったをかけた。
 
「駄目! まだシュテンドウジさんが呑んだ分まで呑めてなーいよ!」
「寝ていては何も判るまい」
「ずる・絶対・だめー。ちゃんと勝って、モモタロウくんに手出しできないようにするんだからー」
 
 そもそもヌラリヒョンさんが言ったのだ。
 モモタロウくんと鬼の関係修復をしろって。
 幸い鬼をまとめる頭領は、噂と異なりまともな感性を有していた。
 特に仲間の鬼に対する情の厚さは目を見張るものがある。
 ならば力押しや狡猾な策を弄するのではなくて、正々堂々と勝負をした方が絶対に良い。
 反論の隙を与えれば絶対に頭を振らなくなる。
 
「そんなことしたって感謝なんて絶対しないからね。頼んだ覚えはないんだから」
 
 そうだった。モモタロウくんがいない時に話したんだった。
 いつも通り勝手に決めてた。
 
「いーよ。私がしてあげたいだけだもん」
 
 私は実績が欲しい。私”が”したという実績。
 シュテンドウジさんやヌラリヒョンさんみたいな、頼れるリーダーにはまだまだなれないけれど、
 少しはそれっぽいところを見せて、恥ずかしくない主になりたい。
 
 ……なーんて、言ったら、モモタロウくんにまた馬鹿にされちゃうかな!!
 
 まだまだ先は遠いけれど、我慢を重ねて呑み続ければ、最後には杯が空になっているはずだ。
 がんばろう。私がやらなきゃいけないことだ。
 
 
 ◇
 
 
「シュテンドウジさんやヌラリヒョンさんみたいな、頼れるリーダーにはまだまだなれないけど、少しはそれっぽいところを見せて、恥ずかしくない主になりたーい。って、言ったらモモタロウくんに馬鹿にされそー。うはは。ねえそう思わない?」
 
 心の声がだだもれていた。本人を目の前にして。
 モモタロウはすっかり固まっているが、お構いなしに続ける。
 
「モモタロウくんはいい人だから。嫌なところもあるけど。真っ直ぐで他人のために動けるところ、凄いんだから。鬼さんたちには悪いけど、モモタロウくんのことあんまり悪く思わないで欲しいなあ」
 
 身体の芯がなくなったようにぐねぐねと動くと、そのままバランスを崩してモモタロウにもたれかかった。
 大きく開いた合わせからは三角形の闇が見えていた。
 控えめな胸でも押しつけられれば形が変わるくらいにはある。
 
「わ、判ったから離れてよ。勝負中でしょ」
 
 モモタロウは慌てて両肩に手を当て剥がさんとするが、酔っ払いはいやいやと拒否する。
 そのせいで更に素肌がちらちらと露わになる。
 力の限り押し返すことは可能だったが、下手に触れて大事故に繋がることは避けたかった。
 
「ちょっと! たちの悪い酔っ払いなんとかしてくれない?」
 
 やれやれとヌラリヒョンはのっそり立ち上がると、ナナシの肩を数度叩いた。
 それだけで流れるようにヌラリヒョンの脇へ座った。
 自然過ぎるその行為がモモタロウの胸をざわつかせる。
 
「……少し、耐えてもらうぞ」
 
 ヌラリヒョンはそう言って浴衣の中に手を滑らせると、乱れた浴衣がたちまち形を取り戻す。
 モモタロウには出来そうで出来ないことだった。
 
「もう少し警戒心と配慮を抱いてくれると、こちらとしてはありがたいのだがな」
 
 苦笑する。それにはモモタロウも同意だった。
 信頼してくれているのは伝わってくるが、所詮他人は他人である。
 ナナシからすれば最上級の親愛なのだろうが、それはモモタロウにとって不都合だった。
 
 (でもヌラリヒョンさんには、やっぱり少し違う気がする)
 
 隣にいると嬉しそうに、でも恥ずかしそうに後ずさる。
 立ち位置がほんの少し前後しただけで、大きく表情を変えて喜怒哀楽を見せた。
 自分には見せない恥じらいの差が気になって仕方がなかった。
 
「さて、儂は酒の調達を頼んだ者どもに勝負の終わりを伝えてくる。
 ……なに、すぐ戻る。
 其方もシュテンドウジを下す気ならば、そろそろ取り組んだ方が良いのではないか」
「はーい」
 
 ヌラリヒョンが中座すると、言われるままに酒との取り組みを再開した。
 二人きりになったモモタロウは茫々とした心を手で払いのけるような気持ちでナナシを咎めた。
 
「最近だらしないよ。そうやって隙見せるから鬼に付け込まれるんだからね」
 
 声は、隣の部屋まで届いていた。
 困惑していた主が漏らした、上擦る呼気が聞こえた途端、身体が熱くなるのが判った。
 すぐに斬り捨ててやろうとしたが、ヌラリヒョンに止められていた。
 息を殺して耐えていると、急に話の方向が変わり、襖が開けられ下らない勝負が勃発した。
 
「私はちゃんと服着てるよー。モモタロウくんみたいにお腹出した格好してないからね!」
 
 そういう問題ではないのだ。
 もどかしくて頭を抱えた。
 
「……い、嫌でしょ。僕に見られたり、触られたら」
 
 絞り出した声が聞こえたのか、聞こえなかったのか、しばらくぼうっと考えてから笑顔を見せた。
 
「しょうがないときもあるよ!」
 
 違う違う違う違う。
 欲しいのは、そういう信頼ではない!
 
 
 ◇
 
 
「あ、おはようございます。シュテンドウジさん」
 
 私がかけた蒲団をずらし身体を起こしたシュテンドウジさんが不思議そうにこちらを見ていた。
 空の杯を前にする私と、周囲に散らばる酒の残骸たち。
 しばしの逡巡の後に目を見開いた。
 
「おまえ……これ……」
「僅かに湯呑一杯ではありますが、あなたの酒量は超えさせて頂きましたよ」
 
 張りさけそうな腹が限界を訴えて、私は一時何も受け付けなくなった。
 シュテンドウジさんの壁は高く、心を無にして飲むべきところを杯を見つめてばかりで一向に進まない。
 途中には嚥下に疲れた喉がストライキを起こして、思わず涙が出ることもあった。
 二人はやめていいよとは言わなかった。
 正々堂々とやることを決めた私が、安易に逃げに走らないようにしてくれていたのだろう。
 私は自分の肌を抓りながら一睡もせず、シュテンドウジさんが嗜んだ酒の量を無事に超過した。
 
「見ての通りだ。其方が寝ている間に呑み続けて其方の記録を上回った。
 娘の勝利で異論はあるまい」
 
 むくんで重くなった瞼をぴくぴくとさせながら、私はシュテンドウジさんが負ける瞬間を待っていた。
 
「……認めるわけねェだろ!」
 
 気付いた時には、鉄の塊をぶつけられたような音がすぐ目の前で鳴った。
 ああ、私は殴られたらしい。当たらなかったけれど。
 
「私が夜通し起きていたことは、他の宿泊客が知っています。
 お酒を運び続けてくれた妖たちも。不正を疑うならば思う存分確認してください」
 
 "あの"シュテンドウジさんと睨み合う。
 相手の土俵で、不正なく勝ったのだから、絶対に認めさせる。
 初めての酒で身体の容量以上を呑んだ苦労を無駄になんてさせるものかと、意地もある。
 そして、ふと、シュテンドウジさんがその場に座った。
 
「おれのことは好きにしろ。けど、山の連中には手を出すな。それが認める条件だ」
 
 鬼の頭領は、最後まで仲間たちを守る道を選び続けた。
 あまりに気高いその姿に、まるで私が悪役になったような気がした。
 
「勿論。私は鬼のみんなには良くしてもらいましたから」
 
 ほっとしたのか、はああと疲れた溜息をついた。
 
「なら、勝手に勝っとけ。……お疲れさん」
「ありがとうございます。……じゃあ、おやすみなさい」
 
 私は数時間前に入る予定だった蒲団に潜り込んで目を閉じた。
 多分すぐに寝たのだろう、しかしその後寝苦しさによって起きた。
 みんみんとうるさく鳴きわめくセミたちが寝不足の頭に響いてくる。
 夏は昼寝に不向きだ。
 やかましい中でも二人は手足をむき出しにしながら眠っていた。
 同じく徹夜に付き合ってくれた二人には後で礼を言おう。
 とりあえずこの破裂しそうな膀胱を宥めに厠へ行き、帰りにシュテンドウジさんに会った。
 
「えっと、こんにちは、ですかね?」
「おれは負けは認めたが、おまえを頭とは思ってねえ。認められたきゃ上等な酒をじゃんじゃん貢ぎな」
 
 負けたとは思えない強気な態度に思わず声に出して笑った。
 
「努力します。だから、モモタロウくんのこと、見逃してもらえませんか」
 
 規模は違うが私たちの考えは同じで、要求するものも同一だった。
 
「……大江山の鬼だけだ。おれの子分以外の鬼はどうしようもねェから諦めろ」
「十分です」
 
 そう簡単なものじゃないのは最初から判っていた。
 大江山の鬼でさえモモタロウくんへの殺意を完全に抑えるのは難しいだろう。
 私側も、あのモモタロウくんを完全に御せるとは思っていない。
 今回大江山へ乗り込んできた時のように、彼の正義に理解を示しているから止めるのが難しいのだ。
 
「もう一つ言い忘れてたぜ」
 
 シュテンドウジさんは私を壁と挟んで、どんと顔の横に手を置いた。
 逃げ場を失った私は見上げるしか出来なくて、どきっとする。
 
「……おれが負けたこと、ぜってぇ山のヤツらに言うなよ」
 
 何度も瞬きをした。理解に時間がかかった。
 じわりじわりと笑いが込み上げてくる。
 
「はい。言いません。全部秘密です!」
 
 せっかくかっこいいと思ったのに台無しだ。
 そういう隙が他のひとに好かれるのだろう。
 私も心から笑った。
 
「ならいい。んじゃ、今から酒買いに行くぞ!」
「行きませんよ!! もうお酒なんて飲みませんからね!!!」





(2023.06.03)