まるで終わりのない回廊のようで 二年生-夏休み-

「絶対あそこの文駄目。もっと言い回しを変えるべきだった。
 あの問題も、あれで良かったのか自信がない。
 蛇足だと思って書かなかったけど、書いたほうが良かったかもしれない。
 それにあの理論の説明も普通過ぎた気がする。もっと自主学習の成果を出すべきだったかも。
 あぁもういやだしにたい」
ちゃん……」

春期の講義、試験は全て終了した。結果はまだまだ返ってこない。
ケンジのアパートにクーラーがないせいで蒸し暑く、私はぐったり死んでいた。

試験当日のコンディションは残念ながら良くなかった。
健康的な生活を心がけているつもりだったが、何故か急に腹痛がしたり、頭痛がしたり。
そういう時に限って、難しい講義の試験ばかり入っていて、私は自分を呪った。
判らない問題は一つもなかったので合格は間違いないが、満点となると話は別。
もし他の奴等に成績が抜かれたらどうしよう。
終わったことに対して嘆いていてもしょうがないと理解しつつも、
ケンジに会う度に試験のことを愚痴っている。

「一位じゃないと意味が無いのに、二位だったら死ぬ。殺して」
「物騒なこと言わないの。大丈夫だよ。ちゃんが思うほど減点はないって」
「……本当?」
「んー、僕が教授ならそうするよ。ちゃんはいつも頑張ってるから花丸だよ」
「結果が全て!努力は評価されないもんなの!!……はぁ……しにたい」

落ち込みすぎて、実は遺書まで書いてしまった。
それは流石に恥ずかしいので誰にも秘密だ。

ちゃんお腹空いたなー」
「米と塩」
「お米は昼に食べ終わったよ?」

めんどくさ……。
米くらい自分で炊けるだろ。私知ってんだからな。

「ケンジの馬鹿」
「うん。僕は愚かではあるけれど、試験だけは全部受けたよ。ちゃんと約束したからね」

受けたとは言うが、行くだけ行っただけで、きっと試験勉強はしていないだろう。
合格出来てなきゃ意味ないじゃないか。

「あーもーーーーあついし、さいあく」
「じゃあ、そんな君に風に当たる権利をあげよう」

ケンジはぱたぱたと団扇で私に風を送る。
むっとくる熱気のせいで、全然心地の良くない風である。

「……あつい」
「困ったなぁ。もう氷は使いきっちゃったしね」

二人で汗をだらだら流しながら、畳に横になった。
窓から覗く空はとても青く澄んでいて、海を連想した。
きっと、講義中に喋ってばかりの奴らはサークル仲間と共に行くのだろう。
私なんて、ケンジなんかと一緒にせっまいアパートで寝転んでいるだけなのに。

ちゃん、楽しい?」
「楽しくないから!!!!」

常時ネジを失っているケンジを、私はバッサリと切り捨てた。











「私お金持ってませんよ」
「大丈夫!今日は僕が持ってる」

今晩はまた、とてつもなく蒸し暑い。
冷たいシャワーを浴びて、クーラーのきいた部屋でのんびり勉強したいところ。
それなのに、ケンジが私の部屋に訪れ、外出の準備をしろだなんて言い出した。
面倒くさいから嫌だと断ったのだが、珍しく食い下がるため嫌々Tシャツとズボンに着替えた。
どこに行くのかと聞いても教えてくれない。財布もいらないと言う。
そのまま何故か駅に連れて行かれた。そして先ほどのようなやり取りへと繋がる。

「電車賃は二人分だよー」

大人二人分のボタンを押し、硬貨を入れるケンジを見て私はパニックに陥った。
あの、ケンジが、である。いつ見ても財布に硬貨しか入っていないケンジが、である。
本当にお金を持っていたとは……これは、まさか。

「警察署まで一緒に行ってあげますから」
「僕を勝手に犯罪者にしないでもらえるかなぁ……」

そうは言うが。と、私は彼の服装を見た。
お金があるようには到底思えない。いつも同じ格好だ。

「大丈夫だよ。とにかく今日は僕についてきて」

自信満々に言うあたり心底心配になってくる。
だが、ケンジがこんなにも物事を先導するなんて珍しい。
今回は興味本位で付き合ってやろう。奢ってくれるというのなら、私にそう痛手はない。
普段の勉強も予定通りに行っているし、いい気分転換になるだろう。

それにしても、周囲の様子が変だ。電車内がとても混んでいる。
それにみんな服装がいつもと違う……。これはもしや……いや、そんなことはないだろう。
そう思っていると、目的地へ着いたらしく、ケンジが私の服の裾を引いた。



「……ここ?」
「そっ。ここに来たかったんだ」

ホームの時点で既に大変なことになっていたが、駅を出てもとにかく人人人人人!!!!
大学も十分人がいるが、そんなものとは比較できないくらいに人が多い。
この地域にこんなにも人がいたなんて知らなかった。
さすが。夏祭りというものは凄い。
しかし、楽しそうに笑っている人たちを見ていると怖気づいてしまう。

ふと見上げると、隣に立つ男はいつも通り薄く笑みを浮かべていた。
どうして、私をここまで連れて来たんだろう。しかもお金まで出してくれて。
私は勿論、ケンジだってあまりこういう場所を好くようなタイプには見えない。
なら何の目的があって、私をここに。
いや、なんとなくそういうことなのかなとは思う。
思うけど……。それは。このくたびれた男には当てはまらないだろう。

「お~。凄いね。さ、ちゃん行こっか」

そう言って、彼は人ごみの中に足を踏み入れた。
ひょろひょろした身体のせいで、彼は人に押されてはバランスを崩す。
人の波に飲まれていく彼に私は必死について行った。
寝ぐせのままの頭がぴょこぴょこと揺れる。
前に進みたくても、人に押されてばかりで進むことが困難だ。
それなのに、ケンジの姿が遠くなっていく。
背後を確認しろと怒鳴ってやることも出来ない。
ここまで引っ張って来たんだから最後まで責任を取れ。
奴の姿を完全に見失った瞬間、私はすっと気持ちが冷めていった。

少しでも嬉しいと思った自分は、馬鹿だ。











結局私は駅周辺の街路樹や花を囲っている石に座っている。
周囲では友人らと待ち合わせしていた奴らや、恋人だとか、親子連れだとか、そういう奴らに溢れていた。
それらを見て殺意が湧いたが、もう今となってはそんなことどうでもいい。
これからどうするかを考える方が先だ。
財布は要らないと言われたので、素直に持ってこなかったのが最大のミス。
一人で帰ることは出来ない。知らない人ばかりでお金を借りるわけにもいかない。
警察に助けを乞いたいのだが、今は交通整理や喧騒を沈めることで大忙しのようで、話しかけ辛い。

群衆が一斉に歓声をあげた。
どうしたのだろうと思っていると、私の身体に大きな音の衝撃が襲う。
パチパチと弾ける音が空に広がっている。ああ、花火か……。
凄いだ綺麗だたまや等とのたまっている人たちを見ていると、また虚しくなってしまった。

あんな駄目人間。信じるんじゃなかった。

お祭りも花火も浴衣も楽しそうにする奴らも何もかも大嫌い。
花火だって建物に隠れて見えやしない。
出店だってもっと先に行かなければ無い。
それに、どの人も誰かといるというのに私は端っこに一人きりだ。
家にいれば全部見ずに済むのに、どうしてわざわざこんな近くにいさせるの。

大嫌い。あんな駄目男大嫌い。いつか殺してや……りはしないけれど、
適当に罪をつくって陥れて、刑務所にぶち込んだ挙句、お金をぶんどってやる。実家から。

次々と打ち上げられる花火に人々の歓喜は最高潮。
私はそれをまるで映画のように見ていた。私はいつだって見るだけだ。



物心ついた時から、私は他人と合わなかった。
理由はよく判らない。ただ、話していても私に興味を持って貰えなかった。
話にはついていけたし、特に傷つけたり不快な気分にさせた覚えはない。
クラス中に嫌われていることも、悪口を言われることもなかった。
それなのに、私は友人と呼べる相手が一人もいなかった。
私を気にかけてくれる人は、一人もいなかった。

幼い私は、絶望し、他人を求めることを止めた。

一人にさせられているわけではなく、私自身が一人を選んだ。
そう考えるようになると、心に圧し掛かっていた重しがふっと消えていった。
一人で良いんだ。一人でだって生きていける。
そう思った。

けれど、社会は私を異常者とし、問題児とした。
家庭訪問ではいつも友人がいないことを指摘された。
周囲の人間は一人でいる私を憐れみ蔑み、嘲笑した。
社会は私みたいな人間はコミュニケーション能力に問題であり、社会性がないと言う。
つまり、私を馬鹿にする奴らと比べ、私の方が人間として劣っていると言うのだ。
私は、それが許せなかった。

劣っているのは彼ら。彼らは私についてこられなかっただけ。
私からあいつらを見限ってやっただけで、私が劣等種であるはずがないと。

誰にも文句を言わせないよう、私は勉強した。学力は大きなステータスだからだ。
学力は私を裏切らない。馬鹿どもしかいない世間も好成績を見れば口を閉ざす。
私に意見できる立場ではないことを思い知るのだ。
良い気味である。

だが、私だって、判ってる。
私の考えが歪んでいることを。彼らの方が正常であることを知っている。
知っていてもどうにもならないのだ。
私はあの時、一人を選んだ。だから最後まで突き通さなければならない。
私の存在の証明のために。



ちゃん!!」

くたびれた馬鹿男が息を切らして私に駆け寄った。
私は返事をしなかった。

「ごめん!!!」

煩い死ね。

「戻ろうと思ったんだけど、ここって一方通行で、ぐるって、まわらなくちゃ、駄目で」

息が上がっている。

「ごめんね。一人にして」

その一言に私は押さえつけていた怒りが爆発した。
手のひらで一発、ケンジの頬をはたく。

「っざけんじゃないっての!!!!
 あんた馬鹿じゃないの!!!自分が任せろっつったんでしょうが!!!!
 それなのに何?さきさき行って私放置しやがって、馬鹿じゃないの!!!
 財布無いの知ってんでしょうが!!!今場所に放置されて私はどうしろっていうわけ!!!
 ばーか!!!あんたを信用した私が馬鹿だった!!!もうあんたの言葉なんて絶対信じない!!!
 大っ嫌い!!!早く帰りたいんですけど!!!!電車賃!!!!」

むかつくむかつく、本当むかつく。
何今更。今更こられたってしょうがないんですけど。
早く帰りたい。帰って一人に戻りたい。他人がいるところにいたくない。

「……ごめんね」

ケンジは座ったままでいる私を自分の方へ引き寄せた。
腹部の辺りに私の顔が収まる。

「っ!!止めろ!!変なことすんな馬鹿!!触んな変態!!」
「ごめんね」
「謝んな!!!謝るくらいなら最初からすんな!!!!」
「うん……ごめんね」
「離せ!!!早く離せ!!!」
「それは出来ない」
「訳が判らない!!!馬鹿過ぎて発言もおかしいんじゃないの!!!」
ちゃんの泣き顔を余所の誰かに見せるくらいなら、僕はいくらだって罵られるよ」

目を押し当てているケンジの服がどんどんと冷たくなる。
私は興奮のあまり泣いていたようだ。あまりに腹が立って。

いいや、それが百パーセントではない。
ケンジが帰ってきて、私は……ほっとしたのだ。

「死ね!!!!馬鹿ケンジ!!!!」
「うん。そうだね」
「ばーかばーか!!!!」
「うん」
「留年!!!ぼっち!!!!」
「うん」
「……っ……馬鹿」
「うん」
「…………置いて行かないで」
「うん」
「…………一人にしないで」
「次はちゃんと手を繋いでおこう。君と離れることが無いように」

そう言って、ケンジは私の頭を撫でた。
それが心地よいだなんて、私は絶対に思わない。











「さて、帰ろうか」
「食べ終わったら帰る」

私に恥をかかせた罰として、ケンジには沢山奢ってもらった。
花火を見ることは諦めた。どうやらこの花火、結構歩いていかないと見れないそうで。
それならば店に寄る方が楽しいと思い、私はとにかく食べた。
ただ飯は美味いというやつだ。

「はい。お茶」

ケンジからペットボトルのお茶を受け取り、ぐいっと飲む。
飲み終えたペットボトルはケンジに返却。
荷物を一切持たなくていいってこんなに楽だったんだ。
いつも一人だから気付かなかった。

「ん。食べ終わりました。もう帰れます」
「トイレとか大丈夫?」
「ええ。問題ありません」

ゴミ箱が満杯で捨てることが出来なかったので、私たちはゴミ袋を提げたまま、駅の中に入った。
そしてまたこの男にキレた。

「どういうこと!!!!!!!」
「うーんと、計算?間違っちゃったみたい……あはは」
「あははじゃないから!!!!!!!!」

電車賃が足りないんだとさ。
足りないんだとさ!!!!

「……で、どうすんです?徒歩は難しいですよ」
「野宿……かなぁ?ご、ごめん!そんな怖い顔しないで」
「させたのはあんただろ!!!!」

倒れそう。この無計画さにはついていけない。
確かに季節は夏。野宿は可能であるが、しかし。
ホームレスではあるまいし、周囲から見てもあまり良い絵ではないと思うのだ。

「とりあえずさっきの所に戻ろっか。横になろうと思えばなれるし」
「えー……」

この男、逞しいと言うべきか。馬鹿と言うべきか。
私達はまた先ほどの石の淵に戻り、そして彼はそこで横になれというのだ。
石とはいえ、ごつごつしておらず、研磨されているために気持ちが良い。
だがしかし。そこまで堕ちていのか私は。

「人ごみで疲れたでしょ。枕はあるから少し休んだ方がいい」

はて。枕とは。
私は手ぶら、ケンジもほぼ手ぶら状態で、枕なんて持ち運べるわけがない。
と、ケンジは自分の膝をぽんぽんと叩いた。
私は理解した。そして拒否した。

「い、嫌ですよ。そんな……洗濯してなさそうだし」
「してるよ!!綺麗だよ!!」
「そう……」

洗濯されていることは知っている。私がしたんだから。
そうじゃなくて、断る理由が欲しかっただけで。

「無理にとは言わないけど、いざって時の為に身体を休めている方がよくないかい?
 僕はずっと君の傍にいるから、危険なことは起きないだろう」

身の危険の問題ではなく、知人以上友人未満の人間の膝なんて借りれるかという話である。
たかが膝と思っているのだろうか。私はどの部位であろうと、他人のものは苦手だ。
潔癖症ではないが、触れることを躊躇ってしまう。

ちゃん……怖い?」
「何がです。こんなことに怖がる理由がありませんね」
ちゃんは効率第一だもんね。躊躇う理由がないね」

しまった。自分の発言で首を絞めている。
ここで断れば臆したことになってしまう。
選択肢を失った私は、恐る恐る、彼の膝に、耳を当てた。
少しふにゃっとして、私の側頭部を優しく包んだ。
暖かくて、気持ちが良い。石に触れている他の身体の部位とは大違いだ。

「今日は最後までごめんね、ちゃん」

そう言った彼は私の頭を撫でてくれた。
髪の流れに沿って、丁寧に。
疲れのせいか、気持ち良くなってきた私はそのまま瞼を落とした。

しばらくその大きな手の感触に包まれていると、ケンジが突然大声をあげた。

ちゃん、ちょっとごめんね!!」

私の頭を下ろして、彼は走りだす。
のんびり屋の彼が走るのも珍しいが、こんな大声も珍しい。
半分寝かけていた私の心臓が驚きのあまりバクバクと音を鳴らしている。

「やったよちゃん100円拾った!これで電車で帰れるよ!」

元気になったケンジが私に硬貨を突き出した。

「僕の予想通りだね。こういう時はよくお金が落ちてるものさ」
「……なにそれ」

財布にはいつも余裕があるように努めている私にはそんな知識はない。
このなんとかなるさ精神は理解できないと脱力する。
しかし、自然と笑みがこぼれた。

「じゃ、帰ろっか」
「はい」

ピークを過ぎて少し余裕がある電車で私たちは帰宅した。





next...
(13/07/05)