「……ん?」
まだ鍵を差し込んでいないのに、自宅のアパートの扉が開いた。
今朝鍵を閉めた記憶がある。
そして玄関には私の靴以外は無い。
空き巣だろうか。
と、普通のOLならばそう思うだろう。
私も同じく普通のOLであるが、空き巣とは思わなかった。
靴を脱いで、短い廊下の先にある扉を開いた。
「寒い。早く閉めてくれる?」
「……鍵は?」
「植木鉢の下」
しまった。
近日中に母親が来ると言うので、合鍵を置いていたのだ。
それを的確に見つけるとは。
「暖房、勝手につけないでくれない?」
「わざわざ部屋を暖めてくれて有難う御座います、と言えないの?」
「お邪魔してます、くらい言えないの?」
「口が塞がってるもんでね」
出た。お決まりの言葉。
これを言われると会話が強制的に断ち切られる。
使われる方としては、まあまあ腹が立つ事もあるが、これ以上無意味な会話を続けずに済むので楽だ。
この白い男の相手は、するだけ無駄である。
私は買ってきた惣菜を電子レンジに入れた。
ぐるぐると回る耐熱容器を見つつ、1Kの部屋に我が物顔で過ごす不法侵入者を窺う。
真っ白な男。
髪も、肌も、睫毛も、衣服も、よく判らない長細い帯も、何もかもが。
こんな人間がいるのかと、少しだけ調べてみたら、
先天性白皮症という、メラニン欠乏が原因で真っ白な人間が産まれる事があるそうだ。
だが本人に尋ねてみると、「勝手に人を病人にしないでくれる」、だそうだ。
それ以上は聞けなかったので、私も詮索は止め、この男はそういうものなんだと納得させた。
と、思い出している間に、電子レンジが鳴った。
昨晩炊いたご飯の残りと、温めた惣菜、煮出した麦茶。
一人用の机に乱雑に置いて、TVをつけて食べていく。
今日は退社が遅くなったせいで、豚肉の南蛮漬けだ。
いつも行く惣菜屋は閉店時間が遅いという一点で利用しているが、あまり美味しくはない。
特にこの豚肉の南蛮漬けは毎日閉店間際でも大量に余っている。
これを食べると「今日もよく働いた」と思う。
同時に「いつまでこの生活が続くんだろう」と物悲しくなる。
「お茶くらい出せないの?」
火曜日でさえ身体が重くてしょうがないのだから、お茶くらいでさえ出すのが億劫だ。
それも不法侵入者にわざわざ。
「無理。勝手に出して」
「もうしてる」
いつの間にか台所にいる白い男は言った通り勝手にやっていた。
非常識な男だが、ある程度は弁えているので私は自分の遅い晩御飯に気を向けながら、TVを流し見した。
バラエティ番組のしつこい天丼でさえも笑えてくる。
きっと三十分もしたら自分が何に笑っていたのか忘れているだろう。
疲れた時は、なんでもいいから笑うキッカケが、声を出すキッカケが欲しいのだ。
内容は問わない。
「その下品な笑いを即刻やめてくれない?」
「あっはははは」
「煩い」
ドンッと壁が鳴った。お隣さんが叩いた音だ。
私は即座に最後の米を口に放り込み、咀嚼した。
「隣人には忠実なんだね。だったら最初から大人しくしていればいいのに」
「しょうがないでしょ。笑えたんだから」
「毎度毎度、気持ち悪い声を聞かされる僕の身にもなって欲しいね」
ことんと、100円で買ったマグカップが置かれた。
「早く片付けなよ」
気怠い身体を叩いて、食べ終わった食器を流しへ、ごみはゴミ箱へ。
ここで食器を洗わないと明日の晩まで洗わない。
これ以上労働したくないのに、仕方なく洗って、先程の椅子へと座った。
白い男が先ほど置いたマグカップにはコーヒーが入っていた。
白い男はベッド前のラグの上で三角座りをし、つまらなさそうにTVを眺めていた。
「飲んでいいの?」
「見れば判るでしょ」
まだ熱いコーヒーを一口。
いつものインスタントに違いないが、美味しい気がする。
「ありがとう」
「別に。それより、煩いからコレ消して」
と、白い男は自分でTVを消した。
この男はあまりTVが好きじゃないのだ。
下らないし煩いからと。
TVが消えると、途端に静かになる。
私も、白い男も、お喋りな方ではないのだ。
私なんて明日も出勤しなければならないので、時間に余裕はない。
折角のコーヒーをさっさと飲み干し、席を立った。
「お風呂入ってくる」
「好きにしたら。君の部屋なんだから」
そう言って、私が最近買った女性誌に目を通し始めた。
男性が見て面白いのだろうか。まあいい。
私は気にせず風呂へ入った。烏の行水なので、十五分で終わる。
「色気ないね」
「悪かったですね」
「男の前でよくそのダサイジャージで過ごそうと思ったね」
「自分の部屋なんだから隙にしたらいいって言ったのは誰だっけ」
「さあ。記憶違いじゃないの」
白い男はまたさっきと同じ様に三角座りをしていた。
女性誌じゃ暇潰しにもならなかったようだ。
マガジンラックに逆さに入れられている。
これは、コーヒー分だ。
暇そうな白い男の為に、私はベッドへ腰かけた。
「今日は何の用」
「別に。暇潰しさ」
この男の素性は知らない。
働いているようには見えないが、身なりはきちんとしている。
お金を盗むこともしないし、勝手に冷蔵庫の物を食べたりもしない。
何を目的に度々私の家に侵入するのか、全く見当がつかない。
「まあいい。帰るよ」
「へっ、ああ、そう……」
私の足元に、植木鉢の下に隠していた合鍵を置いて、彼は玄関から帰って行った。
いつもの事だ。
何の前触れもなく現れて、何のきっかけもなく帰っていく。
私は鍵を拾い上げ、玄関へ向かった。
別に、何の意味もない。
習慣だ、ただの。
私は玄関前の植木鉢の下に鍵を戻した。
「(……癪)」
私は植木鉢の土の中に鍵を差し、その上に土を盛った。
◇
「……あれ」
ドアノブが回る。
玄関に他人の靴はなく、私は今朝も施錠した記憶がある。
また白いのが来ているのだろうか。
定位置となっている、ベッド前のラグを見た。
「お邪魔します」
全く知らない男がいた。
私はUターンしながら携帯電話で1、1、0と押す。
通話ボタンを押す手前で、携帯電話を奪われた。
「そう警戒する必要はありませんよ。
ヴァリスネリアの身内?ですから」
「……ヴァリスネリアって、誰?」
「え!?知らないんですか!」
「知りません。失礼します。というか、帰って下さい」
「ほら、全身白くて怪しい男ですよ」
あぁ、白いの……。
確かに言われてみれば似ている気がする。
怪しい所が。
それにしても、この人は両目を覆い隠して、盲目なのだろうか。
それなのに、家の中に入ってくるなんて。
あの白いのは、人の家の鍵の場所を他人に教えたのか。
身内にも言わないなんて、注意されずともそれぐらい判って欲しいのだが。
「今日もお疲れでしょう。私の事は気にせずどうぞ」
「いや……そうはいかないでしょう」
「なら、お茶でも頂ましょうかね」
あの男もだが、何故こうも図々しくなれるのだろう。
インスタントコーヒーを入れつつ、目隠し男を盗み見る。
目が黒い布で覆われているせいで、何処を見ているのか、どんな表情をしているのかが判らない。
何が目的だろう。あの白いのの関係者らしいが、
そもそも白男が何故ここに訪れるのかも判っていないので、
目隠しの男の目的もまた判らない。
椅子に座る男にコーヒーを出して、私はラグの上に座った。
早くコーヒーを飲み干して出て行けと思う私の思惑とは逆に、
目隠し男はテーブルに肘をつきながら、私をじっと見ていた。
その視線が不快な事。意地になって私も男を見返していた。
その後も特に言葉を交わさず、お互いに牽制し続けた。
秒針がじじじじと鳴る中、男は動こうとしないし、私も動けない。
携帯電話は没収されたままなので連絡は出来ない。
外に出て、公衆電話を使ったり、交番へ駆け込むという手も考えたが、そうは出来なかった。
縄で縛られたわけでも、言葉で制されたわけでもないが、
言うならば、この男の眼力によって拘束されていた。
両目の見えない男なのにと思うだろうが、この男の視線には圧があった。
目に見えないプレッシャーは、既に疲れている私の体力と気力を削る。
深夜十二時を越えても、男は動かなかった。
翌日の二時を越えても、男に変化は見られない。
私はというと、とにかく眠くてしょうがなかった。
週末までまだまだ日があるのだ。
こんなところで睡眠不足なんて以ての外。
仕事のミスが増えれば帰宅時間も遅くなり、また次の日が辛くなるという悪循環。
相手がてこでも動かないと言うのならば、私が諦めてさっさと寝てしまえば良いのだろうが、
この目隠し男、見た目からして怪しすぎるし、嫌な雰囲気がする。
この男には気を許してはいけないと、本能が囁く。
よく似ている白い方には、そう、思わないのだが。
「良いんです?明日もお忙しいのでは?」
「まだ無理がきく身体なもんで」
眠い。
とにかく眠い。
化粧なんて落とさなくて良いし、入浴もしなくて良い、とにかく寝たい。
「お休みになられては。お疲れでしょう」
眠気のせいで、怒る気力がわかない。
このまま寝そうだ。
「寝るならベッドでどうぞ」
この男に隙を見せたくない。
そんな気持ちも薄らいでくる程の眠気。
もういっか。
明日の仕事の方が大事だ。
私はすっと瞼を閉じた。
「こんな胡散臭い男の前で寝るなんてどういう神経してるの?」
白いのの声が遠くに聞こえる。
「ヴァリスネリア。深夜に女性の部屋に入るのはマナーがなってませんね」
「招かれざる客が何を言っているの」
「それはヴァリスネリアも同じでしょう。まさか自分は受け入れられると思ってたんですか」
「まさか。僕は僕のやりたいようにしているだけさ」
「私も同じです。私の行動にケチをつけるのはやめて頂けませんか」
「お前に丁度文句を言いたい気分なんだ」
「私はヴァリスネリアのような根暗と話す気分じゃありません」
罵り合っているらしいが、目が開かないので見えない。
「まぁいいです。収穫はありませんでしたし、今日は帰ります」
「永遠に消えろ。羽無し」
「漆黒無き白妙に言われましても」
ようやく静かになった。意識が遠のく。
「ちょっと。何ガクガクしてるの」
煩い黙れ寝かせろ。
◇
「っ!仕事!!!」
「間に合うよ……。それよりも早くお風呂に入ってきたら」
「そうだね」
「タオルは」
「ああ、そうそう。タオルタオル」
寝起きのシャワーは高温に限る。
肌が焼けつくような熱湯を浴びれば、忽ち全身に熱い血が巡り、頭が活性化する。
「なんで、白いのが朝から家に!?」
あまりにもナチュラルに溶け込んでいて、つい実家のように振る舞ってしまったが、
あれは母親ではなく、不法侵入者の白いのだった。
私は手早くシャワーを済ませて、風呂を出た。
廊下でしかない脱衣所には、自分が持ってきたタオルの横に、会社の制服が置かれていた。
妙に気が利くなと思いながら、素直にそれを着た。
下着まで置かれている事は深く考えないようにした。
「トロいな。早くご飯食べて」
「はいはい」
出勤時間は近い。
文句は食べてからにしよう。
皿の上にはトーストとスクランブルエッグ、それにサラダ。
朝はご飯派なのだが、有難く頂いた。
ただ栄養補給の為だけに流し込む普段とは違い、今日は味と匂いがよく判る。
だが、それほど時間は無いので、出来るだけゆっくり、しかし手早く食事を終わらせた。
「御馳走様」
「昨日の事だけど」
目隠しの男の事だろう。
「アイツには近づくな」
「昨日のは、帰ってきたら既にあの男がいて」
「なら引っ越して」
「無理」
「……仕方ない、面倒だけど、ここに来る頻度を増やすよ」
「……」
なんで。
「嬉しい?」
「別に」
「可愛くない」
「私時間だから行くね」
鞄は持った。
そういえば携帯電話──は、鞄の中に入っていた。
ほっとした。
「忘れ物」
「え!何、」
何が起きたのかはよく判らなかった。
一瞬の出来事ではあったが、あり得ないことが起こったような。
それを引き起こした白い男は、乱れた口元の白い帯を鼻の下までぐっと持ち上げる。
「いってらっしゃい」
「い、ってき、ます」
私は男を置いて、階段を一歩ずつ下りていく。
下まで下りたところで、また上り部屋に戻った。
「戸締りはして。これあげるから」
合鍵を渡して、再度私は出社した。
今日の帰り、また合鍵を作っておく必要がある。
今度は外に置かず、母親に直接渡しておこう。