「奥様、お食事の準備が整いました」
「ええ、わかったわ」
無表情のメイドが私のために扉を開き、食堂へ行く私の後ろを歩く。
いつものことながら、それに軽い嫌悪感を感じてしまう。
私は小さく溜息をついた。
本当ならば、その位置に立つのは幼い頃から私の世話をしてくれていたメイドのはずだった。
しかし、嫁ぎ先の主、つまりは私の夫がそれを禁じた。
結婚の条件の一つが、私側の使用人を一切連れてこないということだったのだ。
気難しい方なのだろう。公爵家に嫁げるのだからそれくらいは目を瞑ろう。
父はそう言って、この条件を飲んだ。
だからこの城には、気心知れた人間は誰一人いない。
食堂に着くと、既に我が夫が席についていた。
「遅かったが、体調でも悪いのかね。すぐに内科医を呼ぶが」
「いえ、大丈夫です。お気遣い有難う御座います」
こうして私と夫の静かな食事が始まる。
食事中は食器同士が触れる音がするばかりで、あとは執事が給仕する音がするくらい。
この城のコックの料理は大変美味であると思うが、その本来の味を私は楽しめていないように思える。
私は美しく食事をする夫を盗み見ると、心の内でそっと溜息をついた。
私はこの人と結婚し、妻となった。この家の者になった。
しかし、私はいつも孤独だった。
夫がいたところで、ろくに会話は無く面白みなんてものは無い。
毎食毎食、夫との食事が苦痛でたまらなかった。
端整な顔立ちの夫は確かに美しいし、それが自分の夫だということは自慢である。
とは言え自慢をする相手が、私にはいないのだ。
食事を終えると夫は仕事に戻り、私はアフタヌーンティーまで暇を持て余すことになる。
城内にいても何もすることがないので、今日はガーデンの散歩を行うことにした。
付き人は断った。夫は何時でも付き人はつけろと言うが、彼らを連れて歩きたくない。
どんな話をしようと、事務的な言葉ばかりでつまらないのだ。
一緒に居ても息が詰まる。
こんなこと、実家ではなかったのに。
身分の違いはあれど、それを気にさせないくらい気軽に話せた。
今はもう、そんなことない。きっと今後死ぬまでないだろう。
結婚なんて、しなければ良かった。
家のためにと嫁いだが、まさかこれほど息苦しいものとは思わなかった。
皆こんなものなのだろうか。
母と父は私が知る限りとても仲が良く、このような夫婦になりたいと憧れていたのに。
現実は、こんなにもつまらない。
夫のヴィルヘルムは仕事ばかりで、結婚する前は会話もあったというのに、結婚後は一日数える程度しか言葉を交わさない。
寝室も未だに別々で、夫婦という実感なんて一切無い。
豪華な部屋を私にくれたが、妻の部屋というより、まるで客室を宛がわれているよう。
暇だからと晩餐会や舞踏会に出席したいと思っても、夫はそれをあまり良しとはしない。
必要なものは出席するが、むやみやたらと出席することは嫌がるのだ。
夫が駄目というのならば、私は従うしかない。
こうして、私は、毎日何の楽しみもなく、一日を城内で過ごすという、
まるで監禁にも似た結婚生活を送り続けている。
夫は、いえ、ヴィルヘルムは、私の、私の、飼い主だ────。
◇
「すまないが、この後私に付き合ってはもらえないだろうか」
と、言われたのが夕食時のこと。
なんのことだろうと思いつつも、私は了承した。
ヴィルヘルムの後についていくと、着いたのはローズガーデンだった。
それはガーデン内にある、ガラス張りの温室。
主人であるヴィルヘルム以外、誰も入ってはいけないと言われているところである。
よって、私は一度も入ったことが無い。外からちらりと目をやる程度である。
「来なさい」
ガラスの扉が開かれる。未踏の空間へ私は遠慮がちに踏み入れた。
「……美しい」
目の中に圧倒的な存在が入り込んできて、思わず息を飲んだ。
透明なガラス張りの外からは見ていたが、中から見た景観はまるで違う。
一目でこの薔薇を手入れしている庭師が相当の腕を持つことがわかる。
薔薇の種類は多いし、剪定が上手いのだろう、薔薇の花が枝にバランスよくついている。
これだけの規模を維持できるということは、日々本当に細やかに薔薇のことを考え、手入れしているということだ。
「これを手入れなさっているのはどなたですか?」
「私だ」
庭師ではなくヴィルヘルム自身が行っていることに、私は驚きを隠せなかった。
領主としての仕事が忙しい中、薔薇の手入れを行う余裕などないはず。
私はこの勤勉さに感嘆するしかなかった。
しかし、同時に、私の相手はしないのに薔薇の世話はするのかと思ってしまった。
「君も好きに訪れるといい。本来ならば私以外の者は入れないが、君は特別だ」
ヴィルヘルムに特別だと言われて、私は素直に喜びを感じた。
ヴィルヘルム以外入れないローズガーデンに、私は自由に行き来する許可を得たのだ。
私に関心が無いのだろうと思っていたが、そういうわけではないのかもしれない。
「有難う御座います。ヴィルヘルム様」
「礼など必要ない。私達は夫婦なのだから」
夫婦、だなんて。
本当にこの人はそう思っているのだろうか。
確かに今、ヴィルヘルムの心の中にほんの少し入れた気はした。
けれど、まだまだ私達の距離は遠いもの。
「あの、ヴィルヘルム様」
「すまない。私はまだ公務が残っている。
君は好きなだけいるといい。外に使用人を待たせてある」
そう言って、ヴィルヘルムは私を置いてガーデンを出て行った。
入り口付近には、また無表情のメイドがいる。
ほら、やっぱり。
私とヴィルヘルムは形だけの夫婦に過ぎないのだ。
◇
「え、ラウベルク侯爵が?」
「面倒であるが仕方あるまい。君も好きに仕立て屋を呼ぶといい」
用件だけ伝えると、ヴィルヘルムは去った。
公務に戻ったのだろう。今日も忙しいのだ。
それなのに、急に舞踏会なんて入ったものだからきっとあまり機嫌がよくない。
とは言え、私としては久しぶりに誰かと交流する機会を得られたことは嬉しい。
さっそく仕立て屋を呼んで採寸してもらおう。
今回はどんなドレスを頼もうか。服飾のことを考えていると気分が明るくなる。
これでしばらくは楽しく過ごせることだろう。
「お久しぶりですわね」
参加者の一人に、私はにこりと微笑んで対応した。
私は世間的に見てヴィルヘルムの妻なのだ。
夫の顔に泥を塗るわけにはいかない。失礼のないように挨拶回りを行う。
不快な思いをさせないように、気に入られるように、私は一生懸命立ち回る。
夫の足を引っ張らないために。
そこで、よく社交界でお会いするご婦人に会った。
「どうです、結婚生活は?」
「ええ。特に問題はなく」
問題だらけであることは言わず、無難に返す。
何かしら噂を立てられては困る。社交界で流れた噂の周りは早い。
誰かの心無い噂は時に真実を歪め、それが原因で社交界から締め出されてしまうことだってある。
「あれほど美しい夫を持ててさぞ自慢でしょう。それに公爵だなんて」
「いえ、私なんて……」
とりあえず否定をしつつ、自分を下げる。
このお方は気をつけていないと、足元をすくわれてしまう。
機嫌を損ねないように細心の注意を払わなければならない。
「そういえば、ご存知かしら?面白い話があるの」
楽しげに婦人は笑う。
どんな楽しい話なのだろうかと、私は耳を傾けた。
しかし、話は予想もしていないようなことだった。
私は驚愕し、心臓がつかまれたような不安感が湧き上がる。
頭が重く、倒れてしまいそうになってしまう。
「あらあら、ご存知ありませんでしたのね」
ご婦人は楽しそうに、嘲笑う。
私は曖昧に笑いながら、次の方に挨拶に行かなければと言って逃げた。
広いホールの壁にもたれながら、身体を休め、心を落ち着けようとする。
しかし、先程婦人から聞かされた言葉はあまりに衝撃的で、全く安堵出来ない。
「どうした。顔が真っ青ではないか」
「ヴィルヘルム様……」
先程まで様々な方とお話をなさっていたはず。
多くの参加者がいると言うのに、私に気付くなんて。
「今日は城に戻ろう。侯爵には伝えておく」
「いえ、そんなことは、出来ません。侯爵様に失礼ですから」
「気にするな。愛妻家で有名な侯爵なら、妻が体調不良だからと言えばすぐに馬車を用意する」
ヴィルヘルムの言う通り、侯爵様に理由を話すと、早く帰った方がいいと、
まるで追い出すかのように私達を追い立てた。
こうして、私達は馬車に揺られながら自城へ帰っていく。
「無理はするな」
心配してくれるヴィルヘルムに私は曖昧に笑うと、彼とは逆の方に顔を向けた。
先程から心をざわつかせる不安。
その原因は、我が夫であるヴィルヘルムそのものなのだから。
◇
「すみません食欲が無くて」
そう言ってメイドを帰すと、すぐにヴィルヘルムが自室にやってきた。
「どうしたというのだ。昨日もそう言っていた」
「申し訳御座いません……」
「責めているわけではない。昨晩遣した医者も拒否したそうだな」
「少し……一人にして下さいませ」
「それは構わん。しかし、食事は必ずしろ。必ずだ」
ヴィルヘルムは有無を言わせぬ口調で私に注意すると、足早に部屋を出て行った。
多分、使用人たちに色々と指示をしているのだろう。
予想通りその後は自室に食事が運ばれ、使用人たちも運んですぐに部屋を出てくれた。
そのお陰で一人になれる。
ヴィルヘルムの気遣いによって。
複雑である。ヴィルヘルムが原因で気分が沈んでいるというのに、
そのヴィルヘルムの気配りのお陰で、私は好きなだけ落ち込めるのだ。
優しいのか、優しくないのか。
ヴィルヘルムのことはよく判らない。
結婚だって突然申し込まれた。そしてとんとん拍子に夫婦になった。
どうして、私に結婚を申し込んだのだろう。
何が目当てだったのだろう。
それを確かめるため、私はある部屋の扉の前に来ていた。
ここはヴィルヘルムが絶対に入るなと言っていた部屋だ。
私は今からこの部屋に入る。
そうすれば、ヴィルヘルムの秘密がわかるはずなのだ。きっと。
ただ、ここを開ければ、もう私達は元に戻れないだろう。
怖いと思う。
確かに私とヴィルヘルムは良い夫婦関係とは言えなかった。
でも、ヴィルヘルムは決して私に対して冷たい態度は取ることは無い。
あまり相手にしてもらえないだけで、今回だって心配してくれた。
嫌いじゃない。悪い人ではないと思う。
それなのに、禁じられたことを破るなんて罪悪感を覚える。
しかし。
私は確かめなければならない。
この不安を抱いたまま、この人の妻でなんていられない。
私は、意を決して扉を開いた。
中は綺麗な光がぽつぽつと暗闇に浮かんでいる。
それらはとてもふわりふわりと、浮いていて。
これは何だろう。蝋燭の火でも揺れているのだろうか。
黒に支配された部屋の中、よく目を凝らしてみると。
「きゃぁああああ!」
突然視界に飛び込んでくる黒い影。
私は反射的に身を縮こませた。
「!」
強い力が横からかかり、そのまま私を包んだ。
嗅ぎ慣れた匂いが鼻腔いっぱいに広がっていく。
安心する、匂い。これは、薔薇の──。
「何をしている!」
急に両肩をつかまれた。
見上げると、ヴィルヘルムが凄い剣幕で私を見ている。
「何故入った。禁じていたはずだ」
「申し訳……御座いません」
ばつが悪い。私は下を向いた。
「最近ずっと様子がおかしかった。……何があった」
「なにも……」
「言え」
強い語調と共に、肩に置かれた指に力が篭る。
これは言うしかないだろう。私は全て話した。
舞踏会の日、婦人が言ったことを。
ヴィルヘルム公爵は人間ではない。おぞましい悪魔である。
人をさらっているところを見た、
ある日の社交界に出席したと思えば、そこからさらに遠い土地で見かけたとか、
品の悪そうな者との交流があるとか、
巨大な城なのにそこで働いた経験のあるメイドや執事に会ったことが無いとか。
そして、今回の結婚は、贄として、若い娘が欲しかっただけであるとか。
そんな話をヴィルヘルムにした。
「ふん。つまらん人間どもめ。くだらん噂しか楽しみがないのか」
全てに耳を傾けてくれたヴィルヘルムはそう言って憤慨した。
「本当に申し訳御座いません」
自分で話していても、何を世迷言をと思う。
しかし居住を同じくしても、同じテーブルで食事を取っていても、私はヴィルヘルムのことを知らなさ過ぎる。
ヴィルヘルムの秘密が多すぎて、不安感を煽るばかりで。
もしかしたら、何か一つは本当かもと、思ってしまったのだ。
「……ここまできたのなら、話すしかあるまい」
ヴィルヘルムは禁じられた部屋の奥へと進んだ。
自然に私の腰に手をやり、部屋の中へ連れて行く。
「これが何かわかるか」
暗い部屋の中、何かの獣がそこにいた。
しかし暗すぎてよく見えない。赤い瞳が私を睨みつけているようだ。
「申し訳御座いません。私は知識が乏しく、よく判りません……」
「普通の者は知るはずはない。魔族だからな」
今、なんと。
あまりに驚かされてしまい、言葉が出てこない。
ヴィルヘルムは私に対して低く唸る獣を手で制するだけで、人以上の大きさの獣が大人しくなった。
なんということだ。
有り得ない。
こんな猛獣を手懐けることが出来るなんて。
特殊技術でもなければ無理だ。
「私は元人間の現魔族。この城にいる人間は貴様だけだ」
続く衝撃的な告白に私の頭がついていかない。
元人間ということは、今はもう人間ではないということ。
私は、人間ではないところに嫁いでしまったのか。
暫くの間一緒に住んでいて、一緒に食事して、一緒に社交界へ行っていたのか。
最初の口付けを交わした相手は、人間ではないと。
更にとんでもない事実に気付く。
この城には何十人もの使用人が存在している。
なのに、ヴィルヘルムはこの城にいる人間が私だけと言う。
「あ、あの……使用人の方は数に入っていないのでしょうか?」
「使用人を含め、人間は一人だけだ」
真実なんて知りたくなかった。
とんでもない事実の発覚に卒倒してしまいそう。
この城に嫁いで結構日が経過したというのに、それまで人間が私だけ。
わ、た、し、だ、け。
「で、では、どうして私を。私を、どうするおつもりで?」
魔族のヴィルヘルムがどうして、人間である私と結婚したのだろう。
という事は、ご婦人が言っていた、生贄のための結婚と言うのは事実だったのか。
「まだ判らんのか」
呆れたようにヴィルヘルムが言った。
やはり、私は生贄だったのだ。
結婚前は生贄の入手のために甘言で誘い、入手した後は逃げられぬよう囲うことだけ考えればいい。
だからヴィルヘルムは私と結婚後相手にしてくれなくなったのだ。
そう考えると全ての行動に説明がつく。
「全く。これだけ私が気を配ってやったというのに。理解しろ」
気を配った成果は十分出ている。
私は逃げようなんて思わなかったし、ヴィルヘルムが魔族であることも気付かなかった。
ただ言うことに従い、他者との交流も殆どすることなく、ここでおとなしくしていた。
ヴィルヘルムの思い描いた通りに物事は進んでいる。
「私は貴様の家に継続的に出資をしている。貴族として問題なく生活できるくらいにだ。
貴様自身にも不自由はさせていない。貴様の望みは全て叶えていたはずだ」
継続的な出資とは初耳だ。
最初、結婚するからということでお金を幾ばくか渡しているのは知っていた。
しかし、ずっと送金し続けていたなんて、知らなかった。
両親も教えてくれなかった。
これは、両親の懐柔のため、私が突然行方不明になっても怪しまれないようにするための工作だろうか。
そしてパーティーがある際、私がどれだけ遠慮しようと、
最終的には私が望んだ以上に豪華絢爛なドレスに仕立てられていたことは、
私に反抗の意思を持たせないためであろうか。
私はこのことで、ヴィルヘルムは不器用ではあるが優しい人だと思っていた。
そうやって私はまんまと策略に嵌められてしまった。
「ローズガーデンにも貴様は入れた」
そう。入った。何人たりとも侵入禁止とされている、あの素敵なローズガーデン。
これは、何のためだろう。
特にヴィルヘルムの利益になりそうなことが何も思いつかない。
「まだ不足と言うのか」
私や周囲を上手く騙せていたということに関してなら十分である。
最後に、一つ、確認がしたい。
「……貴方は、私をどうするおつもりだったのですか?」
「来なさい。その答えを教えよう」
身を翻すヴィルヘルムについていく。
こんな時なのに、私は気付いてしまった。
ヴィルヘルムが私の歩みに合わせ、ゆっくりと歩いてくれていること。
奇妙なものだ。
ヴィルヘルムは私や家族を騙していた魔族なのに。
それが露見した後なのに、いつもと変わらず優しい。
もう、そんなことしなくてもいいのに。秘密は破られたのだ。
「入れ」
案内されたのはヴィルヘルムの自室だ。
ここには何度も入ったことがある。
どこに結婚の理由があるのだろう。
私はヴィルヘルムに手招かれるまま、ベッド脇のサイドテーブルの前に立つ。
ヴィルヘルムが私の肩に触れると、そのままベッドに押し倒された。
すぐ目の前にヴィルヘルムの美しい顔がある。
「貴様は夫の私よりも、憶測で物を言うばかりの愚か者を信じているようだからな」
夫だなんて。別に私のことなんて、本当に妻だと思っていないくせに。
絶対、結婚を申し込む相手なんて誰でも良かった。
いやそもそも、結婚すら手段でしかないのだから、それに拘ってもないのだろう。
夫婦のあり方について悩んでいたのは私だけ。
酷い、酷い、酷い、酷い。
「わからぬのなら、わからせるまでだ」
何をされるのだ。私は食べられてしまうのだろうか。
そう思って力いっぱい目を瞑った。
デコルテに吐息がかかる。それは少し冷たくて肩を震わせてしまう。
私はどこから齧られてしまうのだろうと、怖くてしょうがなかった。
吐息が首筋に、そして────。
唇に、ヴィルヘルムの唇が触れた。
私は夫婦となった日に、一度した口づけを思い出す。
あの時と変わらぬ、優しげなキス。
ヴィルヘルムの唇はすぐには離れない。
唇を啄ばみながら、私の髪を梳き、耳を撫でる。
所在無くする私の手に指を絡めて、ぎゅっと握って。
胸がドキドキする。キスなんてこれが二度目なのだ。
あの時、素敵な方と唇を触れ合わせることが出来て、幸せだと思っていた。
でも、それが人間ではないなんて。
悔しさや惨めさが私の中を巡っていく。
それ以上に、温かな唇から伝わる優しさや、胸の中にあるヴィルヘルムへの想いが私を満たす。
私、ヴィルヘルムが、夫が、好きなのだ。
魔族と知って尚、この方を嫌いになれない。
短い間ではあったが、私はこの方を夫だと思っていたのだ。
情くらいわく。
いや、違う。情じゃない。
そうではなく、純粋な、夫であるヴィルヘルムに対する愛が──。
「んっ、ん!!」
息が苦しくなってきた。このまままだしていたいけど、離して欲しい。
握っているヴィルヘルムの手を強く握った。
すると、ヴィルヘルムは私から離れ、私はその隙に大きく息を吸った。
羞恥心や、胸の高鳴りで、息が乱れる。
肩で息をする私をヴィルヘルムは温かく撫でてくれた。
薄ら浮かんだ涙も拭ってくれ、額に小さく口付ける。
「貴様の夫は私だ。死する時までずっと私の傍にいろ」
ヴィルヘルムはそう言って、私の頬を撫でた。
「どう、して?なぜ、私、なのです?」
「そこまで愚かであると哀れとしか思えん」
深い溜息をついた。
「資産や地位が目当てなら別の方法で良かった。こんな回りくどいことをする必要はない。
贄なんぞ不必要だ。私は魔族であっても人間の食事で事足りるし、私の力にそんなものは不要だ」
それはつまり────。
「……私は君に愛を感じたから、欲したのだ」
本当に。本当に、ヴィルヘルムは、私のことを。
この結婚は、資産でも爵位でも、家が持つ人脈でもなくて。
人間である私を利用するわけでもなくて。
「で、ですが、私と貴方様は社交界で一度お会いした程度でした」
一度会っただけ。それですぐ結婚を申し込まれたのだ。
「愛の訪れに回数など関係ない。一目見て、私の伴侶に相応しいと感じた」
一目惚れというものであろうか。あの夢のような。
貴族同士の結婚ではそんなこと有り得ないと言っても過言ではないというのに。
貴族と貴族の結婚は人脈、資産、土地、爵位、を抜きにしては考えられないため、
絶対に一目で惚れることはないのだ。その人物だけで結婚を判断できないのだから。
「……では、ヴィルヘルム様は、私が妻で良かったとお思いですか?
本当のことを、おっしゃって下さい」
おずおずと問うと、ヴィルヘルムは頬を緩めた。
「ああ。私は、君が結婚を受け入れてくれて、本当に良かったと思っている」
初めてだ。
ヴィルヘルムが、この結婚を後悔していないと、喜んでいることを聞かされるのは。
「ヴィルヘルム様!」
伸ばした手を、ヴィルヘルムは軽く引き寄せてくれる。
その顔には、優しげな笑みが浮かんでいた。
男性らしい逞しい腕が私をしっかりと抱き締めてくれる。
この人が、私の────旦那様。
fin.
(12/10/23)