つまんだくちびる

そのお客はいつも同じ格好で十五時に来店する。
シングルの二ボタンの白いジャケットに白いスラックス。
シミ一つなく、手垢で薄汚れた箇所もない。おろしたてのようにパリっとしている。
全身を白で覆われている中、蝶ネクタイと傘が黒いのがやけに目立つ。
男はカウンターの真ん中の席に座るとメニューを見ずに注文する。

「エスプレッソを一つお願いします」

注文内容は毎日変わらない。
新しいカップが届いた日からだから、彼此二週間も続いている。
彼は静かに飲み干すと、マスターと少し言葉を交わし、大体三十分から一時間滞在する。

「マスター、あのお客様またいらっしゃいましたね」
「気に入って頂けたのなら嬉しいですね」

この店は立地は悪くないと思うが、あまりお客は来ない。
軽食をやっているので、昼時はチラホラと増えるが、たかが知れている。
食事時を過ぎると、客はまばらになり、夜には一旦閉店する。
夜にはバーとして回転し、営業責任者も息子夫婦へと変わる。
昼と違い、夜は繁盛しているとの事。
そのお陰でマスターは利潤を求めて、目を血走らせる必要はなく、気ままに営業することが出来ている。
店の中は現実と断絶された、優雅な時間が流れており、忙しい生活を送る人たちには好評を得ている。
客の殆どがリピーターとなるのだから、相当だろう。
きっとエスプレッソばかりを頼む白い男も、多分その一人だ。

「こんにちは」
「いらっしゃいませ」

今日も男は、真っ白なスーツで来店した。真っ直ぐカウンターに向かう。
注文内容は判っている。

「今日もエスプレッソがおすすめです」
「では、それをお願いします」

にこやかに笑む男は、とても感じが良く、接客するこちらも気分が良い。

「かしこまりました。マスター」

マスターは黙って頷いた。その手元には既に道具が用意されている。
注文を受けたのだからすぐに作っても良いのだが、そうではない。

「随分、ご機嫌なご様子で」
「ええ、色々と上手くいったもので」

軽い雑談をしながら、マスターは相手の様子を観察する。
元気か、嬉しいか、辛いか、寒いか、疲れているか。
一言二言のやり取りの後、作業を始める。
同じ注文であっても、お客様の気分や体調で毎日味が変わるコーヒー。
それが的確だと、お客様から好評であり、私も尊敬している。
そんな人の傍で技術を少しでも物に出来ればと思うが、なかなか難しい。
私に出来るのは、注文をとったり、雑用をする事だけだ。
だから、お客様との会話もしない。
お客様の目当てはマスターのコーヒーであり、マスター自身である。
私はその手伝いをしているだけなので、出しゃばる事はしない。
従業員として、マスターとお客様の会話に耳を傾け、お客様の様子を観察するに留めている。
お客様は十人十色であるが、白スーツの男はその中でも群を抜いて不思議であった。

まずは、純白のスーツ。
白いスーツは祝い事以外では着てはいけないと言う決まりはないが、
やはり汚れやすく、始終振るまいに気を使わなければならないので、常人なら持て余す事だろう。
私には想像もつかない、悠々自適の生活を送っているのかもしれない。
二つ目、これが一番気になっている事だ。
普通、エスプレッソは砂糖を入れて飲むものである。
酸味、苦味に、甘味を加える事で、デミタスカップの世界は完成する。
しかしながら、彼はいつも入れない。
砂糖の量はお客様次第であり、溶かすも最後に食べるのも自由であるが、
全く入れないのはあまりいい気分がしない。
不完全な物を飲んで満足して欲しくなかった。
マスターのコーヒーを毎日飲みに来てくれるからこそ、強く望んだ。
そんな歯痒い思いが抑えきれず、ある日、本人に聞いてしまった。

「砂糖。いつも入れないんですね」

珍しく話しかけた私を少し驚いて、彼はゆっくりと笑んだ。

「悪魔の飲み物ですからね」

返答の意味が判らないのは私だけだった。

「昔の人は行く末を感じ取ってしまったのかもしれませんね。
 これが民衆に広まり、その魅力にとりつかれ、生活を支配されてしまうと」

まだ飲み込めていない私の為にマスターは続けて説明した。

「以前は、異教徒によってもたらされた飲み物故に、悪魔の飲み物と言われたのですよ」
「教皇がコーヒーの美味さを認め、わざわざ洗礼を行ったお陰で、こうして日常に飲めるようになったんです。
 その判断に感謝しなくてはなりませんね。でなければ、私がこの店を訪れる事も、
 お二人にお会いする事もなかったんですから」

どうやら、コーヒーの歴史の話だったようだ。
お客様から知るなんて恥ずかしい。もっと勉強しなければ。
このお客様はコーヒーだけでなく様々な事を知っているので、学ぶことは多い。
横で聞きながら、感嘆の声を漏らしそうになる事もしばしば。

「貴女は淹れないのですか?」

と、ふいに尋ねられた。

「私はお客様に飲ませられるような腕をしておりませんので」
「そうですか。なら飲んでみたいですね。今日にでも」

流れがおかしい。お断りしているのだが。

「お客様に出せると胸をはれるようになりましたら、一番にお出ししますので」
「ですが、淹れられない事はないでしょう」

どう対応するのが正解なのか。
指示を仰ごうと、マスターを見た。

「やってみますか?」

マスターの言葉は意外なものだった。

「お客様のご要望です。それに普通はありませんよ。未熟な間のコーヒーを飲んでくれる方は」

その通りであるが、この店の質を下げる事にも繋がるだろう。
それでも私に淹れさせてくれようとするのは、信頼されていると思っていいのだろうか。
なら、私がすべきは一つ。

「……判りました。ですが、味の保障は出来ません」
「構いませんよ。私は貴女にお願いしているんですから」

薄い笑みが私の背を押す。私にとって、初めての、お客様。
興奮と緊張が混じりあう中で、私は道具を手にした。
練習の通りにするだけ。練習の通りにするだけ。
彼が審査する中での作業は手が震えそうになったが、私は可能な限り慎重にやった。
初めて、自分の淹れたものを、お客様にお出しする。
彼の一見不健康そうに見える手がカップに触れ、
マスターのものと同じく、香りを味わってから、飲み干した。

「ふむ。悪くは無いですよ。……ただ比べると、少し、ね」
「申し訳ございません」

やはり、お客様のお気に召されなかった。
事前に判っていても、お客様から直接評価を貰うのはショックだ。

「そう落ち込むことはありませんよ。
 毎日マスターの手元を観察している事ですし、これから上達しますよ」

何故知っているんだろう。そんなに露骨に見ていただろうか。
男は次の日から、二杯のエスプレッソを飲むようになった。

「今日はまた……。えぐみが」
「申し訳ございません……。
 お客様は苦い方が良いのかと思って、ブレンドを変えてみたのですが……重ねてお詫び申し上げます」
「いえ、構いませんよ。私が好きで飲んでいるのです」

男は辛抱強かった。
未熟な私の、時に突飛な試行錯誤にも付き合ってくれた。
一日一回、一杯に全力を注ぐこのサイクルのお蔭で、自分でも判るくらいに上達した。
マスターからも、前よりはずっと良くなっていると、有難いお言葉を頂いている。
あの人には感謝してもしきれない。

「いらっしゃいませ」
「こんにちは。今日は肌寒いですね」
「えぇ、明日は天気が崩れるそうです」

彼はいつもと同じカウンター席へ座る。
マスターと少し会話をした後エスプレッソが彼に差し出される。

「いつも有難う御座います」
「それは、こちらの言葉で御座います、お客様」

毎日顔を合わせているが、彼はお客様で、私たちは従業員。
その適度に置かれた距離でいられる関係性が心地良かった。
最近では、お客様との距離が原因で、様々なトラブルが発生し、最悪犯罪に発展することがしばしばある。
店にも責任があるが、お客様の方でもある程度の自重が必要とされる。
その点、白スーツの男は優れていた。
毎日来店するが、最初に来店した頃と同じ慎ましい態度のまま。
店の雰囲気を壊さぬ言動で、他のお客様に迷惑をかけない。
コーヒーに関しても無茶な注文はなく、一般常識をわきまえている。
当たり前の事を羅列しているが、来店を重ねた上でこれらを守る事は個人的には賞賛したい。

私がまだこの店で働いて日が浅い頃、このお店を気に入ってくれたお客様がいた。
仕事が休みだという週末に毎週訪れる方だった。
それまでは優良なお客様だったのだが、私へ話しかける事が日に日に増え、
必要以上にプライベートな事を根掘り葉掘り探ろうとした。
勿論、私も悪かった。
お客様には気に入られなければならないという強迫観念に陥り、殆ど正直に答えた。
すると、その方は勤務外にも現われ、"偶然の"出会いが毎日起きるようになってしまった。
結局私がノイローゼになり、いつの間にかそのお客様は家にも店にも現われなくなった。
マスターに聞いたが「お客様が入るのも、そして去るのも自由ですから」と言うだけだった。
だから私は気にしない事にし、その話題は二度と出さなかった。
そして、お客様と一定の距離を保つ事を、覚えたのだった。

「そろそろ、失礼しますね」

いつものように十五時にやってきた男は、いつも通り四十分程度で帰った。
カップを下げ、机を拭いていると、マスターに買い物を頼まれた。

「お客様もいませんし、お願いしても良いですか」
「はい。今すぐ行きます」

裏で着替えてから外出した。
買い出しはの内容は、洗剤であったり、布巾であったり、トイレットペーパーであったり、
一つの店で全て済ませられるようなものだったのですぐに終わった。
買い物袋をふわふわ振っていると、最近空いたテナントに人だかりが出来ていた。
彼らは皆スーツを身に着け、胸には社章をのようなものを付けていた。
新しい店が入るのだろう。大人数でいる事から今度は個人店ではなく、チェーン店なのかもしれない。
彼らが蜘蛛の子のように散った後、一人白いスーツの人が立っていた。
エスプレッソの人だ。店の外で見るのは初めてである。
そんな彼が道を歩きだしたのを見て、衝撃を受けた。
当たり前の事なのだが、彼が徒歩で移動するイメージがなかったのだ。
スーツを綺麗に保ち続けられるのだから、てっきり車移動だと思っていた。
勝手な想像で、お客様には申し訳ないが。
イメージを覆した男は黒い傘を持って、町の外れの方へ歩いていく。
あるのは、墓地だけだ。墓参りだろう。用はそれしかない。
だが、私はその答えで納得しなかった。何故だか判らない。
そして、あろうことか。
彼を、自然と足が追いかけていた。
白いスーツの男と墓地の関係性が不思議と気になり、お使い中である事を忘れて、
彼が何をするのかを見届けようとした。
墓地へ入る彼をじっと見ていると、突風が私を襲う。
肌を切るように冷たい風に思わず目を瞑ると、次の瞬間には男がいなくなっていた。
見失ってしまって残念だという気持ちよりも、ほっとした気持ちの方が強かった。
このまま追いかけていれば、私は以前のお客様と同じになっていた。
店に関係する人のプレイベートには踏み込まない。
改めて自分を戒めると、私は変える為に背を向けた。
胸が鷲掴みされるような強い衝撃が襲う。

「こんな時間に危ないですよ」

息を飲んだ。見失ったはずの彼が何故かすぐ目の前にいる。
まず謝罪しなければいけない。判っていたが、すぐには言えなかった。
言葉の出し方を忘れてしまったように。

「マスター、きっと、貴女のお帰りをお待ちしていますよ」

いつものように柔らかく笑むと、彼は身を翻し元来た道へと歩いて行った。
ゆらゆらと揺れる黒い傘が視界から消えると、ようやく身体が動いた。
しんと冷えていく身体に気を払わぬよう、私は全速力で店へ戻った。

「随分お疲れのようですが、大丈夫ですか」
「ちょっと走って帰っただけです」
「元気なのは構いませんが、汗はしっかり拭いておくんですよ」
「はい。気を付けます」

弾む息とは逆にずぶずぶと心は沈んでいく。
取り返しのつかない事をしてしまった後悔が胸を突き刺す。
どうして、気になってしまったのだろう。どうして、着いて行ってしまったのだろう。
お客様のプライベートに首を突っ込んではいけない事を、私は身をもって知っている筈だ。
なのに。
後先考えない、軽率な行動を取ってしまった自分が情けない。
自分の失態のせいで、この店のお客を一人失ってしまった事を、マスターにどう詫びればいいか。
こうなるから、お客様と程よい距離でいなければいけないのに。

次の日は憂鬱だった。
彼が訪れない事、マスターも不思議がるだろう。
しかし、彼は次の日も十五時に扉から現れた。
変わらぬ会話。変わらぬ日課。
しかし去り際だけがいつもと違っていた。

「少し、時間はありますか」

私は戸惑った。勤務中というのもあるが、十中八九昨日の事だろう。

「昼は慌ただしかったですし、一時間程休憩にしましょう。
 ついでに、買い物もお願いしましょうか」

マスターにそう言われては断る事は出来ない。
私は着替えてから表に回ると、彼は店先で待っていた。

「買い物を済ませましょうか」

言葉に迷う私に先手を打つと、私の横についた。
私の動きに合わせ、黙ったまま歩いていく。
沈黙は重かったが、話しかけずに済むことをほっとしていた。
しかし、わざわざ誘ったのだから、このまま黙って終わるはずがない。
買い物を済ませ、店に戻る途中、男が何の前触れもなく話しかけた。

「もうすっかり、冬ですね」
「……えぇ。……そうですね」

激しくなる動悸を必死に呑み込んだ。

「そういえば、あの時は何故あそこへ?」

私は何度も繰り返し練習した言葉を言った。

「申し訳御座いませんでした」
「謝る必要はありませんよ。どうして、と尋ねているだけです」

口調は変わらないが、やはり怒っているようだ。
ここは正直に説明しる方が良い。

「姿が見えたものですから、気になって……すみません」

もう一度謝った。何を言われるのかと身構えていると、男は笑った。

「それは、嬉しい事ですね」

何故、喜んぶのだろう。
私の顔に判りやすく疑問の色が見えていたからだろう、男は答えた。

「店員を崩さない貴女が、プライベートの私に興味を持っていただけて、
 何を怒る事がありましょう。寧ろ、喜ばしい事です」

言葉を失った。呆気に取られたという意味で。

「……では、行きましょうか」

今度は男の進む方へと着いて行く。向かっているのは昨日の場所のようだ。
あの墓地は町に一番近いのだが、敷地が狭いので、殆どの住民はここから少し遠い墓地に墓を建てる。
ここに眠るのは町を作った大昔の人たちばかりだ。
先導者や、建築家、土地をつくった者や、実際にここに住んだ者達。
この地は人が住むには適さない地だったらしく、町づくりは難航したらしい。
優秀で志の高い者達がやっとも思いでこの町を、町として形成したそうだ。
有名な者が多かったそうで、その道の人が墓に訪れたり、単純に観光で訪れる人もいる。
今日は肌寒いせいか、私達の他には誰もいない。
ポツポツと花が供えられている墓の間を進んでいくと、彼は墓地の丁度中央で立ち止まった。
そこには自然のままの大きな石が置かれている。ただのオブジェのようだ。

「ここに古い友人が眠っているんですよ」

首を傾げた。記念碑だとしても、大抵は何か書いてあるはずだが、周囲には何もない。

「山羊みたいな男なんですよ」

と笑う。

「乱暴ですが、意外と寂しがり屋なんですよ。それに女性が好きで」

山羊にそんなイメージは無いと思うが。
それよりも、この下に個人が埋まっているという事の方が驚きだ。
両手を伸ばした私が二人分の大きさもある石を使い、更には中央に位置していると言う事は、
かなりの重要人物なのだろう。当時のリーダーだろうか。

「ねぇ、私ってどう見えます?」

と、石の下の人物について想像を巡らす私に、男が突然尋ねてきた。
私は思考を一旦止め、彼を上から下まで視線を這わせ、思いついたことを言った。

「トカゲ。可愛くない方の」
「……何故?」

相手は余程予想外だったのか、お店では見た事のない顔をしている。

「体形、かと」

すらっとしている体躯。
スーツの下はそれほど体つきが良いとは思えなかった。
袖口から延びる手も、厚みがなく、そして血色があまり良くない。

「一応持ち上げてくれるかと思いましたよ。自分で言うのもなんですが、常連の客ですし」
「店の外ですし、枠にそれ程拘る事もないかと」

あれ、と思った。昨日墓場に着いてきた際は、従業員と客である事で苦悩した。
店の外でも立ち位置を変えてはならないと。
するりと出た言葉は、その反対に位置しており、自分の考えに動揺した。
男に気分を害した様子は無く、ほっとしていると、ふいに耳元で囁かれた。

「例えば、こうする事もなんらおかしくないですよね」

パーソナルスペースを侵された事への警告音が鳴り響く。
顔の近さに総毛立ち、何をされるか察して逃げた。
心臓が内側からハンマーで乱打される。男は笑っていた。

「では、私はこれで失礼します。お付き合い有難う御座います」

次の日も、男は変わらず訪れた。
昨日の事も、彼にはなんて事でもないようだ。
それが腹立たしい。こちらは、あまりの気の重さにギリギリまで出勤を渋ったというのに。
ぼうっとしているとマスターから指摘も受け、渋い顔をされた。
その原因が、こんなにもいつも通りにエスプレッソを口に運んでいて悔しい。
男の後に来たお客様へ注文のコーヒーを運ぶと、つい蹴躓いた。
カップの中はこぼれてはおらず、お客様も「気にしなくていいよ」と声をかけて頂いた。
だが、とうとうマスターは決断した。

「今日は帰りなさい」

柔らかな口調であったが、有無を言わさぬ強さがあった。
ここは、人がくつろぐためのカフェであり、お客様の心を煩わせる事は厳禁。
今日の私では、細やかな気配りをする事も、静かな環境を整える事も出来ないだろう。

「……すみません」

申し訳ない気持ちを下げる頭の深さに込め、私は着替える為に裏へと戻った。
小部屋に一人佇むと、重苦しい溜息が口をつつく。
ここ数日、私はどうしようもない。
最初はお客様のプライベートに興味を持ったこと。
二つ目は自分を制御できぬまま店に出た事。
どちらも、客商売としては致命的である。
自分の店なら自業自得で済むが、ここはマスターの店であり、夜には息子夫婦の店となる。
時間帯で責任者が変わるとはいえ、お客様は同じ店と認識しているだろう。
昼の不評は夜にも繋がる。
考えれば考える程、自分の失態と甘さが憎らしい。
そして、自分が日々築き上げてきたものの小ささに落ち込んだ。
不器用な私は、愚直に真面目にやるしか能がない。それだけでやってきたのに。
自分から禁を犯して、信用を落とすなんて、どうかしている。
頭を冷やそう。裏口から出て、明るい通りへと出ると、あの男が立っていた。

「マスターに頼まれまして。貴女を家まで送るようにと」

勿論気は進まない。原因は自分だが、端的にはこの人も関係がある。
だが、マスターに頼まれたとあれば、断ることは出来ない。

「お手を煩わせてしまい、申し訳御座いません」
「構いませんよ。私はただ、気に入っている店の従業員が
 早く不調から脱して欲しいと心より思っているだけです」

私たちは黙って歩いた。話す気分ではないので丁度良い。
視界の中に入る白すぎるスーツが、気を重くさせる。
あれはからかっただけだとは判っている。
だが、数年前に恋人と別れてから、仕事以外で男性とは離れていたせいか、やけに動揺した。
初心な少女なんて歳でもないというのに。
今の私はコーヒーへの恋でいっぱいだ。
情熱もときめきもあるが、相手は難攻不落で歩み寄って来てくれる事は無い。
いつもこちらから、アプローチをするのだが、甘い顔を見せてくれる事はなく。
それでも、好きだから毎日根気よくアプローチを重ねている。
そのせいか、自分から近づくこうとする事は出来ても、近づかれる事をすっかり忘れていたのかもしれない。

「ここまでで、大丈夫です」

家の目の前で、私は口を開いた。男は何故か首を振る。

「そういうわけにはいきません。お連れしましょう」
「いえ、お客様にそういう事は。それに、ここまで来ていますし」
「いいえ、私には責任がありますから」

あと数歩で玄関である。介助の必要はない。
ここまで頑なになる理由は何がある。
有り得ない、とは思うが、下心でもあるのだろうか。昨日の事もある。
ちょっとやそっとじゃ引かない態度が、怖かった。
彼の丁寧さや誠実さが、優しさとは無縁のもののようで。

「結構です。ご心配をおかけして申し訳御座いませんでした」

口早に唱えながら玄関へと向かうと、手首を掴まれた。
男の体温の低さとは対照的に、肌が焼けたように熱くなる。
この熱には遠い日に覚えがある。だが、そんなはずはない。
私は彼の事をそう思ってはいない。ただのお客様。
そして、今、少し気持ち悪い、怪しいと思っている相手だ。

「悩んでおられるようですが、その原因、お教えしましょうか?」

背筋がぞくりとする。気色が悪い事を言う人だ。
私は無理やりに彼を振り切ると、そのまま視界が暗転した。
気づいた時は、時計が十八時を示していた。

「お気づきになられましたか」

一人用の小さなテーブルには、あの男がいた。
私の部屋に不釣り合いな真っ白なスーツのままの彼が。
自宅にいる理由が判らず、私はふらつく頭を抑えて過去を遡った。
店を出て送られた。その後、が全く判らない。

「貴女も随分鈍感なんですね。マスターは勿論、私も気づいていたのに」
「……なにが、です?」

男は心底呆れた顔をした。

「……いえ、ですから、貴女昨日からずっと、いえ、一昨日から怪しかったですが、体調を崩していたでしょう?
 まさか、全く気付いていなかったんですか?」

体調が、悪い。指摘されても、私は判らなかった。
一昨日といえば、買い出しに出た日だ。
いつも通り仕事は出来ていたし、咳や喉の痛みもない、身体もよく動いていたと思う。

「顔は普段より赤く、相槌も単調、決定的だったのは、淹れて下さったエスプレッソですね。
 折角良くなってきたというのに、一昨日昨日と最悪でしたから」

一昨日と言えば「……ええ、まあ。頑張ってください」で、
昨日とは確か「控えめに言って、暴風雨のような味」と言っていた。
ブレンドの相性が悪いとはいえ、まさかそんなにエキセントリックな味だとは思わず、へこんだ事を思い出す。
気づかなかっただけで、兆候はあったのか。

「昨日に関しては飲まなくとも一目見ただけで判りました。悪化していると。
 貴女自身は懸命に働いていましたし、マスターも即座に帰宅を命じる事は出来なかったのでしょう。
 今日見事に貴女が失敗をしたので、やはり置くことは出来ないと判断を下し、
 帰宅中に倒れられては困るとの事だったので、私が送ることになったのですが……」

判りやすくため息を吐いた。

「まさか、貴女自身が不調に一切気づいていないなんて、驚きを通り越してしまいましたよ」

普段大きく表情を変えない人が、あまりに目を剥いて驚くので、私はとても恥ずかしく思った。
ただ私を心配していただけの彼を、心の中とは言え、ずいぶん酷く言ってしまった。
自己嫌悪で胸が苦しい。それともこの苦しみは体調不良のせいだろうか。
自分自身が判らない。全く信じられない。

「……御迷惑をおかけして申し訳御座いません。
 なんとお詫びすればいいか、見当もつきません」
「気にする事はありません。貴女はただ、真っ直ぐで、……少々周りが見えていないだけです」

痛い所を突かれた。全くもってその通りである。

「数日お休みなさい。マスターもそのように思っていますよ」

マスターには後で連絡を入れよう。
知らない間に沢山迷惑をかけてしまった。

「……本当に、すみません」

同じ言葉を繰り返す私に、彼は子供をあやすように「はいはい」と言った。

「早く元気になって下さい。そして、これからも中途半端に美味しいコーヒーをお願いしますよ」

さらりと毒を吐くと会釈をし、身を翻す男。
帰るようだ、とベッドから身を起して見送ろうとすると、小さく笑われた。

「病人は、大人しくする事が仕事ですよ」
「……すみません」
「今日の貴女は、面白いですね。しおらしくて」
「それは、」
「失礼します」

彼は私の言葉を遮ると、退室した。
玄関の音が聞こえる。窓からのぞいてみると、彼が暗闇の中傘を片手に帰っていくのが見えた。
一人になり、私はふぅっと大きく息を吐いた。
男は十五時に店に来たのだから、三時間もここに居た計算になる。
その間、何をしていたのだろう。部屋に変わった様子はないだろうか。
と、机の上に数本の花が置かれているのに気付いた。
一本の茎に穂状についた花は確か、キンギョソウだ。
綺麗な包装紙にはメッセージが貼り付けられている。
「花言葉は しぶとく、図々しく」と、書かれている。
もっといい花言葉を持つものでも良いのではと思うが、これがあの男なのだろう。
店では気の良い紳士なのだが、どうやら少々毒を吐く男だと言う事をこの数日で知った。
言葉の棘とは裏腹に、可憐な花まで置いてくれるとは。
やはり基本的には紳士なのだと思わせる。
私は空いていたパスタ用の瓶に水を入れ、花を生けた。
生花が部屋にあるだけで、エネルギーが満ちていくようだ。
そこで、私はマスターへの連絡を思い出して、電話をかけた。
マスターは体調管理のなっていなかった私を責める事は無く、ゆっくり休むようにと言った。
まるで大きな手で撫でられているような心地よさ。
マスターの為にも、あの男の為にも、早く治そう。
電話を切った私は、身の回りを整えてから、眠りに落ちた。





「お疲れ様」
「お疲れ様です。明日も宜しくお願いします」

十七時に勤務を終えた私が裏口から出ると、通りには男がたっていた。

「今日も一日お疲れ様です」

私たちは他愛のない話をして、家まで送ってもらう。

「では、また明日」
「はい。明日もまた懲りずに来てください」
「今日よりは上達して頂かないと困りますよ」

そう言いながらも、毎日私の淹れるエスプレッソを飲む男は、帰って行った。
いつからか、私たちはこんな事を繰り返している。
従業員と客の線引きは曖昧になり、かと言って友人ほどの気安さはなく、不安定な関係を漂っている。
それが不快かといえば、そうではない。
店では余裕と笑顔を絶やさぬ紳士であり、外では大げさで歪曲な言葉で弄ぶ嫌な男となる、
そんな彼と、同じ時を過ごすのは楽しかった。
心置きなく接していられる一番の理由は、マスターにも了承を得ている事だろう。
店内で公私混同せずに接している事を信用され、勤務後は自由にしていい言われている。
「貴女はマスターの言葉には従順なくせ、私にはひどく反抗的なのですね」
と、あの男ならきっとこう言うだろうが、そんな事勤め人としては当たり前である。
客商売は勤務に関係ない所でも、その行動が売り上げに影響するのだ。
本来ならば、距離を置くべき所を、堂々と送られているのだから寧ろ感謝して欲しい。
「貴女も随分尊大になりましたね。それで、偉そうにできる程コーヒーの腕は上がったのですか?」
と、返ってくることだろう。会話が増えた事で反応が予想できるようになっていた。

しかしながら、彼の事を随分知ったように見えて、実は何も知らない。
彼の名前や住所、生まれや、家族については、一切聞いたことがない。
会話で何回かタイミングがあったのだが、不思議と憚られた。
なんとなく、その質問を彼は良しとしない気がしたのだ。
私が勝手に彼に対してミステリアスなイメージを持っているからとも考えられるが、
なんだか彼は、本心を見せたがらない、そんな気がした。
もしかすると、それが彼なりの線引きなのかもしれないが、
私は、少し、寂しかった。
ある程度空いた距離感の心地よさを知っているのに、どうしてそう思うのか不思議でたまらない。
彼は馴れ馴れしいようで、きちんと私との間に距離を取っている。
それを、私は感謝するべきなのだ。そして同じように、一定の距離を保ち続けるべきなのだ。
判っていても、感情は子猫のように自由に駆け回る。

「……これも、どうしようか」

彼がくれたキンギョソウは、数日綺麗な花を見せてくれた後に枯れた。
枯れてしまった花は、まるで人の頭蓋のようで不気味だったが、片づける踏ん切りがつかなかった。
嫌な予感がする。その予感は見事に的中した。
その日は休日だった。思う存分に家事を行い、買い物に出かけた。
お給料を頂いたばかりで、自宅用のコーヒー豆を買おうと、心を躍らせていた。
いつもの店へと軽い足取りで向かっていると、通行人に進行を妨げられた。
すみませんと横へ移動すると、今度は違う通行人に塞がれる。
何かおかしいと思った時には、大抵遅いのだ。
私は前後左右と知らない人達に囲まれてしまった。パッとみて七人。
人の壁の向こうには、他の通行人がすたすたと行き交うが、誰も私に目をくれない。
私が見えない訳ではないと思う。
囲まれているとはいえ、密着していないので様子は判るはずだ。
だが、誰一人としてこちらを見ない。これは避けられているのではないだろうか。
きちんと制服を着込んだ警察でさえもこの事態に声をかける事は無く素知らぬ顔。
私を囲う人たちはもしかして、何か特別な人間で恐れられているのだろうか。
それともただ、他人の厄介ごとに関わりたくないだけか。
どちらにせよ、私は誰も頼ることは出来ない。
彼らは私を犯罪者のように拘束すると、車に乗せて目隠しを着けた。
車はそう長くはない時間走行した後に停車すると、私を降ろした。
誰かに背を押され、指示されるままに歩いていると、椅子に座らされ縛られた。
目隠しを取り外されてすぐ、私はあたりを見回した。
パーティーでも出来そうな広い部屋だ。
隅に蝋燭が立てられ、心許ない火が揺れている。
電灯が無いの事も怪しくてたまらないが、それよりも恐怖を誘ったのは自分の足元だった。
いくつかのサークルを重ね、幾何学模様で飾られた怪しい陣。
誘拐されただけでも恐ろしいと言うのに、理解の範疇を越えた物の存在は一層恐怖を煽った。

「アグテタヴァスティエロレ」

真っ黒なローブに身を包んだ者が扉からゾロゾロと入ってきた。
私と陣を囲んで、更に唱え始める。

「トラグサクリオキンティク」

背丈からして十分立派な大人だろうと思われる人達が、声を張り上げて呪詛を唱えている。
しかも、それを私に向かって。

「システィエリネシイメッフィ」

私が何をしたというんだ。全く身に覚えがない。
お祈りは人並みに行っているし、宗教行事だって欠かさず参加している。
信心が足りないと怒られるほどではないはずだ。
となると別の、新興宗教の信者たちか。
何か手がかりはないかと辺りを注意深く見ていると、彼らの胸にはいつか見たバッチがつけられていた。
数日前空きテナントの所にいた集団だ。

「アテヌマヌエオイ」

彼らは蝋燭の炎に照らされながら、呪詛を唱え続けた。
壁に映った丸い頭の影たちは、まるで嘲笑っているように揺れている。
私は殺されるのだろうか。
突然だったせいか、実感が無い。夢を見ているようだ。
長い長い呪詛がピタリと止まると扉が開いた。
他の者と違って白いローブを身に纏っている者が入室した。
際立つ白さがやけに似合っている。
それを見て急に現実感が押し寄せた。

「どうやら、内なる悪魔は去ったようですね」

そう言う枯れが遠くに感じられた。
まるで彼らの仲間のようだ。

「後の処理は私がします。皆さんは次の方を」
「スティーリネ!」

黒いローブの者達が合唱し、速やかに退室した。
縛られたままの私と、白いローブの男の二人きりになる。
私達はしばし見つめ合うと、男から口を開いた。

「貴女、悪魔なんですって」

抑えていたのか、噴出した後も長々と笑っている。
そのあまりにも他人事な態度に、私は声を荒げた。

「そんなわけないでしょう!
 そうやって笑っていられるあなたこそ、悪魔なんじゃないですか!」
「そうですよ」

あっけらかんと男は言った。
空は青いですかと聞かれたかのような、ごくごく当たり前の事を答えたような気軽さだった。
私もまさか肯定されるとは思わず、言葉を失う。

「でも私、オーラがないのでしょうか。先ほどの方々にも気づいてもらえなくって」

これは絶対嘘だろう。

「舌先で上手く騙しただけでしょう」
「そんなつもりはありませんよ。私はいつも実直に誠実に皆さんと接していますから」

と、またケロリと嘘を吐く。
彼が纏っていた、誠実さはかさぶたのように剥がれ落ちた。
私も、彼らと同じく、騙されていたのだ。

「まずは縄を解きましょう。そのままじっとしていて下さいね」

男は後ろに回ると、言葉通り縄を解いた。
両手が自由になった瞬間、私は扉に向かって一目散に走り抜ける。
あと一歩の所で扉が閉まった。外には誰かがいる様子は無かった。
私は後ろを振り返った。白い男がいつものように笑っている。

「この服、重くて嫌いなんですよね」

と、男はローブを脱いで床に落とした。

「……悪魔なのに」
「えぇ。悪魔ですよ」
「貴方の正体をバラしてやる」

そう言った瞬間、部屋の中央にいた男は私の付近に出現し、手を握った。
そのままぐっと引き寄せられ、立ち位置が反対になった。
今扉に近いのは男の方だ。

「困るんですよね。そう風情の無い事をされては」

ちっとも困った様子が見られない。
いつもの微笑みが気持ち悪くてしょうがない。

「今の平和を崩されて困るのは、貴女ですよ。
 私がいるからここはフジョウに手出しされずに済んでいる。
 そんな所で、もし私が消えたら?どうなるかお判りですか」
「そんな話、信じられるわけないでしょう」
「そう。……そうですね。
 先ほどの方たちは悪魔祓いの家系らしいですよ。
 この地域に見え隠れする不浄を浄化する事が目的とおっしゃってましたね」
「変な嘘は止めてちょうだい」
「本当の事、なんですけどねぇ」

悪魔祓いという職は実際にある。
家で立て続けに不幸が起きたり、家の様子が変わるのは霊的なものの仕業とされ、
そういう時は悪魔祓いに依頼する事で、邪な気を払ってもらう。
この地域では信心深い者が多いので、何かあればすぐに払ってもらう事が多いが、
私は元々この町の住民ではないので、悪魔祓いに関わった事はない。
だから、彼らが悪魔祓いであることは信じよう。
しかし、自分が悪魔であるという主張は、俄かには信じられない。

「私としても、今の立場が崩れるのは避けたい。
 出来れば、以前通りに、このまま過ごすのが良いのですが……。
 貴方が淹れて下さるエスプレッソの行く末も、まだ見ていませんしね」

エスプレッソ。
彼の口から、コーヒーの話が出ると今までの私達へと戻ったような気がした。
それはただの錯覚だと、私は心に絡む過去の出来事を振り払った。

「と、言う事ですので、今日の事はお忘れなさいな。
 何ならお手伝いしますよ。もっと別の事が頭を占めるように」

まただ。
お互いの呼吸が感じられそうなくらいに近くに寄ってくる。
だが、既に一度体験したことで動揺はしない。私は迷わず押しのけた。

「そうやって煙に巻くの?」
「その方があなたにとって得策だからですよ」
「貴方にとって都合が良いだけだって、さっき言いませんでしたっけ?」
「そうでしたっけ」

都合が悪ければ白を切る。
この人は、身勝手な人だ。そんな事、知りたくなかった。

「ならば、もう少し教えて差し上げましょうか」

彼の手が私の手へと滑り落ちるが、嬉しくもなんともない。
逃亡防止の為でしかないのは明らかだ。
私達は怪しい部屋を出ると、いつもの町を二人で歩いた。
手を繋ぐ男女とは何度もすれ違うが、私ほど触れる男への不信心でいっぱいな者はいまい。
心とは裏腹に、以前よりもずっと近い距離にいる事が、皮肉だった。

「ここにいるのは、私の友人です。…というのは、嘘。
 バフォメットがそこに埋まっているんです。正確には封印されています」

彼が私を連れてきたのは、墓地の中央だった。
以前、彼と話をした、大きな石の前。

「なかなかの者ですよ。異教の神とされ、恐れられました。
 そんな者がここに封印されている。とあれば、悪魔たちはここへ向かってきます。
 彼を助けに。ではなく、利用する為にね」

ヤギに似た男と以前言っていたことがようやく納得できた。
黒山羊の頭を持つバフォメットの絵は有名だ。
悪魔崇拝では必ずと言っていいほど名前が出る。
もし、彼の言う事が本当ならば、この地域で悪魔祓いが多い事も頷ける。
信心深い者が多い事も。もっと言えば、この地域の開発が難しかった事も。
一つの事柄が結びつくと、更にまた別の事柄が結びついていく。
彼の話は真実かもしれない。
だがそれは、信じたくない事実を肯定しなければならなくなる。
彼が。毎日エスプレッソを飲んでくれた彼が、悪魔であると。

「余計な悪魔達は、私が上手くいなしてあげているのですよ。
 そのお陰で、貴女ものんびりコーヒーを淹れることが出来る」

悪魔の為に、悪魔の飲み物を。
せめて、悪魔のような男、であれば良かったのに。

「貴女の小さな正義心がこの町を未曽有の恐怖へと落とすのです。
 貴女にその覚悟はおありですか?」

私は首を振った。

「……貴方は本当に悪魔なの?」
「えぇ。正真正銘の悪魔ですよ」
「そうなんですか……」

再度肯定されると、私はひどく虚しくなった。

「そう落ち込まずに。
 それよりも、あのほとんど素人と変わらぬエスプレッソをなんとかなさい。
 私はずっと待ってあげられますが、貴方の方が先に死んでしまいますよ」

彼の口からエスプレッソという単語を聞きたくなかった。
あれは、私と彼を繋ぐ平穏の象徴。
悪魔を名乗る男には口して欲しくない。
空っぽになろうとする心に、怒りの感情が注がれていく。

「……悪魔が、何を考えているの。わざわざ人間に近づいて、どんな裏があるの!」
「裏がない者がいますか?そうでしょう、人間」

腰から頭まで、ぞくぞくと震えた。

「悪魔だからと言って、むやみやたらと悪役に祭り上げるのはお止めなさいな。
 私のように平和をこよなく愛する者もいるのですよ」

嘘くさい。そんな気もするが、よく判らない。

「不思議な方ですね。どう考えても、大人しくするのが身の為だと思うのですが」
「あ、悪魔なんかにふらつかれるなんて、嫌に決まってるでしょ」
「ああ。アレルギーですが?最近流行っているという」
「そうじゃない!」

適当に流されると猛烈に腹が立つ。

「あてて差し上げましょうか。あなたの中の苛立ちの理由を」
「結構」
「他人の助けは要らない、と。頑張り屋さんですね」
「貴方なんかに」
「なんか、ですか。寂しい事を言いますね」
「何が。そんなこと思ってないくせに」
「思っていますよ。証明はできませんが」
「ほらやっぱり」
「私が悪魔だからって、そんな。シャレですか?」
「何が」
「おや、悪魔の証明、って知りません?」

得意げに言う所がまた怒りを助長する。

「もういい!とにかく貴方が悪魔だって言いふらしてやる」
「どうぞ」

彼はあっさりと言い放った。

「良いですよ。貴女が、そうしたいのなら。もう止めません」
「あっそう」

私は彼に背を向けると、大股で帰って行った。
振り返ろうという気は起きなかった。
帰路の間はあの男の悔しい顔を何とかしてみられないかと、そればかり考えていた。
そして、次の日、いつものように出勤した。彼も十五時に現れた。
いつ彼の秘密を話そうかとタイミングを見計らっていたが、結局言う事は出来ずに終わった。
彼が私の思惑を阻止したわけではない。
彼はいつも通りだった。その普段とは変わらない振る舞いを見ると、私は彼を悪魔だとは言えなかった。
「今日はまた、苦いですね」
と、苦言を漏らしながらも、私のエスプレッソを最後まで飲み干した彼。
「明日もまたお願いしますね」
と、軽く笑んで帰った彼の後姿が消える事が遣る瀬無かった。
退勤して、家に帰るにも足が重い。
幼児の落書きのような、ぐちゃぐちゃな気持ちで部屋に入った。

「おかえりなさい」

部屋の中に誰かいた。いや、誰かは判っている。

「ふ、不法侵入!!」
「悪魔の場合も適用されるんですかね、それは」

立てかけていた箒を持って、白いスーツ目掛けて振り下ろすと、
男はいつもの余裕顔が崩しながら、箒を握っていた。

「まあまあ落ち着いて下さい。ね」

悪魔でも、箒で叩かれるのは嫌なんだ。
どうでもいい事実の発覚に力が抜けてたきたので、箒は元の場所に戻した。
男は安堵の息を吐くと、目ざとくパスタ瓶の花を見た。

「……あの時の、ですか」
「別に」

花はすっかり枯れているが、そのままにされていた。

「悪魔と知ったのに、処分しなかったんですか」
「忙しかっただけ」
「本当に?鈍くなければ、もう気づいているはずですが」
「うるさい」

私は頭を振って、彼に背を向けた。

「……出てって」
「貴女がコーヒーを淹れてくれたら、消えましょう」

私は黙ってコンロに向かうと直火式の用意をした。

「おや、わざわざこちらでして頂けるんですか」
「モカよ。ただの。知ってるでしょう。これではエスプレッソは出来ないって」
「正式にはそうですけれど」

愛用するマキネッタに水を入れる。
ミルを使うのも良いが、マスターに挽いてもらった粉が少し残っているのでそちらの方が良いだろう。
後はただ待つだけだ。五分程度で完成する。

「……あなたのその、手を抜かない所、好きですよ」

一口飲んで、男はそう漏らした。

「特別な事はしていないけれど」
「敢えて出来の悪いものを出しても良かったんですよ」
「そんな事するわけないでしょう。出すなら力を尽くす。……それが、誰であろうと」
「ありがたい事ですね」

彼はすっと飲み干すと席を立った。

「貴方の望み通り、私は去りましょう」

「さようなら」と、同時に扉が閉まった。
部屋に残る豆の香りの苦さに頭を抱えた。落ち込む理由は判っている。
自分が選んだ選択肢であっても後悔せずにはいられなかった。
さようなら。私の初めてのお客様。



悪魔も人生も、そう苦い事ばかりではないらしい。
あの男はあっさりと、次の日の十五時に現れた。
私は震える手をマスターから隠すのに必死だった。

「マスター。もしも、この店の客が悪魔だったらどうします?」
「悪魔であろうと、お客様はお客様。寧ろ、喜ぶべきことでしょう。
 コーヒーを気に入って下さったのなら」
「流石ですね」

白スーツの男は、ちらりとこちらを見やった。
私は負けじと顔を背けた。

「もしかすると、そちらの店員さんが悪魔かもしれませんね。
 客にいつまでも未熟なエスプレッソを提供していて」
「お客様。試飲を申し出たのだから、未熟者のエスプレッソでも黙って飲み干して下さいな」
「どんな味であろうと、最後の一滴まで飲み干しているでしょう」

と、いつも通りに過ごして、いつも通り帰って行った。
次の日も来店した。あの夜の事をうやむやにする魂胆だろうか。
しかしながら、彼が何をたくらもうと、自分ではどうすることも出来ない。
もやもやしながらも、相手の掌の上で踊る自分が情けない。
彼を押しのける事も、逃げることも出来ず、私たちは店員と客の関係を続けている。上辺は。
実際、あちらが何を考えているのかは判らないし、
私自身も答えが見つからず身の振り方に迷っている。
彼が悪魔だと知ってしまったのに、このまま普通に過ごして良いのだろうか。
人を惑わすのが悪魔なのだから、早急に祓ってしまった方が良いのか。
相談相手もいない私の足は、自然と墓場へと向かっていた。
彼との関係が狂い始めたきっかけはここだ。
バフォメットが封印されているという石の前に立った。
その強い存在感に何かを感じているのか、数人の男が石に張り付いていた。
彼らもまた悪魔祓いに関する者なのだろうかと、私は以前見たバッチの有無を確かめた。
彼らにはついていないようなので、また別の組織だろうか。

「さっきから何を見ている」

男の一人が私を睨んだ。まるで炎が睨んだように、真っ赤な双眸をしていた。
それは、人間の瞳には存在しない色であった。
嫌な予感がすると同時に、彼らがじりじりと私を囲んでいた。
おかしいと思った時には遅いと、つい最近も学習したばかりだ。
そして、こうも学習した。大人数には勝てないと。
私はいとも簡単に拘束されると、その中の一人が骨と皮だけのミイラのような手で私を指した。

「丁度良い、死んでもらおう」

驚いたのも束の間、私の目の前には黒い傘が横切っていた。

「それ。手を出すとまずいですよ。今、巷で噂の、蒼炎の射手が狙っていますから」

顔を見なくとも、誰だかは判った。
毎日毎日見てきた傘だ。

「人間くずれは、悪魔とは手を組まない」
「そうでもないですよ。彼も、かの集まりに選ばれてから、変化しましたからね」
「だが、嘘だ。お前と繋がっているのは」
「やれやれ、仕方ありませんね」

彼が雨でもないのに傘を開くと、傘が鳴いた。
肩にかけると黒い傘が消え、代わりに彼のスーツが真っ黒に変色する。
翼と尾が現れた彼は、まるで、いやきっとこれがそうなのだろう。
彼は、悪魔だった。
小さな蝙蝠を従えると、私に迫った男たちに襲わせた。
だが、彼らはそれほど痛そうにはしていない。
彼の蝙蝠を握り潰すと、彼自身へと突進した。
身を翻す彼であったが、別の者が繰り出す拳は避けきれずに、地へと崩れた。
一切の汚れを見せなかった優雅な彼には似つかわしくない姿であった。
スーツに付着する土埃を払おうともせず、彼は再度蝙蝠達に襲わせる。
しかし、男たちは蝙蝠には目もくれず、操る彼を狙った。
二度目に殴られた時、彼のスーツから青い光がぽろりと零れた。

「その炎は!?」

男たちは彼から距離をとった。蒼炎を恐れているようだ。
彼は殴られた頬を押さえながらも、いつも見せる余裕の笑みを浮かべた。

「貴方たちの事、彼に教えてあげますね」

その一言で、男たちは瞬時に消えた。
文字通りの意味だ。まるで魔法のように一瞬で消え去った。
脅威が去り、私は彼の元へと駆け寄った。

「大丈夫?」
「ええ。……しかしながら、便利ですね。あれは。
 あの男とやりあった者の傍で偶然手に入ったものだったんですが。
 しかしながら礼は言いませんよ。
 焦がされかけた事は一生忘れません」

何やら因縁があるようだが、私にはどうでもいい。
彼がこうなってしまったのは私のせいだ。

「……すみません」
「どうして。あなたは不幸にも巻き込まれただけですよ」
「でも、私がここに来なければ」
「ですね。悪魔である私を遠ざけたいのならば、距離を置いておくべきでしょう」

正論だ。悪魔に関する事に近づくべきではなかった。
私は悪魔なんて嫌いだし、普通に生きる人間ならば誰も好まないだろう。

「貴女が無事なら、スーツを汚したかいもありましたね」

彼の手には黒い傘があり、スーツは元の白色に戻っていた。
今は土で汚れている。

「……あの、お礼を、させて下さい」

彼が助けてくれなければ、きっと私は死んでいただろう。

「良いですね。ならば、貴方の魂で」

私は彼と距離を取った。私が瞬時に動いたからだろう、男はおかしそうに笑った。

「なに怖がることはありません。貴方が死ぬその時に頂くだけですよ」
「でも、悪魔って魂を食べたりとか、奪ったりするものじゃないんですか」
「まぁ、そうですけど。
 でも、引き抜くのって難しいんですよ。
 技術がない悪魔は魂を傷つけたり、弱らせたり、潰したりと、もう散々。
 低級な悪魔は出来ませんから、人に貰うなり買うなり、死んだ後に頂くなりしなければなりません」
「悪魔も大変なんですね」
「ええ。面白いでしょう」
「……うん、面白いですね」










彼は毎日店に来る。
来店直後にエスプレッソを一杯。そして、また一杯飲む。
「今日はそこそこですね」
辛口な評価を下して、一時間以内には帰っていく。
私が仕事を終え、裏口から表に回ると、白すぎるスーツで立っている。
「今日も変な悪魔に会いましたよ」
悪魔や悪魔祓いや聖職者や神等の話を聞きながら、家まで送ってもらう。
「また明日」
恭しく礼をして、彼は去っていく。
そんな私の初めてのお客様は、悪魔だ。







fin.
(15/01/20)