第50話-選択肢-

「来ると思っていた。根拠は無かったが」

そう言って力なく私を見た。

「ジャック……」

ジャックはあの日見たままの、頭から血を被った姿であった。
私はヴィルヘルム城の地下牢を解錠し、ジャックがいる中へ入った。

あの朝何故会えなかったのか、MZDが知らなかったのか。
影ちゃんの事も疑ったが、あの時は暗殺業を終えたばかりの様であったし、次の仕事に行ったのかもしれない。
そう思いながらも不安が解消されず、また何かがある前にちゃんと無事を確かめておいた方が良いと判断し、ジャックという生命に照準を当てて転移した。
すると、ここ、ヴィルヘルム城の地下牢に着いたのだ。来て正解だった。

ジャックの身体を見回すが特に傷は見られない。
牢に入れられたといっても折檻の為ではなく、拘束の為なのだろう。
ならあの晩、すぐにヴィルヘルムがMZDの家に来て捕らえたと言う事だろうか。

「あの後、上司には会ったか?」

私は首を横に振った。

「あの夜、影ちゃんに連れられた後の話を聞かせて」

ヴィルヘルムの事ばかりに気を取られている場合ではない。
もっと周囲の変化を知る必要がある。
私が停滞していた間に、誰が何を思い、決意したのか。

「あの後、すぐに上司が来て俺を連れ帰った。
そして罵った。つまらない選択をする部下だと」

つまらない選択とは。

「俺が黒神を支持する事が気に入らないんだろう」

今までも、ジャックはヴィルヘルムと私が近づく事を良くは思っていなかった。
近づきすぎるな。気をつけろ。道具としか見ていない。すぐに逃げろ。
ジャックは何度も私に警告していた。
しかし、ヴィルヘルムが言うつまらない選択と言うものが、この事を指しているのだろうか。

「……あのね、ジャック」
「俺は、上司は認めない。 の命令であろうと、上司だけは駄目だ。絶対駄目だ」

胸の内を話す前に先手を取られた。
それにこの強い口調はジャックにしては珍しい。

を護れるのは神だけ。それを邪魔する上司は認めない」

またそれを言う。

「護るって……。私、そんなに護られなきゃいけない存在なの?」
「そうだ」

迷いは一切なく、断言した。
でも私の疑問は解消されない。

「そんなの、私が強くなればいい。そもそもいくら人間が弱いからって、神様レベルに護られる必要はないよ」
は普通の人間じゃない。一度死んだ。この先も死ぬ時が来る。だからそうならない為に神でなければならない」
「次、死ぬ事があったのなら、それは自然の事。受け入れないといけない事だと思う」
「でも俺は が死ぬなんて嫌だ」

鬼気迫る物言いに、少し、たじろいだ。
だが、はたと気付く。

「……きっと、黒ちゃんもそう思ったんだね。だから私は今、生きてる」

私は大切な人が死んだという経験はない。
知り合いが死んだという経験も無い。
あるのは、力の加減を間違えて何も知らない魔族を殺してしまったくらい。

だから、黒ちゃんが私の死を前にどんな気持ちになったのかは判らない。
どれだけ辛くて、どれだけ悲しくて、どれだけ苦しかったのか。

通常ならば、それらをぐっと堪えて生きていくしかないのだろうが、運の悪い事に、彼は神だった。
彼には世界の法則を捻じ曲げるだけの強大な力があった。
だから死者を、私を、この世界に呼び戻した。

「でもね、本当は駄目なんだよ。ロキさんも言ってた。
今の私がここでこうしてジャックと話せている現実は本来無かったもの。
二人が世界の決まり事を破って、無になるはずの私をもう一度形作った。
それはきっと絶対あってはいけない事なんだから、だからそのうち、それが問題になる時が……」

私は──────大馬鹿者だ。

ジャックに説明しようと頭を整理している内に気がつくなんて。
私を蘇らせて二人に何も問題ないのか。
また私が知らないだけで、本当は何かしら二人の身に降り注いでいる事が。

「世界のルールは問題じゃない。 が死ぬ事が問題なんだ」
「ジャック……」

駄目だよ。その考えは駄目。
それだと黒ちゃんと同じ。目的のためには手段を選ばない彼と同じになってしまう。
しかもその目的と言うのが、私なんかなんて。

「お願いだから冷静になって。どうしたの?どうして突然こんな事を言うようになったの?」
「そんな事はどうでもいい!
俺が成すべきは が壊れるのを防ぐ事。障害になる物を全て排除する事だ」

私の知らないジャックに戸惑っていると、彼はお構いなしに言葉を続けた。

は黒神の何が気に入らないんだ。
何かされたのか。 の意思に反する事を」

した。
沢山、した。
怖い事。嫌な事。沢山あった。
でもそれは言えない。黒ちゃんには謝ってもらったし、私も全て許すと言った。
引きずってはいけない。治りきってない傷は隠しておかなければならないのだ。

「ううん。何の文句もないよ」

上手く嘘をつけたとは思わない。
ジャックにならバレてしまうだろう。
そう思っていたのに。

「なら問題はない。やはり以前通り黒神といるべきだ。あの世界でずっと過ごすべきだ」

嘘に気づいた様子がない事に唖然とした。
あの日ヴィルヘルムを襲ってからジャックは変だ。
張り詰めた空気は厚く私を置いてどこか遠くに行ってしまいそうで。
これがジャックの望んだ変化なのか。だとしたら私はそれを受け入れたくない。
まずは早々にその血を洗い流して、戦いのことを一先ず忘れて。
私とジャックを隔てるその赤い壁を崩す為、私は彼の手を引き、温かい湯で溶かしてしまおう。そう思った。

しかし、彼は私から一歩引いた。意図的に逃れた事は、受け入れたくないが事実である。

「金輪際、俺には触れないで欲しい」

彼ははっきりとそう言った。

「それが の為であり……俺の為だ」

解錠には感謝するとすれ違いざまに言いながら、彼は私を置いて行った。

こんなのって……ないよ。

私は溢れてくる涙を抑えきれなかった。
狭い地下牢で自分の喚き声がしつこく反射するのにも構わず泣き叫ぶ。
しかし、彼は戻ってこなかった。





「こんな小汚い場所で喚くのはおよしなさい。大変不快です」

蜘蛛の巣を鬱陶しそうに避けながら現れたのは、常に笑っている幽霊紳士。
生前貴族であったという彼は実体が無くなり物質に触れずに済む身体を手に入れたと言うのに、人の頃と同じ感覚での生活を続けている。
よって、地下牢なんて汚い場所には決して足を踏み入れないと言うのに。
それも、他人の城の地下なんて。どうして。

「私にこのような事をさせるなんて。貴女、それなりの代償を頂きますよ」

誰かの指示。だとしたら、ヴィルヘルム……?
さっきここに来た時はジャック以外はいなかったはずだが。
混乱する私に彼は言い放った。

「来なさい。貴女に拒否権はありません」

人の形を捨て魂を頭部ほどの大きさに収縮──所謂人魂と呼ばれているものに変化したジズさんに着いていった。
幽霊であるジズさんは私達が普段用いる転移を使うことが出来ないので、一瞬で任意の場所に行く事は出来ないが、
それでも実体を捨て生命の核だけになっての移動はまるで人間が発明した機械のように速い。
偶に利用する電車やバスよりはずっと速いのだが、ゼロ時間での移動を常にする私にとっては遅い。
目的地に着くまで、どこへ連れていかれるのだろうかと不安を抱く時間が苦しかった。

多分一番付き合いが長いであろうジャックが、ここにきて大きく変わってしまったこと。
私が何かを言った所で、彼の決断が揺るぎそうにないこと。
打つ手がないように見えるこの状況に対する対処を考えるべきであるのに、私はただただ打ちひしがれていた。
前向きになんて、なれない。

「帰りましたよ」

ジズさんが人の形に戻ったので私も力を解除し地へと下り立った。
移動中前方を見ていなかったので気がつかなかったが、この門は数度見た事がある。

「おかえりなさいませ、ご主人様」
「客人を連れてきました。準備を」
「かしこまりました、ご主人様」

ジズさんが居住する城だ。
ヴィルヘルムの城は要塞寄りの造りをしているが、ここは居住用の城で見た目に美しい城である。
内装も素人目であっても拘りが見てとれ、敷地内の全てが美術品のように素晴らしい。
一つ欠点があるとすれば、それはジズさんが自城に他人を入れたがらない事だ。
それが私だけなのか、他の人もそうなのかは判らない。

「何をボサっとしているんです?」

私の一歩前を歩いていたジズさんが急に振り向いた。

「客人なら主である私に気に入られるよう努力なさい」

一瞬何を求められているのかよく判らなかった。
突然の事であった為に手土産は用意していない。
それはジズさんも承知のはず。それなのに、何を私に求めているのか。
忙しなく働くメイドの一人を見て、私はあっと気付いた。

「よろしい。貴女もようやく判ってきたようです。ほんの少しですが」

読みは正解。ただ身体を小さくすれば良かったようだ。
それにしても、ここのメイドさんは全員私より年下ばかりだ。
……誰かがいたら、私も彼女らと変わらず幼いと言う事を言われるだろうが、わざわざ自分から認めたりはしない。

「何をおかしな顔をしているんです?その汚らしい顔をなんとかなさい」

ジズさんの脇にはいつの間にか現れた白銀の髪を揺らすメイド。
彼女は会釈し、ふっと滑るように歩きだすので私はそれに着いていった。
顔を洗わせてくれるのだろう。

と、思っていたのだが……。
そのまま大浴場で全身を洗われ、髪を結われ、服装も新しいものにされた。
いったい私はここで何をさせられるんだろう。また厄介な事じゃなかろうか。
そう思ってメイドに聞くが何も答えられない。
よくよく見ると彼女には口がない。最初から縫われていない。
口の利けないお人形に私の世話をさせる、この用意周到さはますます怪しい。

だが、逃亡する気は起きなかった。
少しでも気が紛れるのならば、得体のしれない企みに加担するのも良い。
そんな自暴自棄な気持ちで流され続けていると、気付けば応接室のような所でお茶とお菓子を頂いていた。
流石はジズさん。味も香りも最高級。
美味しいものを頂いていると掻き乱されていた気持ちが少しずつ整頓されていく。

「見なさい。これは最近仕入れたものです」

ジズさんはメイドから渡された箱から洋服を取りだす。
純白で光沢のある布から作られた服に目を奪われる。
豪華絢爛なそれはまるでウェディングドレスだ。
彼が所有するどの人形が着るか判らないが、きっとその子も大いに喜ぶ事だろう。

更にもう一着、別の箱から服を取り出した。
今度は対照的に真っ黒のドレスだ。
だが、悪くない。本来黒一色と言うものは暗い印象を与えるが、これはそうじゃない。
上品な黒だ。落ちついていて気品がある。
何故その様な印象を受けるかは判らない。
黒色の種類か、それともデザインのせいか。
基本的には与えられた服を着ている私に服の分析は困難である。
それはジズさんも承知しているだろう。

「……貴女ならどちらを選びますか」

いつも通り何を考えているか判らない笑みだと言うのに、背筋がぞわりとした。
そうして私は理解した。
これは単に服の好みを聞いているのではないと。
なんとなく想像はつくが、それに関してまだ何の答も出していない私はだんまりを決め込むしかなかった。

「何も語らなくてよろしい」

そう言って、彼はメイドたちに洋服を片付けさせた。

「私としては貴女の力を利用出来るのであればどうしようと構いません。
ただ私も天敵と友人が秤にかかっていますと、少し贔屓したくなるものでしてね」

薄らと浮かべる笑みから私は目を背けた。

「貴女が危惧しているのはアレでしょう。判っていますよ。ええ、勿論ですとも」

この何もかもお見通しという態度。
私の周囲は良くも悪くも私を見ている。

「そして貴女はアレを選ぶ他ないはず」

優雅に紅茶を飲みながらも、細くなったその目は私を嘲笑っている様にも、牽制している様にも見えた

「世界の為ではなく、もう一人の為に」

奇怪な面を被った一魔族の後ろ姿を思い起こした。
こうもはっきり言ってくれると、笑いで肩が震える。
自分勝手なあの人を選択すれば、高確率で彼は死ぬ。
それを防ぐには、あの人を突っぱね、背を向ける他ない。
そして過激で行き過ぎた手段を用いているが私を大切にしてくれるには相違ない神様に擦り寄るのだ。
偽りに偽りを重ねる、愚かな選択が私の背後から迫っている。

「私は嘘でも良いと思いますがね。
そもそも私の生きた時代ではそうそう望み通りの婚姻など有り得ませんでしたし。
結果として幸福を掴んだ者も数知れない。却って意のままにに行った者が予期せぬ不幸に見舞われる事も数知れず」

結局未来は誰にも判らぬと言う事。神でさえも。

「お好きになさい。ただ私個人としてはあの黒いちんちくりんがほくそ笑んでいるのを想像すると腸が煮え繰り返ります」
「……っふふ」
「お嬢さんは良いでしょう!ですがね!私はあのエッラソーで、ごーまんな神は好きじゃありません!」

子供みたいに黒ちゃんへの文句を連ねる紳士らしからぬ姿に思わず吹き出してしまう。
黒ちゃんとジズさんは似たような部分はあってもあまり気が合わないのだ。
いや、似ているからこそ、気が合わないのだろう。

「同じ上から目線で傲慢でもヴィルヘルムの方が好きです。
なんたって彼は面白いですから」

その面白いという評価には少しばかり彼への嘲りが入っている様な気がする。
だが、ヴィルヘルムもジズさんに対して似たような事を思っている為お互い様だ。
貴族という、人の上に立つ事を定められた人種は、好きな相手も嫌いな相手も馬鹿にするように思える。
歪んだコミュニケーションだ。

「ところで貴女、ヴィルヘルムとは何処まで、いえ弟神の方が進んでいますかね、どうです?」
「ど、どうですって……」

どうですってどうですってどうですってどうですって……。
何を?どのこと?

「……まさかあのカニパンに限って奥手なんて、おっと失礼」

ヴィルヘルムとはいつも通りの事しかしていない。
特別な事なんて何も……何も……していな…………い事も無かった。

「ふうん。その反応を見ますと何かはあったようですね。ふふ」
「べ、別に……。ないです……」

今思い出しても、あれは夢だったように思う。
戯れとはまた違うような気がした。私なんかにする事ではないように思えた。
私はあの行為を肯定的に思っているが、実際どうかは判らない。
ヴィヘルムに直接尋ねる機会に恵まれず、あれが私の思う理由での行為なのか判断しかねている。

「ジズさん!にやにやしすぎです!」
「何をおっしゃる。紳士がその様に笑うはずがありません」

とは言うが、どこをどう見てもにやにやと笑っている。
多分、いや絶対馬鹿にしてる。良い玩具だと思っているに違いない。

「……貴女を見ていると少し、懐かしく思います」

えっと驚くが、ジズさんは子供に絵本を読み聞かせるように語った。

「昔、まだ私が人間であった頃、貴女のように悩み、苦しみ、楽しんでおりました」

紅茶が注がれたカップを大切に両手で包んで中を覗き込む。
水面で揺らぐ自身の姿を見ながら何を思うのか。

「貴女はまだ知らない。他を愛し、愛され、自分の全てを晒した先に何があるかを」

人間であった彼は何を見たのだろう。

「私が愛した人は死にました。彼女の為にこんな姿にもなりました。ですが、後悔した事は一度もありません」

と、ジズさんは言い切り、カップをソーサーへと置いた。

「貴女はまだ全てを捨てでも優先したいものは無いでしょう。
まだその域には達していない。でも、それで良いのです。
誰かに教わるのではなく、自分自身で体験なさいな」

それは、思わず見惚れてしまう笑みだった。
きっと生前、大切な人といる時はこんな風に柔らかな笑みを浮かべていたのだろう。

「堅実なのも良いですが、時には己の衝動に身を任せるのも楽しいですよ。
その先に、何があろうとも……」

その先にあるものが、どれだけ強大なものか知っていて尚そう言うのか。
結果によってはジズさんにも影響を与える事になる。
それなのに、何故そう言えるのか。
その疑問は本人が判り易く説明してくれた。

「私は目的を果たす事以外は正直どうなろうが知ったこっちゃありません。
……だから貴女もそう周囲を窺う事ばかりせず、前に出る時には出なさい。
お人形じゃないのだから」

操る事に特化している人形遣いの言葉に、さっきとは別の意味で泣きそうになる。
浮かび上がる滴を必死にこらえながら、お人形じゃないのだからという発言を反芻していると、突然顔面にハンカチと思しき布を投げつけられた。
ハンカチごと顔を押さえ、布の隙間から相手を見るとどうやらジズさんではなくメイドさんが投げたらしい。

「これは貸しです。後で倍にして帰すのが礼儀ですよ」
「……はい」

この人もまた、優しい時間は持続しない。
でもそれは照れ隠しみたいなものだと気付けば、じんわりと広がる顔面の痛みも許せてくる。
また今度ジズさんが私を利用したい時には素直に応じよう。

私は力を用いてジズさんによって飾り付けられた洋服や髪飾りを全て脱ぎ、
自分の部屋から服を身体に転移させた。やはり気慣れたものが一番肌に馴染む。
ハンカチも一緒にして控えているメイドへと返却した。
もう私がここで受け取るものはない。

「それじゃ。またいつか」
「ええ。またいつか」

転移によって、ジズさんの城を後にした。











なんとなく、私の心は決まった。
自分にとって、何が幸せで、その為には何を犠牲に出来るのか。
決めれば、必ず誰かの期待や願いを裏切る事になる。
それも踏まえた上で、私は、決めた。

でも、この決定は確固たるものじゃない。
ある人は絶対に泣くだろう、いや、怒るかもしれない。
それを想像すると、本当に自分の都合で決めていいのだろうかと、ひどく不安になりやっぱり別の選択をすべきではないかと思ってしまう。
優柔不断で卑怯なのは自覚している。それでも私は他の人たちの様な勇気は持てなかった。
だから夜の街を徘徊してる。
あの人に、どんな顔をすればいいのだろう、何て言えば良いのだろう。
今までと同じでいいのか、それとも。
悩んで悩んで、悲しくなったり苛立ったりしながら、私は少しずつ身の振り方を固めていった。
あの家に一歩でも足を踏み入れたのならば、その後一切迷わぬために。

そんな見えない未来を恐れて考え込む私は、きっと、油断と隙しか無かったのだろう。
刃物が皮膚を裂いたと脳に知らせが届き漸く気付いた。
考える前に防御壁を展開できたのは、120%ヴィルヘルムのスパルタ嫌味教育のおかげだろう。
ただ、傷を受けた事については、苦言漏らすだろうけれど。

「誰!」

数は視認できるだけで三人、背丈から察するに多分成人男性。
今の場所は民家のない細い路地。勿論人はいないし、大通りからはこちらが見えない。
襲って下さいと言っている様なものだ。
しかし、逆に考えれば好都合である。
誰かに見られる心配がないのであればつまり、この力を十分に発揮できる。
痛いけど大丈夫、加減は出来る。殺したり、大怪我もさせずに済む。
出来る。自信を持て。怖がっても弱体化するだけだ。

痛みで折れかけた心を立ち直らせ、いつでも来いと構えていると、襲ってきた者たちはすぐに退散していった。
ヒットアンドアウェイは、単に絡んでくる者の動きではない。
私に傷を与える必要があった。それとも本当は、殺したかった、とか。

もう襲ってこないだろうと胸を撫で下ろしたと同時に力が抜けて地面に座り込んだ。
切られた手足がじんじんと痛んでくる。おまけに服も不自然に切れている。
それだけで済んだのなら上々なのだろうけれど、痛いものは痛いし、辛いしで泣きたくなる。

でも不思議だ。なんで手足を狙ったのだろう。
殺すなら急所を必ず狙うと、暗殺に詳しい知り合いたちは言っている。
この場合、心臓を突くとか、頭を……とか、正直あまり考えたくないけれど、そういう場所を狙うと思う。
それにこの傷は浅い。刃が深く肌に潜る前に展開したとはいえ、本当なら骨に到達していてもおかしくはないだろう。
なのにこの傷はそれほどでもなく、カッターでぐっさりと深く切った程度という、日常で起きうるレベル。
おかしすぎて気味が悪い。これではまるで、私に言い訳させやすくしているみたいだ。

さっき襲ってきた人たちの正体がますます判らなくなる。
私に恨みがあってなぶりたいのか?
もしかして私の元家族に私のことがバレてしまった?
神様に絡む事?
そもそも遊びで攻撃した?
誰かのとばっちり?
偶々私だっただけ?

考えればきりがない。
こんなにも自分を襲う人に心当たりがあるなんて、普通じゃない。
今まで無事にいられてるのは、指輪の力のお陰だ。
更に言えば、あの二人のお陰。

……私は二人といるべきなのかな。
自分で自分の事が護れるなんて言ったけれど、こうやって怪我するんだから自惚れかな。
大人しく黒ちゃんの傍にいて外敵のいないあの世界でずっと過ごすべきかな。
……って、一度襲われたくらいで弱気になりすぎだ。
ヴィルヘルムやジャックなんて、これが普通の生活なんだから。
こんなに怖くて痛い事が日常なんて、私にやっていけるかな……。
私は日常生活を送っている間は平和であって欲しいんだけど。

また新たに悩みが増えてしまった所で、私はこの場所から移動する事にした。
考えている間まったく周囲を気にしていなかったせいとは言え、ここはあまりに危険すぎる。
足早に大通りへと戻ろうとするが、切られた足の痛みに阻まれ、なかなか進めない。
あと少し。人の声が聞こえる。あと少し。店や街頭の光が見えている。あと少し。あとちょっと────。

急いたせいで足元にあったガラクタに気付かず、そのまま転倒した。
手をついて顔への衝撃を回避出来たが、地面の状態が悪かった為に両掌に小さな小石やプラスチックの欠片が刺さっている。
どうしてここまで踏んだり蹴ったりなのか。何もかもが嫌になってくる。
膝を抱えて頭を埋めると、胸元に指輪がぐいと押し当たった。

私は思った。
指輪は何でも出来る力を持っている。
だったら、いっそ────。
正常な判断能力が低下している私は生唾を飲んだ。
私がしないだけで、本当は出来るのだと、ヴィルヘルムからは言われていたのだから、それを今、試してみたって。

「え、ちゃん?」

知った声のお陰で我に返り、即座に振りかえった。

「に……」

バッチリ見られている。しかもこんな姿だ。今逃げても、後日しらを切り通せそうにない。
だがこの状態を追究されたとしても、何と説明していいか判らない。
どうする。どうする。

「……立てる?」

とりあえず頷いた。
痛みを堪えれば出来ると、ゆっくり立ち上がったが、思わず顔をしかめてしまった。
切り傷に加え、新たに出来たすり傷からもじわじわ血が溢れている。

「オレん家ここから近いけどどうする?」

この傷のまま帰るのは気が進まない。
心配されるし、どこをほっつき歩いていたと怒られるし、それに先ほどの者達を殺しに行ってしまうだろうし。
今家に誰かいるかを調べる為に力を使えば、もし在宅の場合自分の居場所を探った、つまり会いたくないというこちらの意図が伝わってしまう危険性がある。
私の選択のせいで、これからもっと気まずくなるとはいえ、これでは悪い印象を与え過ぎてしまう。
ここは申し訳ないけれども、ひとまずニッキーの所にお世話になった方が良いかもしれない。
治療だけしてしまえば、まだ言い逃れが出来る。

私はニッキーの提案を受け入れる事に決め、彼へ頷いた。
負傷して進みの遅い私に構わずいつもの速度で歩くニッキーに置いていかれないよう、袖を掴んだ。
その後は私に合わせ、ゆっくりと歩いてくれた。
人の多い休日の夕方、土だらけで血を流す私は好奇の目に晒され、連れ歩くニッキーが巻き添えを食う事になってしまった。
一緒に歩くんじゃなかったと袖を離し、ニッキーと距離をとろうとしたけれど、そうしたら今度はニッキーが更に速度下げて歩いてくれた。
「ごめんなさい」と言っても何も言ってはくれなかったが、その優しさに安堵した。
同時に自分のずるい部分が浮き彫りになって、溜息が漏れた。



到着したニッキーの家には明りがついていなかった。
鍵を開けるのを見ると、どうやら無人らしい。
休日なのでどこかへ出かけたまま、まだ帰ってきていないのかもしれない。
服を叩いて土埃を払ってから、ニッキーの家にお邪魔した。
お風呂場に案内され、そこで患部を洗い流した。弱い流水だというのに染みる。
綺麗に洗いタオルやティッシュで水分を拭うと、今度は二階にある部屋に案内された。

「服貸すから着替えろよ。まだ土っぽいし」

と、ニッキーは大きめのTシャツをこちらに投げた。そして退室した。
どうやら着替えと言うのはこの一枚だけらしい。
確かに私は小さい身体のままであり、脚部にはいたるところに傷がある為下半身の着用は難しいが、少しだけ、嫌だった。
今の私ならワンピース状になるとはいえ、Tシャツ一枚は心許ない。
いつも通り胸用の下着は装着していないし、なんだか裸を見られるように恥ずかしい。
でもここで力を使って家から服を持ってくれば、私がニッキーの部屋に居る事が知られてしまう。
どちらがマシと考えた時、私はニッキーが良い人である事に賭けた。
変な事を言ったりする人だが、流石に怪我をしている今日は無いだろう。
ニッキーが戻ってくる前に手早く服を着替えた。
下半身を守る布の少なさに不安を覚えるが、仕方がない。

着替えたら今度は、部屋のどこに居て良いのか悩む。
フローリングのニッキーの部屋で座れそうなのは、ベッドと机の前の椅子くらいしかない。
椅子を使えばニッキーの場所がないし、人のベッドに他人が座るのも失礼に思える。
居場所に困って部屋中をうろうろしている間に、ニッキーが帰って来た。
ジッと見るので、私の格好が変なのかとも思っていると、消毒液を持っている事に気付いた。

「ベッドでいいから座れよ」

言われた通り、ベッドに腰かけさせてもらった。
すると私の目の前でニッキーがしゃがむので、怖くて思わず両足をしっかりと閉じた。
これで下着は見えない筈と高をくくっていると、擦りむいた膝小僧が容赦ない消毒液攻撃を受けた。

「いっう!!」
「我慢な」

流水よりもはるかに染みる。
どれぐらい染みるかと言うと、大声で叫んで町中を走り抜けたいくらいだ。
でもそんな事出来るはずがないので、身を捩りながら必死に耐える。
痛がっているのは絶対判っている筈なのに、ニッキーは構う事無く消毒していく。
最後には絆創膏をぺったりと貼って貰った。

「ありがとう」
「別に……」

とても投げやりな言葉だった。
会ってから全然いつもみたいなふざけた事を言っていないし、怪我した事を怒っているのかもしれない。
気まずさを覚えていると、ニッキーは乱暴に私の隣に座った。

「つか、何であんなとこにいて、こんなことになってんだよ。
 ま、別にー、言いたくねぇならいいけど」

あまりにも判り易い棘に益々居心地が悪くなる。
ここまで連れてきてくれて、手当をしてくれたのだから、ちゃんと説明した方が良いかもしれない。

「自分でもよく判らない。私を狙ったのか、偶々私だったのか……」

真実を伝えているのだが、まるで誤魔化しているように聞こえる。

「心当たりは?」
「す、少しは……」

ニッキーの一言一言が重く心にのしかかるもので、私は逃げるように顔を背けた。
苛立ち混じりにニッキーは言った。

「なんでそれ持ってて駄目なんだよ」

何を指しているのかと少しだけニッキーを見ると私の胸元に視線を落としているようだった。
私は指輪を握った。

「考え事、してて……気付いた時には一歩遅くて」

深い溜息をつかれた。
自分の力不足や、注意力の無さは重々承知している。
ヴィルヘルムが何度も繰り返し注意した事に反発もしたが、実際は正しく私を理解していた。

「……やっぱり、一人じゃ、やっていけないのかな」
「そんなの……な、慣れてねぇから失敗しただけだろ。ちゃんなら出来るって」

虚を突かれた。
無理に決まっている。と、ニッキーなら必ず言うと思っていたのに。
思わずじーんとしてしまう。

「……ニッキーが優しい」
「オレをなんだと思ってんだよ!」
「ううん。ニッキーは元々優しいもんねー」
「取ってつけたように言ってんじゃねぇ!」

感謝しているのは本当。
励ましてくれてるのもそうだし、手当をしてくれたのもそう。
凄く感謝しているんだよ。

「ん」
「なに?」

不満げな顔して差し出された手に何の意味があるのか、よく判らなかった。

「見返り」



「急に優しくなくなったよ!?」
「少しくらい良い目見たっていいじゃんよ。ここまで連れてきたんだしー」

まるで、私を見下すあーんな人(カニパン)やこーんな人(人形遣い)みたいな事を言う。
感謝のお礼に何かをするのが、別に嫌というわけではないが、ストレートに求められると気持ちが冷めてしまう。

「お礼……何がいい?」
「そりゃあ」

毎度ニッキーの要求は想像がつかない。
今回は簡単な物であってほしいと思うが。

「じゃあ、その指輪貸して」

はいどうぞ、と簡単に渡せない。
悪い人では無いと判っていても、自分の身体の一部と化したこれは、なるべく誰かに渡したくない。
無いと、不安だから。
私が渋っているのを見て、ニッキーが言った。

「いや、壊すわけじゃねぇんだから……つか、オレの力じゃ無理だろ」
「……そうだね」

人間だから指輪を持ったままどこかへ消えてしまう事は無いだろう。
手の届く範囲にあるのならば、少しくらいは問題ない。
と、自分に言い聞かせ、指輪を通したチェーンを首から外してニッキーに手渡した。
それを受け取ると、指輪を握ってみたり、色々な角度から見たりと、物珍しそうに観察していた。
なんだそれだけか。と、ほっとしたのもつかの間。

「とりあえず、没収」
「えぇ!?」

急いで手を伸ばしてみても、ニッキーの方が腕が長い。
私が立ち上がれば、ニッキーも同じく立ち上がり、更に手の届かないところへ持ち上げてしまう。

「返して!返してってば!!」

足が痛む事にも構わず飛び跳ねても取り返せない。

「お、落ち着けって。怪我してる癖に」
「とにかく返してよ!」
「返したら、どうせどっか行くんだろ。だから却下」
「行かない!どうせ、この怪我じゃ家に帰れない!」
「はいはい。お茶くらいは出してやるから、ちょっと休んでな」

最後、何故か満面の笑みを浮かべたニッキーは部屋から出て行った。
ひどすぎる……。何故ここで没収なんて……。
やっぱりニッキーはよく判らない。

一人になると冷静さが戻ってくる。
いつまでもここに居る訳にはいかない。
もう時間も遅いし、早く戻らないと。
治療は終えたので、黒ちゃんも影ちゃんもそれほど言わないだろう。
擦りむいてしまったんだと、半分本当の事を言えばそれで無理に納得させられる。
だからもう、本当は今からでも帰れる筈なのだ。
なのにここから動かないと言うのは、理由が別にあるから。

あの人……黒ちゃんを選ばなかった自分があの家に帰っていいのか。
あんなに私を必要としてくれている彼を拒否し、別の人を必要とする私を彼が歓迎するとは思わない。
手元にいればいるほど、辛いだろう。
だったらもう、あの家には帰らない方が良いんじゃなかろうか。
帰らないだけじゃなく、今後一切、彼に会う事を許されないかもしれない。
そもそも、この世界自体が消えてなくなるかもしれない。

そこまで出来るのか。私に。
私の中にある唯一確かな物を捨てる価値が、果たしてあの極悪魔族にあるのか。
あの言葉が全部嘘だったら、私には何も残らないのに。
一縷の望み、という頼りない未来に賭ける事に後悔しないのか。

好きなものを捨てて好きなものを手にする。
自分の身体がもがれていく苦痛と恐怖に、また涙が零れていく。
決められる人は凄い。私なんて、悩むだけ立派で何も決められない。

床が軋む音がした。ニッキーが帰ってくる。
私は急いで涙を拭った。

……ちゃん?」

少し遅かった。それに目を見られてしまえば拭った所で丸判りだ。

「なんでもない、ごめん」

間髪入れず、ニッキーは明らかに怒気を含んだ言葉で責めた。

「なんだよ、そのなんでもないって。
 そんな言葉吐くなら、最初から思わせなぶり態度とるなよ」
「……ごめん」

思わずびくついて謝ると、それが悪かったらしい。
ニッキーは乱暴に隣に座ると、私の両手首を掴んだ。

「ごめんじゃねぇ。なんでもなかろうが、あろうが、言えよ。一度でも見せちまったんだから」

私がまず思ったのは逃げられない、と言う事だった。
射抜くような視線は私を適当な言葉で逃げられないようにしている。
隠す事が出来ないなら言うしかない。でも、何を、どこまで。

「う、うまく、いえない……」
「なら思いつくだけ言えば良い。支離滅裂だろうがそんなのこっちで整理する」

流石に私の考えそうな手は見抜かれているらしい。
話す他手は無いようだ。

「たのしく、ないよ?」
ちゃんはただ、判ってる事を全部言えば良いだけだ」

何を知ろうとしているんだろう。
出来ればそれだけを伝え、余計な事を口走りたくは無いのだが。
私の秘密は普通の人が知るべきではない事が多すぎる。
でも、それを判ってて言えと言うんだよね。
だったら私も、それに応えるよ。

「……ジャックが私の事、嫌いになった。二度と触らないで、って」

言葉の選択を間違えてしまった。あれは嫌いとはまた違う。
ほらニッキーが目を丸くしている。

「黒ちゃんとずっと家に居ろって言うの。私を護れるのは黒ちゃんだけだからって」

ジャックが私の死を回避する事を最優先事項と考えた事は判った。
その為にはなんでも切り捨てるだろう。私の意思でさえも。
でも、私を遠ざける事になったのは何故だろう。
私の接触を拒む理由が判らない。私は何をしてしまったのだろう。

「護るってどういう事?なにやらかした?」

護る理由は至ってシンプルだ。
でも、それを言うのは。

「護らなきゃならねぇ状況が普通なわけないよな?
 アイツが黒神ってわざわざ指定するくらいなんだからなぁ」

痛い所を突いて来る。でも、それでも。

「それは、言えない……」

握られた腕を思い切り押された。
背中からベッドに倒れ込むと、そのままニッキーが覆いかぶさってくる。

「あのガスマスク野郎が知ってるって事は神以外でも知っていいって事だろ?」
「いや、でもそれは」
「言わないなら、このままヤるから」

何をするつもりだろうか。指輪の内この状況では逃げられない。
抵抗しているものの、全く歯が立たない。
両腕の拘束すら今の身体では押し返せないと言うのに、脚で身体を抑えつけられてしまえば絶望的だ。
ニッキーは片手を離し、片腕だけで私の両腕を抑えつけようとする。
好機と思って暴れたが、やはり抵抗は無意味だった。
私はなんて無力だろう。

「っ……」
「へぇ、ちゃんでもそういう声出るんだ」

首筋に触れられた指は、ひどく冷え切っていた。
冷たさ同時に恐怖が全身へと広がっていく。

「早く言わねーとどうなっても知らねぇよ」

サイズ違いで開きすぎた首周りから手を差し入れられる。
手のひらが肩に滑っていく。急速に身体が冷えてくる。

「ただオレに教えてくれれば良いだけなんだぜ?」

話すように促してくるが、これはそう簡単には言えない。
私の存在は二人の罪の表れ。そんなの言いたくない。
それに、もし生き返らせる事を頼まれたりなんかしたら……。

「指輪が無ければ普通の女子だな。オレから逃げる事も出来ねぇ」

するとゆっくりと肩口に顔を埋めた。
手で触れられた時とは段違いの恐怖が襲う。
かかる吐息の生温かさが気持ち悪い。
黒ちゃんにされた事を色々と思いだしてしまう。

「や、や……め」

鎖骨辺りに柔らかな感触を感じると、そのまま吸い上げられた。

「っ!やだ!やだ、やめて、しないで」

鏡に映った自分の身体が思い起こされる。
まるで病気みたいに点々と散らばる赤い痣。
黒ちゃんとまるっきり一緒である。
だとしたら、この後にされる事と言えば。

「じゃあ言う?」

顔を上げたニッキーはゆっくりと尋ねた。
怖い私はすぐにでも「はい」と返事をしてしまいたかった。
でも我慢した。まだ大丈夫。青痣が出来たり、出血させられたわけじゃない。
まだ耐えられる。痛くないんだから。怖いだけだから。
また泣きそうにもなるけれど、でも、頑張る。

私はニッキーの要求に首を横に振った。

「ンだよ!そんなにオレじゃ駄目かよ!黒神じゃねぇと駄目だって言うのかよ!!」

怒鳴るニッキーは怒っているというより、何故か私よりも泣きそうだった。

「オレだってずっとちゃんの事が好きだった。
 サイバーの野郎が思うよりもずっと前だ。
 ずっとちゃんに触りたかった。偶に手や頭は触らせてくれるけど、それで足りるわけねぇじゃん。
 ちゃんにちゅーしたいし、舌も入れたいし、痕だってつけたいし、服なんて正直邪魔だし、おっぱいだって触りてぇし、ってなんでサイバーに触らせてんだよ、ふざけんなよ、オレの方が何倍も触りてぇって思ってたのに、触るっつーか揉みまくるっつーか、吸ったりしたいっつーか、挟む……のは無理だとして、でも、ちゃんのパンツ脱がして中に指入れたりとか、オレの入れたりだとか、んでちゃんの声で喘いでるの聞いたりとか、イキそうになる顔見ながら出してぇとか、色々ちゃん見ながら思ってた」

眼球を覆う水膜が涙となって私に落ちる前に、ニッキーはとんと私の胸部に頭を置いた。

「……でも、オレ耐えたじゃん。
 どんなに思ってもちゃんだけにはヤバイことしてねぇだろ。
 無理やりもしてねぇ……ぎりぎり。
 これでも付き合ってねぇ内には出来ねぇって思ったんだよ!
 …………でももう、流石に無理。
 オレはちゃんとエッチしたいし、他の男とヤるとかマジ勘弁。
 ちゃんが他の奴の前で喘がされてるなんて、想像したくもねぇよ」

「だから誰の所にも行くな」と言ったニッキーは私を押さえつける事を忘れて目を擦っているようだった。
ニッキーが今まで何を考えていたのか知った私はゆっくりと思案した。
彼は友達としてではなく、そういう目で私を見ていた、らしい。
例の如く私は全く気付かなかったし、偶のセクハラも全部おふざけだと思っていた。
私って、自分の事ばかりで、周りなんてちっとも見えていないらしい。
したいことをずっと我慢していたニッキーはさぞ辛かっただろう。
許されるとは思っていないが、私の上で未だ固まったままのニッキーを撫でた。

「ごめんね」

と、謝ると、

「ばーか」

と、返された。

「うん……」

と、言うと、

「……貧乳」

と、返された。

「……ねぇ、貧乳は私が悪い訳ではないと思うんだけど」
「貧乳!貧乳貧乳貧乳!」

連呼されると流石にカチンとくるもので、撫でるのを止めてそのまま髪を引っ張った。

「痛ぇな、何すんだよ!」

顔を上げさっきと同じく私を見下ろす。
もう泣きそうな顔はしていない、大丈夫。

「ニッキーが反省してないのが悪いんだもん」
「事実だし」
「事実でも!」

いつもの調子に戻りつつあるニッキーの頬を引っ張った。

「ニッキー最低」
「それでも好きなんだから許せよ」

ストレートすぎる不意打ちに私は手を離した。
触れる事がとても恥ずかしく思えたから。

「それは、関係ない、と思う」

このまま見られているとどんどん恥ずかしくなってくる。
熱を帯びる頬を見られたくなくて、私はベッドにうつ伏せになった。

好きと言われるのは嬉しいけれど慣れない。
同時に苦しい。ニッキーは誰も選ばないでと言ったけれど、私は。
これを私は黒ちゃんにもしてしまうんだよね。
本当に、傷つけちゃうんだよね。

「すき」って言うのも聞くのも勇気がいる。
だから、私はニッキーが欲しがっていた真実を教えることにした。

「……私ね、一度死んでるの。二人の力で生き返ったの」

その勇気を信じて。私は自分の中にある最大の秘密を漏らす。

「それで」
「え、ちょ、ちょっとタンマ」
「あ、ごめん」

こんなこと聞かされたら驚いて整理がつかないよね。
落ちついてから、説明を再開しよう。
そうすればニッキーも判る────って、なんで胸触られてるの!?

「ひゃああ!?」
「下向くとちびっとおっぱいあるじゃん。そ、それでも死んでるわけ?」
「だから胸は関係ない!馬鹿!」

シーツと服の隙間から差し込まれた手を引き抜いて半身を起した。
全く油断も隙も無い。

「完全に元のまま生き返ってるの!ニッキーと変わらないんだからね!」
「その姿の時まだブラしてんぇえの?」
「ニッキー!!!!!!!」

容赦を捨て、私は思い切り頭突いた。
ニッキーは痛そうに額を押さえているが、私だって痛いのだ。

「真面目に話してるのに!馬鹿!ん!」

手を差し出した。さっきのニッキーと同じだ。

「か、え、し、て」
「やだ」
「返して!着替えるし、身体も大きい方にする!」
「それはそれでおっぱい増量するからアリだな」

また、胸の話……。
全身の力が抜けていく、座っている事も困難なほど。
私はまたシーツの上に身を投げた。
もう少しくらい真面目に聞いてくれたって良いじゃないか。

「……もういや、ひどい……どこにも逃げ場ないし」

こんなことなら話さなければ良かった。
ばかばか、ばーーーーか。
信用したのに。だから言ったのに。
嫌い。大嫌い!

「それ知ってるの他誰?」

今更まともな質問が来た。
答えようかどうしようかと思ったけれど、仕方なく教えてあげた。

「二人は勿論。あとはヴィルとロキさん、それにジャック」

眉を顰めたのを見て私は付け加えた。

「最初は無くなった記憶を探していたの。ヴィルが手伝ってくれた。
 ロキさんなら判るかもってアドバイスくれたの。
 ジャックは、記憶を無くす前の唯一の友達だから……」

説明途中で後ろから抱きつかれた。
寝転がりながらなので、簡単に腕を回されただけだけれど。
背後で大きな溜息が聞こえる。

「結局オレフラれてんじゃん。あーマジないわー」

軽い口調で言っているが、実際はとても傷ついている事は判る。
どう返していいか判らない私は、謝るだけだ。

「ごめん」

こんな事に意味は無い。
願いは叶えてあげられない。
傷つける事を選んだのは私だ。

「……畜生。しかも、それが黒神とか、マジ最悪」
「あのね」

黒ちゃんは関係ない。
だって私が選んだのは、どんな時でも私に味方してくれて、大事にしてくれて、……愛してくれた、神様じゃない。
優しさとは程遠い人。その人が言った嘘かも知れない言葉を、信じる事に決めた。
そうすることで世界がどうなるかは判らない。
もしかしたら、あの人が殺されるかもしれないし、私が殺されるかもしれない。
そんな事は絶対に嫌だけれど、でも気持ちだけは、あの人にあげようと思う。
特別に好きだと気付かせてくれた、あの人に。

「元鞘とか萎えるんですけど」
「……あの、ニッキー?」

元鞘?どういうこと。

「は?何だよ。結局ちゃんはその記憶の中で付き合ってた黒神を取るってことじゃねぇかよ。
 絶対に思い出せない思い出の中だけの事だってのによ」

記憶が元に戻らない事なんて、私言ったっけ?
ねぇ、それよりも、黒ちゃんと付き合っていたって。

「……それは、本当なの?」
「何を今更」
「ねぇ、私は黒ちゃんの事好きだったの?
 じゃあ私があの家にいるのはそういう関係だったから?」

待って。待ってよ。そんなの聞いてない。聞いてないよ。

「お願い。教えて」

声が震える。これを聞いてしまったら、私は。

「……黒神が言ってた。恋人だった事はすっかり忘れられた。
 でも記憶は戻る事は無い。無理に思い出させるのは駄目だから言うなって……。
 当時の事はMZDだけが知っているって……」

……聞かなければ良かったのかな。
ううん、違うね。いつかは知らないといけない事だ。

「……迷う必要なんてなかったね。最初から選択肢は無かったんだから」

これで全て理解した。
今までの黒ちゃんの言葉も、行動も、そして少しだけその気持ちも。

「ありがとう、教えてくれて」

身体を反転させてお礼を言う。

ちゃんっ!」

心配そうな顔に笑みを返す。

「ごめんね。ニッキーの気持ちは嬉しかったよ」

ニッキーのポケットに隠してある指輪をそっと引き抜き、その指にはめた。
服も戻し、身体も元の大きさに戻す。

「じゃあね」

もう迷いはない。帰ろう。
黒ちゃんの所へ。





前半部分(14/03/19)
後半部分(14/03/31)