数年前"学生"から"社会人"に変わった私は、仕事に明け暮れる毎日を過ごしている。
朝から晩までずっと仕事。これは決して大げさに言っているわけではない。
労働時間は一日十二時間を超えている(が、表向きは超えていないことになっている)
こんな多忙な毎日ではあるが、救いは私自身仕事が嫌いじゃないということだ。
疲れて出勤が面倒だと思うことはあっても、嫌いだから行きたくないという事はない。
世間的に見れば、私はとても幸せな部類だろう。
とは言え、頭も身体も疲労が蓄積するばかりで毎日ぐったりとしている。
偶の休日は身体を休めるための日であり、昼過ぎまで死んだように寝るのだ。
遮光カーテンの隙間から漏れる光で、今日もまた夕方に程近い昼に起きたことを知る。
「なんだここは。城にいたはずだったのだが」
知らない声が聞こえる。身体に染み込む心地よい男性の声だ。
TVをつけっぱなしで寝ていたのかもしれない。
消すのも億劫だし、このままもう一度寝よう。クッションを抱きなおして、私は頭を空にした。
「ここの主だろう?悪いが何故私がここにいるのか教えてくれないか?」
気になる内容だ。記憶喪失ものだろうか。
折角寝ようと思ったのに、頭にTVの内容がぐるぐる回る。
「就寝中で大変申し訳無く思っている。しかしどうか私の相談にのっては頂けないだろうか?」
必死なようだ。折角のいい声だがこれは睡眠の妨げになる。消そう。
私はのろのろと布団から顔を出した。
「すまない。起こすことになってしまって」
知らない人が、ベッド脇にいた────。
「い、ぎゃぁああああああああああああ」
◇
「大変申し訳無い。女性の部屋に無断で入って……とは言え、私も入った覚えなどないのだが」
「い、いえ、あの、別に、気にしないで、は、ははは……」
燃えるような赤い髪、時代を感じる昔の洋風の服装、赤い瞳。
そして背後にある────カニパンの被り物。
「改めて、自己紹介をさせて頂こう。私はヴィルヘルムと申す。以後お見知りおきを」
知ってる。言われなくとも。
私は、この人の名前を、知っている。
「……です。宜しく御願いします……」
「さん、か。この度は数々の非礼をお詫び申し上げる」
「いえ、気にしないで下さい。ほんと、大丈夫ですので」
「貴女はとてもお優しい方だ。私を不審者として突き出してもいいものを」
「そんなこと、ないですよ」
そう。そんなことない。
私はヴィルヘルムを知っているから、そんなことをしないだけだ。
ヴィルヘルムとは、ある会社が開発したゲームの……キャラクターの一人だ。
出身地は魔界、誕生日はⅣ月ⅩⅤ日、趣味は魂集め ガーデニング。
好きなものは美しい魂の火・優秀な部下、嫌いなものは醜い魂の火・無能な部下。
私はそのゲームがとても好きで、大好きで、よく友人とも騒いでいた。
少ないお小遣いを持ってゲームセンターへ行ったり、ゲームの曲が収録されているCDを買ったり、
スコア詰めに勤しんだり、ゲーム内のイベントを指折り数えて待っていたりしていたあの頃。
時が経ち、私はそのゲームをしなくなった。
ゲーム内容に飽きたとか、嫌いになったとかではなくて、自然と離れていった。
多分、ゲームより優先しなければならない事案が増えていたからだろう。
ゲームというものは、ある程度の暇がなければ出来ない。
私はゲームというもの自体に関心がなくなっていた。
その好きだったゲームも、今なお開発が続いているのか、それとも終了したのかさえ知らない。
あんなに大好きだったのに。開発終了まで付き合うと本気で思っていたのに。
もうICカードも、CDも、カードもどこにいったか判らない。
これほどすっかり忘れていたというのに、どうして突然ヴィルヘルムが現れたのだろう。
二次元のキャラクターが現実にいることも不思議だが、それは今が夢の世界であるという言葉がで片がつく。
どうしてもわからないのは、今このタイミングで現れたことだ。
確かに好きなキャラクターではあったが、現実という荒波に飲まれていった私は、彼を忘れた。
────会う資格なんて、私にはないのだ。
「とまぁ、よく判らないが、気づいたら君の部屋にいたんだ」
「ヴィルヘルムさん、この部屋から出たりしました?
私のことを気にせず、外出なさってみては?元の世界へ帰れるかもしれませんよ」
「いや、それが駄目だった。どうやら君の半径一メートルより離れることは出来ないらしい」
夢にしては、面倒な制約をつけるものだ。
過去に見た漫画の影響だろうか。
「どうにかしてあげたいのですが、私はいたって普通の人間ですので、
ヴィルヘルムさんを元の場所に戻す術はありません」
「そうか……それは困ったな」
この夢は私に何をさせたいのだろう。目的は何だ。
ヴィルヘルムを二次元に帰せば夢から覚めるのだろうか。
それとも、細かいことを考えなくともそのうち覚めるのか。
「手段がないのなら仕方がない。暫く世話になる」
「……はあ。判りました」
暫く世話になると言われても。
ヴィルヘルムは幽霊のような状態ではなく、実体化しているタイプである。
今も私の隣でベッドに腰掛けている。
なんとも扱いづらい。幽体の方がまだ楽だったと思う。
それだけじゃない。
さっきから普通に話しているが、一応この人は魔族という設定であり、
しかも魂収集が趣味という褒められない趣味をお持ちだ。
私、殺されたりしないだろうか。夢の中での死は現実の死と同義。
よって、いくら夢でも殺されるのは困る。
気になるところは他にもある。
「あの……ヴィルヘルムさんって普段そういう話し方なんですか?」
「そうだが。どこかおかしいか?」
「い、いえ……。その、きさまーとか、ふはははーとか、今宵の魂は云々とか……い、った、り……」
自分で言ってて恥ずかしくなってきた。
ヴィルヘルムはきょとんとして見せると、眉をひそめた。
「とんだ誤解だな。よく考えてみるといい。そのような言い方はあまりに古すぎやしないか」
「そ、そーですよね……」
「貴様、だなんて流石に聞かないぞ。お前まででは?」
「そ、そっすか」
私が痛い人みたいになってしまった。
あの設定は嘘だったのか。過去の私が信じてきたヴィルヘルムとはいったい。
「魂を食すのは本当だ。魔族だからな」
あ、その設定は継続なんだ。
「でも安心するといい。最近は魔族用に食事用魂が配給されていてな、
だから君の魂を奪ったり、食したりすることはない」
「そうなんですか」
身の安全は保障された。
それなのに、面白くないと思う自分がいた。
何もかもが、私の好きだったヴィルヘルムとは違う。
外見は想像通りなのに、中身はそこらにいそうな普通のお兄さんで。
とてももやもやする。
「さて、君はどうするんだ。朝食は?」
「いえ、もう昼過ぎですし……面倒だからカップ麺で」
「かっぷめん?」
現代の知識がないのか、それともただ魔界にはそういうものがないのか、
ヴィルヘルムは不思議そうに私が食べるカップ麺を見ている。
「不思議だ。お湯を入れただけで食物が出来るのか」
「魔界の方が不思議なものは多いでしょう」
「いや、食事に不思議なものなどない。魂を食らい、エーテルを取り込み、同胞と合体したりするくらいだ」
人間からすると十分不思議である。
「腹拵えが終わったらどうするんだ?亡者の阿鼻叫喚でも見に行くのか」
「行きませんけど」
偶に魔族っぽいことが飛び出してくる。
だけど、やっぱり違う。私の中のヴィルヘルムとはあまりに違いすぎる。
自信家で、人を見下して、他人を馬鹿にしてて、強引で、怖いもの知らずで。
そんなヴィルヘルムが、当時はかっこよくて仕方がなかったのに。
どうして、ここにいるヴィルヘルムはこんなに普通なんだろう。
もやもやを通り越して、苛々してくる。
「どうした。そんなに見つめられては居心地が悪い」
「すみません」
「いや、悪いことではないんだが……すまない、視線は気になるのだ」
赤毛も赤目も、想像以上に素敵だった。
外見に関しては全て思った通りなのに。
「……あの、ヴィルヘルムさんってずっとその性格ですか?」
「先程から不思議なことを聞くな。……自覚出来ている範囲では、私は昔からこのような性格だ。それが?」
「いえ。なんでもないんです」
これが、真実だ。
いいじゃないか。こんなヴィルヘルムだって。
もし私が思うヴィルヘルムのままだったら、きっと話し合いだって出来なかった。
過去を追うのは止めよう。
元々彼は曲と外見が開発者によって与えられた、ゲームのキャラクターだ。
あのゲームは開発陣が詳しく設定を付けないからこそ、ユーザーが自由に設定を作り上げていった。
本来の彼を無視し、私たちは自分たちの都合の良いように肉付けしただけ。
それなのに私は、それを理解しつつも、何故か、彼に、裏切られたような気がして。
「……どうした。何か不快感を与えてしまったか」
「いえ、そんなことはないです。ただ…………その、買い物に行きたいんですが、どうしましょう」
「同行しよう。気にせず君は用を済ませてくれ」
彼の姿は他の人に見えるのだろうか。
いや、私がいちいち心配しなくとも、夢なのだから気にしなくてもいいか。
私は簡単に着替えて近所のスーパーへ。
ちなみに、着替えの最中ヴィルヘルムはしっかりと後ろを向いてくれた。
婦女子の着替えを見ることは軽蔑されるべき行動であって云々と堅苦しいことを言っていて、
私の思うヴィルヘルムとは全然違う反応だが、なんだか少し面白かった。
ヴィルヘルムと同行している間、何人かの人とすれ違う機会があったが、
誰もヴィルヘルムが見えているような反応はなかった。
つまり、彼が見えるのは私だけ。声も他の人には聞こえていないようだった。
「いいですか。誰も貴方の姿は見えませんし、声は聞こえません。
ですから、私が貴方の言葉に言葉で返しますと、他の人が不審に思います」
「成程。つまりこれから先、君は私をいないものと扱うということだな」
「失礼は承知しておりますが、御理解を」
「いや、構わない。君に不都合がある方が問題だからな。気にすることはない」
彼は私の言い分に理解を示し、同意した。聞き分けの良い人である。
誰にも聞こえていないことを良い事に、彼は好き勝手に私に話しかけていた。
「ほう……。これがすーぱーというものなのか」
「なんと!ここは涼しいぞ!冷気の魔術か!ずっと出し続けるのか!」
「市場とは違い、あまり人間がいないのだな」
「魚が泳いでいる。こっちを振り向いたぞ。威嚇し返してやる」
「先程のかっぷめんだぞ。購入しなくて良いのか?」
「ぴっ!とな。これは面白い。どんな魔術なのだ?」
身体は私よりも大きいというのに、子供みたいにはしゃぎ続けた。
美形の癖に無邪気に笑っちゃって。私はそれを、少し可愛いと思った。
だから家に帰ってから教えてあげよう。
あれは、魔術じゃないよ、ぜーんぶ機械だよと。
きっと目を丸くして驚いてくれるだろう。
私は会計を済ませ、大きなレジ袋を二つ持って外へ。
それを見て、ヴィルヘルムはしょげていた。
「すまない。女性にこのような重い荷物を持たせて……役に立たん男ですまない」
「いえ、いつものことで慣れてますから」
ヴィルヘルムは自分が持つと言い張ったが、私は断った。
姿の見えないヴィルヘルムがレジ袋を持つということは、他人からはレジ袋だけが浮いて見えるからである。
「そうだとしても、同行しているのに」
「そのお気持ちだけで嬉しいですよ。それに私も運動しないと駄目ですし」
「すまない」
調子が狂う。ヴィルヘルムがこんなに優しいなんて、しかも私に対して。
私の中の彼じゃ絶対にあり得ないことであるが、素直に嬉しかった。
ヴィルヘルムは二次元の住民であるお陰で顔に関しては非の打ち所が一切ない。
そんな男に優しくされれば、女は誰だって嬉しくなるものだ。
────本当に、それだけだろうか。
その疑問はすぐさま頭から消え去った。
すれ違う通行人にぶつかってしまったからだ。その衝撃で私はそのまま尻餅をついた。
「すみません。お怪我はありませんか?」
同じく尻餅をついている男性に声をかけた。相手はかなり痛がっている。
「おい、ちゃんと前見ろや」
接触相手の友人らしき人が私に怒鳴った。
私は頭を下げ、何度も謝罪の言葉を繰り返す。
「謝りゃ済むってか?ふざけんじゃねぇぞ」
「大変申し訳御座いませんでした」
「ほら見ろ。ツレが滅茶苦茶痛がってんだろうがよ」
確かに痛そうに呻いている。だが外傷は見られない。
骨折なのだろうか、ねんざなのだろうか。それとも腰を痛めたのか。
「ちょっと来てもらうぜ。アンタのせいなんだから治療費はそっち持ちだからな」
「判りました。では一度救急車を呼びましょう。急がないと何かあっては問題ですから」
鞄に仕舞っておいた携帯を取り出すと、叩き落とされた。
「呼ばなくても判んだろうが。ほら、早く金出せ」
そこでようやく私は気づいた。これはたかられていると。
よく見れば、衝突した相手は痛がる箇所が微妙にズレてきている。
これは疑いようもなく演技だ。
「さっさとしろや!」
元気な方の男性に手首を強く握られた。相手の力があまりにも強くて振りほどけない。
今声をあげてもなんとかなるだろうか。いや、悪戯と思われそうだし、そもそもここは民家が少ない。
このタイミングで目が覚めてくれるなんてことないのだろうか。
いや、夢とは覚めて欲しい時は絶対覚めず、覚めて欲しくない時は絶対に覚めるのだ。
無駄なあがきとは知りつつも、夢が覚めることを繰り返し願った。
だが、場面は変わらない。手首の痛みは増すばかりで。
「いい加減にするのはそちらの方だ」
ヴィルヘルムが私の前に出た(しかし、相手には見えていない)
私を掴んでいる相手の手首をぐっと掴むと、相手は苦悶の表情を浮かべて私を離した。
「いってーな。なにしやがった」
私を後ろに庇ったヴィルヘルムが、相手と対峙する。
「私はこのような下等生物は嫌いでな。殺したくなる」
声のトーンが今までとは一転し、低く冷徹なものになる。
下ろした両手には、ヴィルヘルムのアニメーションにあった蒼炎が現れていた。
「君は後ろを向け。あまり良いものではないぞ」
雰囲気の重さに本当に殺す気なんではないかと思った。
やばいと思った私は慌てて声を張り上げる。
「ヴィル!止めて!!」
後ろから彼に抱きつき、両手首を掴んだ。
拘束する手が熱い。この蒼炎、幻覚ではなく本物の炎と同じだ。
「こいつ何一人事言ってんだよ……。頭ヤバイタイプかよ。気持ち悪い」
あちらから見ると、私のことがとても変に見えたことだろう。
なんせ突然叫んで、必死に空気を掴んでるんだから。
しかし、そのおかげで面倒な人たちは自主的に帰ってくれた。
ヴィルヘルムは魔術を解き、私の方を向くと思い切り頭を下げた。
「すまない。君に迷惑をかけてしまった」
「いえ……」
「最初は黙っていようと思った。しかし奴等は君を騙し、危害を加えようとした。
汚らしい男に触れられる君を、私は黙って見ていられなかった。
本当にすまないことをした」
「いえ……謝ることなんて一つもありません」
ヴィルヘルムはただ助けてくれようとしただけだ。
「……疑問なのだが、今日初めて会ってから一番楽しそうなのはどうしてだ?」
「ぃひえ!?いえ!そんなことはありませんよ!!」
からまれたことには驚いたけれど、正直得した気分だ。
ヴィルヘルムのあんな顔見られるなんて。あれこそ私が求めていた表情だった。
冷徹で、滲み出る圧力、妖しく輝く瞳。
あの当時、大好きだった、彼の姿を見ることが出来た。
「……」
「はい!?なんでしょう!?」
「……いや。君が恐怖を感じていないならいいんだ」
ヴィルヘルムは呆れているようだった。
冷静に考えれば恐怖を感じてもおかしくない。
相手は成人男性二人で、私はそれほど強くもない女なのだから。
けれど、そんなことどうでも良かった。
"あの時求め続けていたヴィルヘルム"がこの場に現れた。
昔、持っていた感情が一気に戻ってくるのを感じる。
「あ、あの……。さっきは本当に有難う御座いました」
「婦人を守るのは紳士として当然のことだ。それに」
「……それに?」
「いや、なんでもない。早々に君の自宅へ帰ろう。また変な輩に絡まれても困るからな」
さり気なく肩を抱かれた。そっと道の端へ引き寄せ、進行を促す。
そしてふっと手を離したならば、私の前で先陣を切る。
私は俯いた。彼がこちらを見ないことを願いながら。
私は、今、どんな表情をしているだろう。
◇
あの後、無事帰宅した私たちは、まず購入した物を冷蔵庫の中へ。
先程の分を取り返すと言って、ヴィルヘルムは懸命に私の手伝いをしてくれた。
いつもよりも早く終わったことが、なんだか奇妙に感じる。
「食事の支度をするので、ヴィルヘルムさんは適当にくつろいでいて下さい」
「しかし!……いや、大人しくしていよう」
食いついてこなかった。
予想ではこちらも手伝ってくれようとすると思った。
しかし、好都合だ。私の手際の悪さを見て注意されるのも面倒だし、命令されるのも嫌だし。
と、私の傍でクッションの上にちょこんと座るヴィルヘルムを見る。
ワンルームの女の部屋にいるなんてあまりにも似合わない姿。
私の想像の中では絶対にあり得なかった。
けれど、これはこれでいいかと思い始めていた。
「ヴィルヘルムさん、そろそろカーテンをしめて欲しいのですが」
「了解だ」
だが一メートルという制約のせいで手が届いていない。
結局魔術っぽい何かを用いて、カーテンを閉めていた。
へーんなの。カーテンを閉める為に変な力を使うなんて。
そう思いながら、私は今日の夕食の支度を始める。
いつもならば面倒くさいと、適当に惣菜を買うなり外で済ませるのであるのに、どんな風の吹き回しか。
三十分ほどで夕食は出来た。久しぶりの手料理だ。
「出来たのか」
テーブルに配膳すると、ちょこちょこっと来て私の目の前に座った。
「えっと、良かったんですよね……?一人分で」
「ああ。私は問題ない。召し上がるといい」
「それでは遠慮無く。いただきます」
今日はハンバーグを作ってみた。
久しぶりに料理をしたせいで米を炊き忘れてしまい、炭水化物はパンで補うことにした。
スーパーで気づけなかったら、私はおかずのみの夕食になるところだった。
「……ん」
味はまずまず。自分で作ったせいかあまり感動はない。
ただ、安心する。やはり既成品とついさっき作ったものでは大きく違うのだ。
パンをちぎって口の中へ入れながら、目の前の彼を見る。
「……え、っと、……一口食べます?」
「そんなに物欲しそうな目で見ていたのか?」
私は頷いた。
彼にこれでもかというほどに凝視されていた。
魔族は毎日食物を摂取しなくとも大丈夫だと言うことらしいが、
人間と同じく目の前でご飯を食べられると、自分も何か食べたくなるのだろうか。
「……本当に良いのだろうか?」
あ、本当に食べたかったんだ。
「味の保障はしませんよ」
ハンバーグを食べやすいよう一口サイズに切り分けてフォークに突き刺し、ヴィルヘルムに向けた。
私の手から直接食べるヴィルヘルムは、まるで動物みたいで可愛らしかった。
と、思ってから自分の失態に気づいた。
紳士キャラに自分が使っていたフォークであーんとして良かったのか、
そしてなんで私は何の躊躇いもなくあーんとしてあげてしまったのか、
これって間接キスになるんじゃないかと、私の頭は様々な感情が入り乱れている。
「君は料理が上手なのだな」
何故褒める。簡単だよ。手抜きだよ。材料だって見切り品だよ。
「そんなこと、ないです……」
「久しぶりの人間の食事、美味しかったぞ。礼を言う」
「……そんな、こちらこそ」
ヴィルヘルムが朗らかな笑みで言うものだから、恥ずかしい。照れくさい。顔が見られない。
私は目線をやや下向きに固定して、黙々と食事をした。
ヴィルヘルムはそんな私の様子をずっと見ているようだった。何も言わずじっと。
なんでもいいから他のものに興味を持ってくれと、テレビもつけたが、それでも彼は変わらず。
黙々と平らげたが、ヴィルヘルムのせいで食物の味を全然感じなかった。
「ごちそうさまでした」
ふっと、食事中見られなかった彼の顔を伺った。
笑いを堪えている様子で、私は更に恥ずかしくなった。
食器を重ねてシンクへ向かう。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。急いで気持ちが整えたい。平常心を取り戻さなければ。
そんな中後ろに気配を感じ、身体が硬直した。
「すまない。少しからかいたくなって」
「……私、そんなに変でした?」
「いや」
「じゃあなんですか」
「……教えるのは構わないが、食器を洗い終えてからにしよう」
すぐ言えばいいものを。私はさっと皿を洗い手を拭いた。
勇気を出して後ろを振り返って、彼を見上げる。
「で、答えはなんなんですか」
「率直に言うと、君が可愛かったのだ」
さらりと答える彼。
容量をオーバーした私。
「もういいです!私お風呂入る!」
「待て!私を忘れていないか!!」
はっと気づいた。私たちは一メートルの制約があることを。
「あ、明日会社なのに……お風呂入れないとか……」
「嘆くな。私は外でじっとしている。それでいいだろう」
じーっとヴィルヘルムを見た。
今まで紳士的な態度をとっていた。下心も無さそう。多分。
「やっぱりよくないです!!」
信用しきれなかった私は彼に目隠しを命じた。
「……これで君が安心するならそれでいいが」
タオルで彼の目を覆い、余った布はゴムで括った。
彼は今、何も見えていない。私が何をしても、どんな顔をしても。
だから、いいんだよね……。
風呂場の扉を背に座る彼の隣で、一枚一枚衣服を脱いでいく。
見てるはずがないのに、私は恥ずかしくてしょうがない。
着替えは既に体験したが、その時は下着まで脱がなかった。
だからそれほど恥ずかしくなかったのに。
私は胸を抑えながら、慎重にショーツを脱いで、彼に背を向けた。
見えていないと判っていても、裸になった今彼へ向くことが出来ない。
脱ぎ終わった下着類をスカートの中に隠して畳んでおいた。
自意識過剰だとは思うが、隠さずにはいられない。
そっと風呂場へ入って扉を閉める。
磨りガラスの向こうに不動の黒い塊が見える。
ヴィルヘルムはちゃんと約束を守っているようだ。
安心した私は普段通りにシャワーを浴びた。
温かいお湯が身体に染みこんで気持ちがいい。
普段の会社の疲れもどんどんと軽くなっていく。
と、胸に大きな衝撃が走った。血の気が引いていく。
会社への連絡をしなければいけないことを思い出した。
予定よりは随分遅いが、兎に角連絡をしなければならない。まず開口一番に謝罪だ。
私は急いで風呂の扉を開けて、普段通り着替えの隣に置いてある携帯を取ろうとした。
しかし、今日はその"普段"ではなかった。
入り口に座っていたヴィルヘルムを思い切り蹴飛ばし、しかもそのままその上に倒れてしまった。
突然のことで受け身を取ることが出来なかったのに、一切痛みがないのはヴィルヘルムが私の緩衝材となってくれたおかげで。
なんともまずい状況である。
「君はなかなかに、大胆な女性だな」
脇腹から指が滑っていき、くすぐったさに声を上げた。
背筋がぞくぞくとする。
「目の前に女性の裸体が無防備に晒されているとなると、問答無用で頂いてしまいたいところだが」
彼はまるで私のことが見えているかのように、
触れられたくない箇所を全て避け、最小限の接触に留めて、私を立たせた。
「急ぎの用があったのだろう。早く済ませた方が良いんじゃないか」
ヴィルヘルムを押し倒したことで、会社のことがすっかり頭から飛んでいた。
私は急いで電話をかける。幸い問題はなかったようで、一安心であった。
「良かった……」
「そうか。なら早く戻るといい。そのままでは身体を冷やすぞ」
彼の言う通りに、風呂場に戻った。
止めていたシャワーを再開する。
さっきまで会社のことでいっぱいだった頭はまたヴィルヘルムに占領された。
とんでもないことをした。
目隠しをしていたのだから何も見られてはないが、彼が私を見ていたような錯覚が拭えない。
私は全裸でも、相手は服を着用しているわけだから、相手は何も感じ無かったに決まっている。
それなのに変な話。……少し興奮した。
触れた指先の動きを未だ鮮明に覚えている。
優しくもあり、魅惑的でもあった。
あのまま彼が私を抱いていたらどうなっていたのだろう。
予想であるが、私は拒否しないと思う。流れに身を任せていた。
触れられても嫌悪感は一切無く、寧ろ物足りないくらいで。
お風呂を出てどんな顔して会えばいいのだろう。
そんな心配を抱えながら、風呂場の扉を開けた。
すぐにタオルを差し出される。
「着替えが済んだら教えてくれ」
いそいそと着替えて、脱いだ服をカゴに放り込んだ。
彼の目を覆うタオルをゆっくりと取り除いた。
深い赤の双眸が露わになっていく。
「身を綺麗にして心地良いだろう。明日は朝が早いのだろう。早めに就寝するといい」
さっきから、彼はいたって普通である。
動揺しているのは私だけなんだ。
それに気づくと、気持ちがすぅっと冷めていって冷静さを取り戻す。
「……そうですね。でもまだ早いですよ」
「そうか。なら普段はどうしている?」
「いつもならテレビ見てぼーっとしてますけど……」
ヴィルヘルムがいる横でテレビ鑑賞するのは味気ない。
「話し相手になってくれませんか」
「光栄だ。喜んで相手をしよう」
緑茶を入れて、談話の準備を整える。
ヴィルヘルムは初めての緑茶に興味津々で、一口飲んで美味しいと言っていた。
それから、二人で沢山の事を話した。
魔界のこと、仕事のこと、音楽のこと、大学のこと、ポップンパーティーのこと、同僚のこと、
フィーバー四天王のこと、人間界のこと、魔界のこと。
私もヴィルヘルムも住む世界が全く違うため話題は尽きない。
興味がないだろうと思ったくだらない事も、ヴィルヘルムは大いに驚いて身を乗り出して聞いてくれる。
逆に私も、ヴィルヘルムが省いた事柄が気になったり、ポップンワールドの日常に驚きを隠せなかった。
話は盛り上がり、時間はどんどんと過ぎていく。
ちらっと見て驚いた。もう十二時が来ると。明日は朝早いのでもう寝なければならない。
だが、私は会話を止めて、寝ようとは言い出せなかった。
話せることを話して、聞いて、笑って、相槌を打って。
だが、ヴィルヘルムは私の小さな変化に気づいたのだろう。
もう寝るべきだと諭しだした。
「明日早いのだろう。それに健康にも良くない。もう日を跨いだんだ、寝なさい」
「大丈夫ですよ。そんなに気にしなくたって良いですよ。お母さんみたいです」
「致し方あるまい。君が駄々をこねる子供のようなんだから」
「何言ってんですか。私はもうおばさんですよ」
「……」
ぽんと頭に手を置かれた。
「……不安なのか」
「何言ってるんですか……」
不安なんかない。ただ楽しいだけだ。
「せっつかれたように話している。心ここにあらずだ」
「そんなことないですって」
ヴィルヘルムの話は楽しい。
私の話をうんうんと聞いてくれるヴィルヘルムが良い。
だから話している。心はいつだって踊っていて。
「……すまない、苦しめたいわけじゃなかったんだ」
「そんな、大丈夫ですよ」
大きな手が頭を滑り降り、頬に触れる。
掬い取っていく。
落ちていく涙を。
「すまない」
もうすぐ一日が終わる。区切りがくる。
すると、もしかすると、ヴィルヘルムとのこの夢も終わってしまうかもしれない。
それが、怖くて、不安で、嫌で、私はこの夢が覚めないように、"今日"を継続している。
「謝ることなんてないじゃないですか。それよりもっと聞かせて下さい」
止めないで。
終わらせないで。
私はまだ────。
「……少し、失礼する」
ヴィルヘルムは軽々と私を持ち上げると、自分の足の間に置いた。
彼は私から流れる涙をもう一度拭う。だがすぐに彼の輪郭がぼやけていく。
「女性の涙は美しくもあるが、今は笑っていて欲しい」
「泣いてなんかいません」
「そうか。そうだったな。すまない、見間違えだ」
そう言って、ヴィルヘルムは私をゆっくりと抱きしめた。
厚い胸板が、逞しい腕が私を包み込んでくれる。
それが温かいものだから、私はこの夢にしがみついてしまう。
「っ!何故もっと泣きだした!?私がそんなに嫌か!?」
「ち、ちが……っ、ちがう」
放されないように、私は彼の服に皺が寄ることも構わず、ぎゅっと掴んだ。
「……全く。困った女性だ、君は」
時計の針がかちかちとなる。少しずつ確実に時間は過ぎていく。
もちろん私のこの不安が杞憂である可能性はある。
こんなに泣いて慰めてもらった挙句、
朝になってもヴィルヘルムはそこにいます、なんて事になったら、私は相当間抜けだ。
だが楽観視して、忽然と彼が消えていたら、私は今後後悔が止むことはないだろう。
「君は、いい香りがするな」
「……突然どうしたんですか」
「思ったことを言ったまでだ」
「変」
「変とは何だ。君は会ってから私に勝手に失望し、勝手に苛立って、意味がわからない」
気づいていたんだ。
私がヴィルヘルムと、"ヴィルヘルム"を比べていたこと。
「……その理由を聞いてもいいだろうか?私を驚かなかった君のことだ、何かあるのだろう」
勘のいい人だ。私は包み隠さず話すことにした。
彼がこちらのゲームのキャラクターであることを。
「なるほど。つまりゲーム内の私と、この私が違っていたわけだ」
「外見は一緒ですよ」
デフォルメされてない分、今の方が格好いいけれど。
「それで君は、ゲームの私と、今の私、どちらが良いのだ?」
きょとんとしてしまった。
彼の顔を見ようと彼を押しやると、ぐっと後頭部を押さえられ拒まれた。
「どちらか答えるんだ」
迷いはない。答えは驚くほどすんなりと滑り落ちてきた。
「ヴィルヘルムさんがいい。
スーパーに驚いたり、私を助けてくれたり、お風呂で下敷きにしたり、泣いてる私を慰めてくれた貴方がいい」
今まで私が抱いていたヴィルヘルム像が少しずつ崩れていくのは苦痛であり、裏切りであった。
それがいつの間にか、目の前の彼にヴィルヘルム像が塗り替えられていった。
私にとってのヴィルヘルムとは、目の前の彼だ。
「……そうか。そこでもう一人の私を答えていたら、立場が無かったところだ」
「流石にそれはないですよ」
「さて、確かめた所で、君には言わねばならないことがある。
恐らく私の時間はもう少ないだろう。朝までもつとは思えない」
やはり、私の不安は正しかったのだ。
「消える前に君には伝えておきたいことがある」
ふっと放して、私の両肩を持つ。
「一日しか過ごせなかったが、君と会えて楽しかったぞ」
優しい眼差しを向けて言うものだから、また涙腺が壊れていく。
「わ、私も……その、大好きな……人だから。凄く大好きで……大好きで」
過去、私はヴィルヘルム大好きだった。一番大好きだった。
そして今日、再び出会ったヴィルヘルムに恋をした。
「そう熱烈に言われては、私も少し照れくさいな」
「でも!……私、ずっと、ヴィルヘルムのこと、忘れてた。忘れてたのに」
「忘却の彼方にいた私をここへ召喚出来たとは。君はしっかり私を覚えていたということだ」
「違う。私」
「本当に忘れていたのならば、私は出現しなかっただろう。
多忙で他のことを考えられなくなることはよくあること。気にするな」
そう言われたって気にする。
私は彼を完全に過去のことにして、仕舞っていたのだ。
「私がいいと言っている」
有無を言わさない口調。
滑り落ちる指先が私の唇に触れて、言葉を拒んだ。
私は謝ることをやめた。
「いい子だ。……では、一つ。我儘を許しては頂けるかね」
「はい。出来ることならば」
「簡単だ」
後頭部に手が回され、そのままキスされた。
舌先が滑り込み、口内を容赦なく荒らしていく。
伸ばした舌先と彼の舌先が触れ合い、たっぷりと味わっていく。
突き抜けていく快楽。
私は羞恥心を忘れて声を漏らすと、彼は角度を変えて唇を啄んだ。
彼の唇が舌が糸を引いて離れていく。
もっと彼を与えて欲しいと思って、私は鼻先を近づけた。
「……ぁ、……ヴィル!?」
このままずっとずっと口付けていたかったのに。
「甘美な夢をありがとう、」
彼の姿がみるみるうちに透明になっていき、忽然と消えた。
「ヴィル?!」
彼を探そうと立ち上がると目眩がした。
視界がぼやけ、そのままブラックアウトした。
◇
朝起きたら、もう何もなかった。
ヴィルヘルムがいたという証拠はなく、他人にも自分にも証明できない。
あれはいったいなんだったのだろう。
会社への出勤準備のためシンクを覗いた。
洗い物のないシンクは輝いている。
冷蔵庫を見れば、ヴィルヘルムと買った食品が沢山詰まっていた。
洗濯物のカゴを見れば、昨日着た服と、彼の目隠しに使ったタオルが入っている。
いたんだ。
彼は、ここにいたんだ。
姿は無いけれど、写真もないけれど、────もうきっと会えないけれど。
忙殺される日常で、きっとまた昨日のことは忘れてしまうだろう。
でも、そのうち、なにかふとしたきっかけで思い出すだろうか。
昔、好きだった"人"のことを。
fin.
(13/04/09)