いつも最後は考えることをやめる


 病院は白に溢れている。同じ形の入り口が一列に並び、一見すると何が何やら判らないかもしれない。でも匂いを嗅げば何の部屋かすぐに判る。

 消毒液の匂い。
 ホルマリンの匂い。
 病気による特異な匂い。
 汚物や吐瀉物の匂い。
 そして、死の匂いが立ち込めている。

 それを嫌だと言って逃げるように去る人は多いけれど、私はそうは思わない。
 だってこれが私の普通だから。

「今日はいくつの注射を打つの?」
「五本だ……少しだけ我慢してくれるかな」
「片手で済むなんて少ないのね」

 私は不治の病と主治医は言っていた。でもその治療法がとうとう見つかった。見つけてくれたのは、今私の目の前に座って注射器を並べているヴァイス先生。彼の研究が私を救うの。
 五本の注射器を真剣に見つめるヴァイス先生を、私はじっと見つめる。間違いのないようにと何度も確認をする慎重な所が、私は好きだ。奇病にかかっている私はほんの少しのミスで命を落とす。だからヴァイス先生は私の事をとても大事にしてくれる。

 先生が「良いかな」と囁くと、私は小さく頷く。
 一本打ってステンレストレイに置いたら二本目に手を伸ばす。
 私は、注射器に薬剤を入れて空気を抜くその一連の動きが好き。ヴァイス先生を間近で見ていられるから。
 打つ時だって勿論好き。先生が私の腕にそっと触れてくれるから。

 先生の針が私の身体に傷をつけて、穴から中へと押し入り、その特別な液体を流し込む。
 彼の血と汗の結晶が私の中に流れ込み、最後には心臓まで届くの。
 なんて、素敵な事かしら。先生と一つになれるなんて。

「痛かったかな。もう少しだけ我慢……出来るかい?」
「大丈夫」

 いくらでも打って欲しい。
 もっと打って欲しい。
 ……なんて言ったらきっと引いてしまうから私は決して言わない。
 良いの。
 これは私にとっての神聖な儀式。私だけが特別に思っていればそれで良いの。



 ヴァイス先生は特別な先生なのだと担当医師から聞いている。
 だからいつも、私の病室に来る時は必ず他の医師がついてくるのだ。
 本当は先生との二人きりの時間を邪魔されたくないけれど、ヴァイス先生はそれだけ医学界にとって貴重な存在らしい。
 何か事故があってはいけないし、その手技を見たいのだそう。
 そんな事聞かされたら仕方がないと納得するしかない。ヴァイス先生がそれだけ凄いって事だから。
 私はそれを誇らしいと思う。

 それに、時々ヴァイス先生は一人で私に会いに来てくれる。
 夜中とか早朝とか、他の先生が不在の時にこっそり来てくれるの。

「先生」

 先生の姿が見えると叫びそうになるけれど、ちゃんと我慢する。先生が見つかったら困るもの。先生の立場を悪くすることなんて出来ない。



先生は私を抱きしめてくれる。

「すまない。なかなか会いに来られなくて」
「良いの。だってこうしていられるもの」

 本当はキスの一つでもしてもらいたいけれど、私の免疫の問題からそれは出来ない。
 だから私たちはお話しする事だけ。

 先生がどれだけ頑張って研究をしてきたか、私がどんな検査をしているか、先生の好きなものとか、私の各部位の担当医師の名前とか、知っている薬とか、副作用とか、私の身体の成長具合だとか、先生の子供の故郷の話とか、私の入院履歴だとか、仲のいい看護師だとか、病院内の人間関係だとか、以前病院にきた侵入者の話とか。
 先生は不器用な方だから、あまり自分の事は話してくれない。私に聞く質問も病気や病院の事ばっかり。でも良いの。不器用な先生が一生懸命考えて質問してくれたんだもの。私はそれに応えなくっちゃ。
 だから、一つだけ我儘を言わせて。

「ヴァイス先生、私指輪が欲しいの」
「今、なんて……?」

 驚いている先生。大人なのに動揺するのが可愛くて、私は少しだけ笑ってしまう。

「結婚ごっこ、知らない? 病院ではみんなよくやることよ。だって私たち結婚どころか、大人になるまで生きられるかどうかも判らないんだもの。今から大人の先取りしたって良いでしょう?」
「……判った。君に似合うものを一緒に選ぼう。……いや、私に一任してくれないか。君に一番相応しいものをあげたいんだ」

 本当に婚約指輪みたい。
 ヴァイス先生は私の事、子供と思ってる? それとも……少しは大人と思ってくれてる?

「ヴァイス先生、大好き」
「私もだよ」

 ついでに、聞いても良いかしら。怖いけど。知りたいの。

「先生……いつか、私が大きくなったら、本物の指輪をくれないかしら」

 先生が顔を引きつらせているように見える。やっぱり子供にこんなこと言われたら迷惑よね。

「……あ、すまない。私は本物を君に渡そうと思っていたんだが……私の勘違いだったかな」

 ああ! 良かった! 私だけじゃなかった! 私が悪いの! 疑ってごめんなさい!

「先生! 私、あなたの事一生愛すると誓うわ!」







「順調だ。AE-9572の情報は入手している」

 ここしばらく戦争は膠着状態だった。各国は状況を打開する為の兵器開発に急いでいた。この帝国では、学会で研究が大批判を浴び失脚した教授を匿い、裏で生物兵器を作っていた。
 適性のある人間に薬を打ち込むと、人間以上の力を手に入れることが出来る。沢山の犠牲者が出しながらも思うような結果が出ず、研究への資金投入を止めることが議会で決まった矢先に、第一の成功例が完成した。成功例であるAE-9572を研究する事で、特定の遺伝子を持った者が兵器へ適応できる事が判った。
 だがその前にコストの消費を抑える為に、AE-9572のクローンを作って一度量産する事になった。私はそれを実際に見た。透明ガラスの向こうに揺蕩う彼女たち。
 美しく儚い彼女たちは、みな優秀な兵器だった。
 彼女たちは多くの人民を殺すだろう。それだけの力がある。
 私が探していた子供たちはこの研究の最中、薬に適応できず死んでいった。
 彼女が戦場へと本格投入されれば更に多くの子供たちが死ぬだろう。
 それだけは防がなければならない。

 未来の子供を守るために、一人の子供を殺さなければならない。

 私は、ずっと見ていた。君を。
 いつ殺そうか。いつならば怪しまれないか。
 君はずっと私を見ていた。警戒していたのかもしれない。

 私は、何度も君を訪ねた。二人になりたくて。
 彼女が持つ情報が欲しかった。検査データがあればこの研究の対抗策が判るかもしれないと。病院内の情報も必要だった。誰が本当の権力者で、誰が研究を推進しているか、彼女を殺した後誰を殺すべきか標的を定める為に。
 君は私の質問に全て答えてくれた。答えた所で何の問題もないと嘲笑われていたのかもしれない。

 とうとう必要な情報が集まり、彼女を殺す算段が付いた。
 彼女は私を慕ってくれている。指輪なんて、普通の女のような事を言い出して。

「一生愛する」

 という彼女の声が響いてくる。あの言葉は偽りだろうか。それとも。
 疑問に思ってはならない。仕事に支障をきたす。私は煙草を吸った。ニコチンは私の感情を鈍らせてくれる。

「指輪を用意してくれないか。ああ、石は何でもいいが大きい方が良い。仕掛け針が隠れるように。彼女の機能を停止させるにはいつもの倍の量を注入しなければならない」

 大人になれないと諦めている彼女が、私が救いたかった子供たちと被る。
 どうして私は、子供を救うために子供を殺さなければならないんだ。

「ああ……一級品の指輪を用意してくれ。哀れな兵器にせめてもの手向けだ」

 最高の愛を、君に伝えよう。



 さあ、世界の為に、しんでくれ。


fin. (21/04/12)