プリントとノートを持って、誰かの自宅へ訪ねるのは、小学生以来だ。
DTOから渡された地図で逐一確かめながら、サユリは見知った街を歩く。
地図に描かれた矢印は学校から始まり、数度の方向転換を経て、ある女生徒の家を指していた。
これを手渡される際、DTOは言った。
「この紙を持っていれば、多分、大丈夫だと思う。うん。多分。
お前なら、きっと。うん。多分。辿りつけないようなら、今日は止めておいた方が良い」
多分、と三回言った。
自宅へ向かう事のどこに不確定要素があるというのか、甚だ疑問であった。
一切の事故はなく、途中で迷う事もなく女生徒の家の門に到着したので、結局DTOの真意は判らずじまい。
門から覗き見ると、庭には鬱蒼と生い茂った木々で埋め尽くされていた。
しかし、門を開くと目の前に一直線の茶色い道が現れ、玄関までの標となった。
奇妙な家ではあったが、サユリは驚いても、恐怖することは無かった。
縁者がいない女生徒が身を寄せるのは、特異な者であったからだ。
並ぶ者のいない強大な力を持ち、賞賛を並べつくせない程偉大な、世界を総べる、もの。
「お。久しぶり!
なあなあ、こっちの服とこっちの服どっちがカッチョイイ?」
神、と称する少年は種類の違う奇抜な服を持って、インターフォンを押したばかりのサユリに迫った。
「え……と、こっち、ですかね?」
「そう?じゃ、次はそっち着よ!」
サユリの価値観では、どちらも奇抜すぎて甲乙がつけられず、
適当に選んだだけであったが、質問者は満足そうにしているので、気にしなくて良いだろう。
「で、どした?何かあった?それともパーティ参加希望?」
「あの、さんの事なんですけど……。今日お休みだったから届けに」
、の言葉が出た瞬間ふざけた雰囲気が歪みを見せたが、言葉を付け加えるとすぐに落ち着いた。
世界を総べる神であるが、一人の人間だけは特別な思い入れがある。
それを良く思わない者もいるが、サユリはあまり気にしていなかった。
「わざわざサンキューな。後で渡しておくよ」
サユリは首を振った。
「直接じゃ、駄目ですか?」
MZDは呆気にとられた顔をした後、渋い顔となる。
「オレとしては良いけど……。アイツが」
「無理を言ってすみません。預けるので渡してあげて下さい」
了承を得られるとは思っていなかったが、一縷の望みをかけた。
だがやはり、想像していた通りの返答だ。
即座に撤回し、渡すべき物をMZDに半ば押し付けると、凛とした声が耳に届いた。
「何をしている」
黒神から放たれた声の大きさは普通であったが、何者もを従わせる圧力を感じた。
言葉を探している間に、MZDが説明する。
「にノートとプリント持ってきたんだって。
でさ、に会いたいって言ってんだけど、どんな?」
恐らく、拒絶するだろう。聞かなくても判る。
「構わない」
予想に反した返答に、サユリは思わず聞き返した。
「え?」
「だから、構わないと言った。家にあがっても」
黒神は背を向け、振り返った。
「どうする。来るか、来ないか」
「い、行きます」
押し付けたノートやプリントを引き寄せ、サユリは足早に後を追った。
廊下に接する扉の一つに手をかけたままの黒神がいる。
サユリが追い付くのを待ってから開く。
内部は家の中の一室にしては、あまりに広かった。
サユリの私室の二倍か、それ以上のリビングである。
ソファーに導かれて座ると、ずしりと沈んで反発した。
神の住居なのだから、家具も高価なのだろうかと緊張していると、紅茶が給仕された。
「ヨウコソ」
「おお邪魔、します!」
「ごゆっくりドウゾ」
深々と頭を下げた影はふわりふわりと、デスクについた黒神にもカップを差し出し、奥の台所と思しき場所へ引っ込んだ。
「なんだが、今はここにいない」
「そんなに酷いんですか……」
DTOからは、風邪で欠席と聞いていた。
在宅ではないと聞いて、入院の文字が過る。
「呆れるくらいにな。外で余計な事ばかり貰ってきて……」
「学校は人が多いですし、厄介な病気をうつされてしまったんですね」
「ああ、誰から学んだんだろうな。サボリなんて」
「……え?」
サユリは思わず聞き返した。
「心配してくれた事、代わって謝罪する。本当にすまない」
「い、いえ……。それは全然。元気ならそれが一番です」
「しかもわざわざ持ってこさせてしまって」
「私が勝手にした事ですから、お気になさらないで下さい」
すまなそうに頭を垂れる神に、サユリは申し訳なく思った。
自分は世界の統治者に頭を下げさせるような身分ではない。
「すまないな。それで肝心のだが、そろそろ帰ってくる筈だ。
少しだけここで待ってもらえるか」
「はい、御迷惑でないなら」
「迷惑なんて思ってないさ。寧ろ感謝している。に関わってくれて」
以前教室で見せたに向ける笑みほどではないが、黒神は柔和に笑んだ。
慣れぬ人との二人きりの状況に緊張していたが、少し楽になる。
「それで、だ。俺は君に感謝している。きちんと礼がしたい。
何か一つ望みを叶えてやる。保護者として、そして、神として」
予想外の言葉に、サユリは言葉を失った。
友人の見舞いに来ただけなのに、まさか神が願いを叶えてくれようとは。
まるで、おとぎ話だ。お話ならば対価が発生するはずだが。
「内容はなんでもいい。……あまり無茶でなければな。
俺を殺すとか、死者蘇生とか、過去の改ざんとかは承諾しかねる。
世界恐慌を起こしたいとか、大飢饉を起こしたいとか、世界征服がしたいとか、
MZDをシメたいとか、そういう事なら可能だ」
淡々と語られる選択肢は現実味が一切無い。
「今すぐに、とは言わない。ゆっくり考えれば良い」
黒神は熱い紅茶をすすると、小さな声をあげた。
口を押えているので、火傷したのかもしれない。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。これくらい」
台所にいた影がそっと顔を覗かせているが、サユリは気づいていないふりをし、ゆっくり紅茶を口にした。
紅茶の良し悪しは判らないが、良い香りがする。
堪能している事をアピールすると、すぐさま影が背後を通り過ぎ、黒神の元に駆けつけているのが気配で判った。
このまま気づかずにいる方が、二人にとって好都合だろう。
黒神への世話を終えた影が台所に戻った時、安心感と共に焦りが生じた。
願いを叶えると言っていた件だ。断るタイミングをすっかり逃してしまった。
最悪このまま何も言わないと言う事も出来るが、それは失礼だろう。
あまり、印象を悪くしたくない。
神だからではなく、友人の親(?)だからである。
なにか簡単な事、それも黒神が気を使わないような願いを叶えてもらって、この件は終わりにしたい。
黒神や影はそれぞれ作業を行いサユリに話しかけてこなかった為、熟考する事が出来た。
一口一口と飲んでいたカップが空になるまで、約十分。
しかし全く考えがまとまらなかった。
サユリも人間である。欲は勿論あるが、いざ満たされる場面に直面すると一つに絞りきれなかった。
黒神に気を遣わせないようにする必要がある事も困難にさせる要因である。
「さっきから随分悩んでいるが大丈夫か?」
「はい。大丈夫です」
いっそ「やはりさっきのは白紙で」と言ってくれる方が楽だ。
対価を望んでといるわけではない。
最初は義務感であったが、今はただ楽しいから傍にいる。
それに感謝はあっても、礼というのはおかしくないだろうか。
だが、それを言う事も躊躇ってしまう。
サユリはどんどん深みに嵌っていった。
「なあ」
思考が遮断され、思わず肩を震わせる。
「……沈黙より、下手でも何か話していた方が良いか?」
気を使っているようだ。
本人が沈黙を望むなら、沈黙でも構わないいサユリであるが、ここは。
「差し支えなければ、お話でも良いですか?」
「アイツのように話術に長けていない事を留意するならば構わない」
これで会話のきっかけが出来た。
流れの中で、先ほどの件を断ろう。
サユリはまず、共通の話題を出した。
「さんは、最近どうですか?」
「厄介事に首を突っ込む能力をのばし続けている。
全く。無鉄砲で好奇心旺盛な所には手を焼く」
「学校では大人しいんですけど」
ある程度。
「それが本来のだが……。余計な玩具を手に入れてから行動的になってしまった」
玩具が何を指しているのかは判らない。
ギャンブラーと関係ないのだろうか。
「さん、毎日楽しそうですよね」
「それも喜んでいいやら、悲しんでいいやら。
が幸せならそれで良いと思っているが、長期的に見ても幸せかといえば違うからな」
「でも、黒神さんといる間は大丈夫ですよ。さん、いつも言ってますから。
黒神さんと一緒にいられて幸せだ、と」
媚びたわけではない。事実だ。
だが、こちらの想像する以上に黒神は表情を変えた。
「そ、そうか。が」
真一文字の唇が歪み、小刻みに動き続ける。
口角だけが異様に吊り上がっていた。
「とても仲が良いんですね」
「ま、まあ、家族代わりだから、な。それなりには」
それなりと評すのは謙遜だろう。
以前見たに対する態度は、血の繋がった家族でもなかなか見られない。
その溺愛ぶりは、少しだけ羨ましいものがあった。
サユリの家族間に問題があるわけではなく、一般的には仲が良い家族であると自称するが、
それでも、と黒神の間には自分が持っていない何かを感じる。
「本物の家族ではない分、絶対に不自由させる気は無いし、孤独を感じさせる気もない。俺が出来る事は何でもする」
強い決心が見受けられた。
二人は過去に何があったのだろう。
未だに接点が判らない。自身忘れたと言っている。
「黒神さんは、どうして、さんと住むようになったんですか」
話しやすい雰囲気だったので、ふっと疑問を投げかけた。
しかし、黒神は少しだけ沈黙する。
「……昔、偶然会っただけだ。それが何かの拍子にポンポン進み、今に至る」
口が重い。サユリは別の話題を振る前に、黒神が振った。
「前から気になっていたが、君は平気なのか。俺やと関わる事」
「平気、とは?」
「一応、人間じゃないんだが。その傍にいるは人間だが」
この疑問は当然の事だろう。
そのせいで、は人の世では浮いた存在となっている。
下手な嘘を言うのではなく、正直に伝えた方が良いだろう。
「私は、初めてお会いした時怖いと思いませんでした。
さんからお話を伺ってたという事もあります。
それ以上に、本当に怖い人なら、さんに対してあんな優しく微笑むことは無いと思いました」
「……俺、そんなにの前では、その……しまりの無い顔をしているのだろうか」
「…………そ、んなことはないです」
しまりがないと言うことはない。
だが、何といえば良いのかすぐに言葉が出て来なかった。
「気を使うな。……そうか……そんなに違うのか……」
「今も、そうです」
「っ……。やりにくいな」
黒神の事を怖いと思えないのは、ここだ。
に対する深い愛情を見れば、神だろうと人だろうと違いが無いと判る。
「そのままで良いと思います。黒神さんはきっとそれが普通なのだと思いますから」
「……普通、か。俺はそんなに優しくも良い奴でもないさ」
そんなことはないと言いたかったが、
からから得た黒神像しか持たない自分が意見することは、大変失礼なように思えた。
「いい奴というのは、君みたいなことをいう」
「え」
思わず声を漏らした。
「排斥されると共にいる事は難しいだろう。
それが義務であれ、好意であれ。その他大勢の流れに逆らう事は容易くは無い」
確かに、大多数の意見に流され、問題には近づかない方が賢いだろう。
苛められる者と親密になれば、自分もまた苛められるというのが定番だ。
しかし、自分たちは高校生であり、世間を知り自制心も持ち合わせている。
連鎖反応は今のところ起きていない。
の背後が特殊である事が少なからず影響しているだろうが。
「……黒神さんからはどうして、そのように見えるんですか?」
「に対する行動もそうだが、あとは……見た目、だな。
人の頼みを断れない、損な性格をしているように思う」
神故の能力かと思いきや、意外と単純であった。
「違っていたか?」
「……いえ、間違ってはいません」
「だろうな」
鼻で笑われ、サユリは肩を落とした。
自分が意志の弱い臆病者のように思えた。
「……まぁ、損をするとは言ったがそれは短期的に見てだ。
情けは人の為ならずという言葉もある。
そのうち君に何か利益がもたらされるさ。今回のように」
ここだ。
逃す事無く言葉を打つ。
「さっきの事ですが、願い事がないので、遠慮させて頂きます」
言いたいことが言って胸を撫で下ろすと、黒神は驚いたように言った。
「最近の若者は欲がないんだな」
おじさんのような言いぶりに、思わず笑った。
「そう言うなら構わない。だがいいのか、こんな事一生に一度もないぞ」
「さっき考えても全然出てこなかったので……」
「ふうん。そうか」
気分を害した様子は無い。ただただ不思議そうであった。
「俺でも願い事くらいあるものだがな」
「神様なのに、ですか?」
「神だからこそ、かもな」
なんでも出来る立場にいる筈だが、何が満たされないのだろう。
少し幼く遣る瀬無い横顔が、サユリは不思議でたまらなかった。
自由があり、力があり、家族がいて、主だった幸せは全部手にしていると言うのに。
に対するあの表情は嘘なのか、何か意味があるのか。
余計な事を勘ぐっていると、MZDの家と通じる扉が開いた。
「ただいま。あれ、サユリだ」
「っ、さん。お邪魔しています」
急いで頭の中身を隅に押しやる。
「プリントとノート持ってきたよ」
「え。……ありがとう……ごめん」
「気にしないで。風邪でなくて良かった」
「う。……重ね重ね、ごめんなさい」
声に十分な張りがあり、いつもより大ぶりな動作を見ると、本当にサボリらしい。
「もしかして、結構待ってた?」
「ううん、そんな事ない。少しだけ」
「ごめんなさい……。黒ちゃんも、言ってくれればすぐ帰ったのに」
「俺に内緒で外出してなければ、そうしたんだがな」
どちらに向いてもの分は悪いようだ。
「そうだ。折角だからもう少しここにいて。
美味しそうなお菓子を貰ったのだ」
は手にしていた長方形の箱を二人に見せた。
「影ちゃん、お願い」
「ハイ、じゃあ手洗いとうがいをいましょうネ」
「はーい」
別の扉を開いては手洗いへ行った。
畳みかけられてしまい、サユリは帰るタイミングを失った。
時間はまだ余裕がある。折角なので、もう少しいさせてもらおう。
ソファーに座り直し、ふと黒神を見ると空箱をなにやらじっと見つめていた。
「甘いものは苦手ですか?」
「いや、そうではない」
難しい顔をしたまま、黒神は箱を台所に置いてきた。
メーカーでも気になるのだろうか。
と思っていると、が現れ、切り分けたロールケーキを持った影が机へと並べていった。
三人で味わいながら、サユリは黒神とを見比べた。
二人とも美味しそうに口に運んでいる。あの時の黒神の表情は何だったのか。
判らぬまま、三つの空皿が机に置かれた。
「ちょっとクリームついちゃった。サユリも行こ」
強引にに連れられ、洗面所に来た。
はちらりと扉を確認して、声を潜めた。
「……黒ちゃんといて大丈夫だった?」
「何もないよ。少し雑談をしたくらい」
「そっか」
安堵の表情を浮かべると、はソープを手にのせた。
汚れてはいないが、自分も同様に手を洗う。
の心配には目を剥いた。てっきり黒神と二人でいた事を咎められるのかと思った。
ここに案内されてから、黒神はサユリに気を使い、丁重に扱われ、何も問題は起きていない。
少し怖い印象はあるかもしれないが、黒神がが心配するようなことをするとは到底思えないのだが、
この反応を見るに、黒神には別の面があるのだろう。
家族だからこそ、知っている事もある。
サユリの前に現れる黒神はきっと、今のままで、ここから変わる事は無いだろう。
所詮は友人の保護者でしかないのだから。
「あ、ついでだから教えるね、あっちがトイレだよ。平気?」
「大丈夫だよ。それに、そろそろ帰るから」
「そっか。ごめんね、遅くて」
「気にしないで」
普段とは異なる、黒神との二人(影を入れて三人?)という状況で、黒神に対する印象が少し変化した。
の言う通りの人ではあったが、自分で見聞きするとまた違った像が浮かんだ。
MZDと同じ神でありながら、どこか影のある黒神。
見た目こそ自分たちと同じであるが、神の性質もあって年上に思う。
教室で関わる男子とはまた違った雰囲気を持ち、自分に向ける言葉の柔らかさが心地よい。
あまり接する事のないジャンルの人との交流は、怖くも楽しかった。
「黒ちゃん。サユリ帰るって」
「そうか。なら送る」
黒神はソファーから腰を上げた。
「いえ、お気遣いなく。道も覚えてますから大丈夫です」
「あのなぁ、こんな時間に女の子一人歩かせられるわけないだろう」
呆れに混じって、苛立ちが見える。
思わず「すいません」と謝ると、慌てたように取り繕った。
「すまない、そんなつもりじゃ。
俺はただ、サユリはもっと大事にされて良いものだと言いたかっただけで」
言葉を探して唸った黒神は、ぱっとサユリの手首を握った。
目の前の光景が、黒神の家から、見慣れた我が家に変わった。
送ると言っていたが、人間のサユリが思う方法とは全然違っていたようだ。
二人で歩く事にならずに済んだとほっとする一方で、拍子抜けたような、残念に思う気持ちが少しある。
「……に変に思われたか」
立派な神様が世界の滅亡に立ち会ったような顔をするので、
黒神には悪いがサユリはまた笑ってしまった。
「大丈夫ですよ。明日様子を見て、フォローしますから」
「あ。ん。……恩に着る」
本当に、この神様はをとても大事に思っているらしい。
そんな人間らしい所に親近感を覚える。
「帰って、自分でも一言二言言っておくつもりだ。
大丈夫だとは思うが、何かあれば……その、宜しく頼む」
「はい。私も大丈夫だと思いますけれど、念の為」
きっと、は何も感じないだろう。
二人でいた事に対し、サユリを心配していたくらいだ。
見た目が少年のような青年のような黒神なので位置づけが判らなくなるが、
にとっては、黒神の事は正しく保護者として見ているのだろう。
「……では、俺は失礼する」
また、先ほどのように瞬間的に移動するのだろう。
その前にとサユリは口早に伝えた。
「また届けに来ても良いですか」
「……ああ。が困るだろうからな」
そう言って、を猫可愛がりする神様は消えた。
サユリは無自覚に、軽いステップで家族のいる我が家へと帰った。
fin.
(15/01/07)