けいこくしたのに

「くー、ちゃ……」

弱々しい声が縋りつき、男を引き止めた。
純白のシーツの上、レースの裾から延びた白磁の脚。
たおやかな少女らしい肩から、頼りげのないワンピースの肩紐が落ちている。

揺れる大きな瞳は彼を捉えて離さない。

「言ったよな?」

男は少女の肩を掴んで、その顔を覗き込む。

「忠告したぞ」
「……っでも!」

視線が交差すると、少女はぱっと目を伏せた。
蚊のなくような声で呟く。

「……て、ほしいの……」

きゅっと男のズボンの裾を小さな手が握る。
少女の震えを感じた男は、困ったように唸った。

「……嫌というわけではないんだ。だが、……恥ずかしい」
「私も……。でも、黒ちゃん、だから」

その言葉を最後に、二人は俯いたまま黙ってしまった。

「……」
「……」

お互いの心音が聞こえてしまいそうなくらいに、静まり返った部屋。
薄く涙を浮かべた少女が意を決して、男の顔を見上げた。

「おねがい、します。……きて」

目尻に浮かんだ滴が弾ける前に、男はゆっくりと、そして強く頷いた。

「……判った」

男は少女の小さな手を握りしめた。










「……本当にごめんなさい」

トイレの扉から出てきたはしょんぼりと頭を下げた。

「気にするな。しょうがないさ」

最初から最後までずっとトイレの扉の前で座っていた黒神はゆっくりと立ち上がった。
女性が花を摘んでいる最中の音を聞くのは良くないと耳を塞いでいたが、
こんなことをしているという自分が恥ずかしくて堪らないと顔を赤らめている。
ごめんねを繰り返すの頭をぽんぽんと撫でながら、黒神は胸中で大きな溜息をついた。

運の悪いことに、今日中に世界に変化を加える必要があるのだ。
外出しようにも、はしっかりと黒神の服の裾を握っている。
トイレからリビングまでの短い距離でもぴったりとついてきており、
放すつもりなど毛頭ないだろう。

仕方がないので、頭の中で自分の兄であるMZDに話しかけた。

「(どうせ暇だろ。だから即……。いや、今回はいいや。
 手隙になったらこっちに来てくれ)」

それだけ言うと、MZDとの繋がりを消して、目の前の少女に向き合った。
不安げな表情で黒神を見ている。
縋る少女は可愛い。愛している人なら尚更。
大丈夫だよという意味を込めて、少し笑むと彼女は頬を緩めるのだった。
あまりの可愛さに、黒神は壊してしまうくらいに強く抱きしめたいという衝動に駆られた。
黒神の手が伸びかけたところで、二人しかいない異次元に別の存在が新たに出現した。

「どぉしたあああ!!!?!?オレに飽きちゃったのか?」
「……は?」

慌てた様子のMZDが黒神の両肩をがっしりと握った。
言っている意味が理解できない、気持ち悪いとさえ思った黒神は、MZDの手を剥がしてしっしと手を振った。
捨てられた子犬のようにきゃんきゃんとMZDは鳴いた。

「いつもなら、さっさと来いって言うのに、今日は手隙になったらって言ってたろ!
 オレとうとうそんなに使えない奴だと思われたのかと!!」

この男、とてつもなく馬鹿じゃないのか。
黒神は深い溜息をついた。

「そうじゃない。本当に急を要する事柄ではなかっただけだ」
「……そなの?」

本当に?と、MZDは不安げに黒神の顔を窺った。
もう一度黒神は溜息をつくと、下から覗き込んでくるMZDから目を逸らしながら説明した。

がホラー特集を見たんだ。……後は想像通りだ」

MZDはぽかんとした表情になった。そして、噴出した。

「っく、あーははっ、マジかよ、ははははぁっ!!」

腹を抱えて苦しそうに笑うMZDを、はじっとりとした視線を送る。

「そこまで笑うことないじゃん……」
「わりぃわりぃ。っぷくく」
「……酷い」

隣の黒神にぴったりとくっついたまま頬をふくらます。
MZDがひとしきり笑い終えたところで、黒神が言った。

「俺は少し外に出る。その間を預かっててくれ」
「なるほどねー。おっす、了解だ」
「今からでも大丈夫か?」

黒神は二人に尋ねた。

「いつでもいいぜー」
「……うん。いいよ」

明るく受け答えするMZDとは対照的に、は心許無げに頷いた。
それを見た黒神は、そのしょんぼりと垂れ下がった頭を撫でてやる。

「ずっと一緒に居てやれなくてすまない。すぐ帰るから」
「うん……MZDとお留守番してるね」
「オレずっといるからさ。そんな心配すんなって」
「……いってらっしゃい」

不安は拭えていないようではあったが、は黒神に小さく手を振った。

「とにかく急ぐから。帰ってきたらずっといるから」

そう言って黒神は下界へと降り立った。











リビングのソファーに座るとMZD。
テレビの中では女性が温泉に入って気持ちよさそうにしている。
最近寒いから温泉に行くのもいいなとぼんやり考えるMZDの隣で、
はちらちらと背後に目をやる。
勿論、後ろには誰もいない。

「重症だな……」

恐怖でびくびくするの脇に両手を差し入れて持ち上げると、
MZDは自身の膝の上に乗せた。

「大丈夫だって。オレが守ってあげるから」

の後頭部を自分の胸に抑えつけながらMZDはあやした。
MZDの手に逆らって頭を上げたが言う。

「絶対だよ!後ろもちゃんと見てなきゃ駄目なんだよ!」
「っぷ、っくく、大丈夫だっつの」

怖がり屋の小さな身体を腕いっぱいに抱きしめる。
どの方向から何が来たって指一本触れさせないように。

「今はだけの神サマだ」

とん、とんと背中を叩いてやる。
旅館の懐石料理に騒ぎだしたテレビは消した。
リビングには大丈夫、大丈夫だよと語りかけるMZDの声だけが響いている。
それでもは緊張を解くことなくMZDの身体にぐっとしがみついて離さない。

どうしたものかと、MZDは頭を捻った。
思いついたのは布団を被る事。
よく子供がしているなと思ったのだ。
早速を抱いての自室へ行き、自分も共に布団を被った。
この案は大成功。
は強張らせていた肩を少しずつ緩めていく。

「神の力よりお布団の力を信用するのかよ……」

はははと、MZDは苦笑した。
神を独占する少女は誰よりも彼らを神として見ていない。

「じゃ、このまま黒が帰ってくるまで布団でぬくぬくしてような」

布団という温かな要塞に包まれた二人は、うとうとしながら黒神の帰りを待った。











早くの元に帰りたいが為に、
適当に世界を壊したり間違って直したりした黒神は、
二時間ほどで異次元にある自宅へと帰って来た。
ただいまと言えば、おかえり寂しかったとが自分の胸に飛び込んで来てくれるだろう。
そう信じていた。
しかし、玄関を開けても出迎えてくれる者は誰もおらず。
予想が大きく外れて自分が寂しくなってしまった黒神はそっとの部屋に入る。
中ではベッドから布団が転げ落ち、MZDに抱かれたまま寝ているの姿。


盛大に苛立った黒神がMZDを叩きのめすのはお約束である。











「黒ちゃん……」
「判ってる。の部屋でいいな」
「うん!」

未だにホラー特集を忘れられないは今夜、黒神と床を共にする。

「く、ろちゃん、先に寝ないで……」
「……あ、ああ……判った」

を撫でながら、黒神は自分の影に耳打ちする。

「影、俺がもし、万が一先に寝たらの相手を頼むぞ」
「了解致しまシタ」

力強く頷く影。
どうしたのと尋ねるに、黒神も影もにこにこと笑って誤魔化す。

サン、大丈夫ですよ、暗いところには私がいますカラ」
「で、でも突然、がばっ!……って誰かくるかも!」
「大丈夫。サンをお守りするくらいの力はありマスよ」
「でもでも……」

無の世界に属するという、神とは違う意味で稀有な存在である影。
潜在する能力はこの世界にいる生き物を軽く凌駕する。
しかし、そんな影の事を料理上手なお母さんのようなものだと思っている
それがおかしくて、影は笑う。

「ふふっ、怖がりきってるサンに何を言っても駄目そうデスね」

眠い目を擦りながらを寝かしつける黒神と、
闇に溶けてを包む影。
二人の温かな感情に包まれ、は安らかな気持ちで夢の中に落ちた。




fin.
(13/10/27)