「へぇ。ここがそうなんだ」
民家の屋根の上で仁王立ち、辺りを眺めているのは、闇よりも暗い色したスーツの男。
ゆったりと雲が流れている中、髪を軽くなびかせながら座っている男は酷く目立つ。
中でも一際目立っているのは、その両目を覆う黒い布。
視界を封じられている筈であると言うのに、男はしげしげと街を見下ろす。
「これはなあ。厄介そうだなあ。なあ。そう思うよなあ」
彼の隣には誰もいない。ただの独り言。
「ちょっと!人の家の屋根の上で何してんの!!!」
「わわっ!?すいません!すぐ下ります下ります、どわぁああああああ」
足を滑らせた男は庭の植木へと、まっさかさまに落ちた。
◇
「サユリが遠い……」
太陽が西へ沈む頃。
明らかに不機嫌そうな顔をしたは、サユリの腕にがっしり抱きついている。
歩きづらそうにするサユリは子供を宥めるように優しく説いた。
「また次があるから、ね?」
「……明日勝手にサユリのクラスに机持っていく」
「駄目でしょう。そういうことしちゃ」
「……じゃあ、掃除のロッカーに入ってる」
「さん……」
聞き分けのないにサユリは大きな溜息をついた。
の不機嫌の原因はとても小さな事。
体育の授業はとサユリのクラスは合同で行うのだが、その中で別々のチームになってしまったのだ。
チームの決め方はジャンケン。
チョキかパーで迷ったは思わずグーを出し、負けてしまった。
その日限りなら良かったのだが、暫くは同競技を行う為チーム変更もこのままという事となった。
あの時チョキを出していればずっと一緒だったのにと、下校時になった今でも嘆いているのである。
これにはサユリも困った。
「ほ、ほら、相手チームだとよく顔が見えるよ!」
「じゃあずっとサユリを見つめてるね!」
「うぅ……そうじゃなくて……」
本格的に頭を抱えるサユリの耳元に唇を寄せ、囁いた。
「君も苦労するね」
耳を這う言葉はのそれではなく、サユリは耳を抑えた。
先ほどまでべったりとくっ付いていたはすぐさま解放すると、
サユリに近づく不届き者との間に割り込んだ。
相手の出方を窺いながら、慎重に声をかける。
「……誰。何の用」
「さあて、誰だと思う?」
楽しげに言う男には警戒を強めた。
後ろ手に庇うサユリを何に代えても守り抜こうと睨む。
「あらら~、ボクの事警戒してる?
大丈夫だよ。女の子に手を出す趣味は無いからね。
あ!こういってるけど別に僕は男色って訳じゃないから!
可愛い女の子だーいすきだよ!安心してね!」
男が一歩、二人の方へと踏み出す。
男から目を離さないように後ずさるは後方のサユリに伝えた。
「今日はお家で大人しく過ごしててね」
その瞬間サユリの姿は消える。
何の予備動作も無い。
黒装束の男は感嘆の声を漏らした。
「わぁ……凄いね!それが君の、いや、神の力と言うやつでしょ!」
目の前で手を打ち鳴らしている男はの力の正体に気付いている。
いつ襲われても良いようにと、は身体の周りに薄く防護壁を張った。
「貴方、いったい何」
「おいおい、それを君が言うのかい?君こそ何さ。人間の女の子じゃなかったの?
不釣り合いな力なんて使っちゃって。いったい何になりたいんだい?」
の質問に一切答えようとしない不審者。
自身、期待していた訳ではないが、あまりにも頑なに正体を明かさない為気は抜けない。
「ま、そんなことは問題じゃないのさ。君は何と呼べばいい?」
「貴方は?」
「僕のことは目隠しと呼んで。見たままで判りやすいでしょ!」
「……」
即座に偽名が思いつかなかったは渋々と本名を名乗った。
「そうか、ちゃん、か。早速だけど、デートしよう!」
予想だにしなかった発言に、の肩の力が抜けた。
男は楽しそうに笑っている。
「一組の男女が出来たら、デートになだれ込む。当たり前じゃないか!
あ!それともちゃんはそういう経験ゼロかなー?
大丈夫、僕に任せて。エスコートは不得意だけどね!」
「ちょ、ちょっと……」
話の展開についていけないの事なんて、男は一切お構いなしだ。
「さ、行こう!行くぞ!いざ行かん!いざ参る!
折角二人きりなんだ、ここで行かなきゃ女が廃るよ。男も廃るよ。
きゃっ。僕とちゃんの初・体・験。楽しみだね。ドキドキだね。
僕はなんだかいやらしい気持ちになってき、」
「煩い!!」
怒鳴り声を中心に町から一切の音が消える。
目の前の男は勿論、風も鳥も音を忘れた。
「……落ち着いて話して。貴方、口から生まれてきたみたい」
が頭を抑えて訴えると、町はまた音を取り戻した。
男はけらけらと笑う。
「口からなんて生まれるわけがないよ!
そんなことをしたら顎が外れるじゃないか。
それとこれは身体的問題によるもの。まあ許してくれよ。
見えない分、口が頑張って働いているんだよ。
どうだい、感動ものだろう?
少しは彼の働きを評価してくれたって」
「判った!十分判りましたから」
だからそれ以上話さないで欲しいとは首を振った。
それを見てにっこりと笑う男。
「理解が早くて助かるね!感謝感謝の大喝采さ!」
「では、……失礼します」
一緒にいるだけで気力が削がれる。
そう判断したはこの男を放置して帰ろうと背を向けた。
しかし、先ほど見ていた光景と同じ光景が眼下に広がる。
先ほどと異なるのは背景だけ。
黒の男はにっこりと笑った。
「そんなこと言ってていいの?
さっきの女の子の事。いいのかなぁ~?」
判り易過ぎる脅しに、は声を荒げた。
「何が目的なの!あの子に手なんて出させないから!」
「だからデートだって言ってるでしょ?最初から。
君はただそれに従えばいいのさ」
口元に浮かぶ笑みは不快なれど、は判ったと白旗をあげた。
◇
「あ!あそこ行こうよ!」
「お、お小遣い……」
に買わせた揚げあんぱんを咥えて、の腕を引く目隠しの男。
小学生並みの小遣いをやりくりしているはパン一つだって痛手。
半泣きになりながらも、サユリを狙うと言われた以上従わざるを得ない為に着いて行く。
男が自動ドアを潜ったのはこじんまりとした書店。
漫画や雑誌が多く、最新のものばかりを取りそろえている。
男はやや広めの通路をすいすいと歩くと雑誌コーナーで足を止め、一冊の雑誌をパラパラとめくった。
しかし、男は未だ両眼を覆ったまま。はおずおずと声をかけた。
「あの、失礼ですけど、そのままでも見えるんでしょうか……?」
「うん?全然判らないよ。僕は文字を見た事がない、絵だって見たことがない。
僕は何も見る事は出来ないよ。この先もずっと」
ただページをめくるだけの男に、は言った。
「読むよ。言葉だけなら貴方にも伝えられるから」
「ちゃん……。じゃあお言葉に甘えて、このページ音読してくれないかな」
差し出された見開きを覗きこみ、は文字を追った。
「深夜の交番。
取り調べを行う婦人警官の制服の隙間から零れ落ちる果実から漂う性の香りに、
僕の下半身は男の本能を沸き立たせた。
我を忘れ婦人警官の胸倉を掴んでブラウスを引きちぎると、
下着を押し出すその圧倒的ボリュームに、僕は獣の如くむしゃぶ、」
ようやくその内容に気付いたは男を睨んだ。
男は嘲笑する。
「女の子なのにそんないやらしい言葉を使うんだね」
「っ!!」
顔を真っ赤にしたはうっすらと涙が滲ませた。
右手を天井へ突き出せば、忽ち世界は時を忘れる。
立ち読み客も、客に対応する店員も銅像のように動かない。
「わお!ちゃんったら大胆だね~。そんなに僕と二人きりになりたかったのかい?
いやぁ、モテる目隠しは辛いねぇ。女の子にこんなことさせちゃうなんてさ」
「ぜったい、反省してもらうんだから!!!」
が男を指差せば、一つに結っていた髪紐が解けて飛んでいく。
驚いた声をあげる男に巻き付くと、両手と胴体を一つにまとめ上げた。
「熱烈なアプローチなのにごめんねー。追いかけられると逃げちゃう性質でさ」
そう言って男は拘束からすり抜ける。
は思わず目を見開いた。
「君程度じゃ無理だ。だから助けを呼ぶと良い。いるだろ?
君の後ろに控えている、この世を統べる神様ってやつがさ」
「貴方の目的はそっちだったのね。何の用なの!」
「君如きが理解できるものか」
冷たく言い放つと、の身体に先ほどの髪紐が巻き付いた。
「あっぐぅ!」
「引きちぎれる前にカミサマって奴を呼んでくれないかな」
「い、いや」
「そっ」
首を振ったへの拘束が強まり、軋む身体に声をあげる。
何故男が自分の拘束が逃れる事が出来たのか、何故自分の思う通りに世界が動かないのか。
男の能力は未知数で対処法が判らない。
落ち着けと繰り返し念じるが、心は揺れるばかりで力は弱体化するばかり。
は自らの手で首を絞めていた。
「早くしてね。……はーあ、君を痛めつけすぎるとまた面倒な事に」
「面倒とは、聞き捨てなりまセンね」
通常サイズに戻った髪紐を持った影が、現実と切り離されている空間にひょっこりと現れた。
煙のような身体で救出したの周囲をくるりと回りながら、男の様子を窺う。
「サンに手を出しておいて、そのままでは帰せまセンよ」
「だーかーらー。僕が会いたいのは君でもなくて、君の主人の方で」
「お察し下さいマセ。私がここにいる意味を」
柔和な笑みを浮かべる影であるが、張りつめた空気を放っている。
これには、楽しそうにからかっていた男も、口元を強張らせた。
「……その自信、あまり気分が良くないな。所詮付き人でしょ?」
「えぇ。所詮は影。でも貴方がリサ様である事くらいは判りマスよ」
「……そう。知ってるんだ。へぇ。流石に早いね」
「リサ?が名前だったの?」
は不思議そうに影に問うと、リサと呼ばれた男がぴしゃりと言った。
「その名で呼ばないでくれるかな。
僕はね、その名前が大嫌いなんだ。虫唾が走る。僕の繊細な耳を汚す不浄の響きだ」
「左様で御座いまシたか、リサ様。これはこれは大変申し訳御座いませんでシタ、リサ様」
「嫌な奴だね。ま、僕も人の事は言えないけど」
男が横を向いて頭を掻く間、声を潜めた影はに耳打つ。
「お逃げなサイ。アレは少々厄介な相手です。マスターの元へお帰り下サイ」
「影ちゃんはどうするの?厄介なら一緒に逃げちゃおうよ」
「そうはいきまセン。また貴女やマスターを狙われては困りマス」
「残るよ。まだ私あの人に参ったって言わせてない」
「いけまセン!お洋服がそれ以上破れたらどうするんデス!
スカートがお裂けになっている事に気づいていないんデスか!」
「うえぇ!?いつの間に!?やだ。み、見ちゃ駄目」
「ナラバ、大人しくお帰りください。女性がはしたない事をするものではありまセンよ」
「でも残る。……なんかパンツも少し破れちゃった感じがするけど」
「絶対イケマセン!!!」
最終的に大声で叱り始めた影。
二人ともすっかり忘れているようだが、会話は全て男の耳に筒抜けである。
「……君たち楽しそうだね。僕寂しいな」
男は平積みされた本の上に腰をおろし、と影のやり取りをぼうっと眺めている。
つまらなさそうに欠伸を一つ。
と影は「帰りなサイ」「残る」と交互に言い合っている。
あまりにも長く続く為、平棚に肘をついて横たわり読めもしない本を気だるげに持ち上げパラパラとめくり始めた。
三冊目に突入した頃、宙に桃色のクレヨンを用いた様な線で長方形が描かれた。
まるで扉のようにそれがゆっくり開くと、今度は黒髪の少年が顔を出した。
「戻ってこないと思えば二人ともなにやって……!!スカート!!」
黒神が扉から身体を出すと扉は消滅した。
に駆け寄り裂けた部分を撫でると、みるみるうちに元の形へ戻っていく。
「し、下着……見えかけてた。気をつけてくれ。影や俺だけだったから良かったが」
「ご、ごめん」
誰も、特に他の男がいなかった事に安堵しつつも、
移動してまず目にしたのがスカートから覗く刺激的な太ももだった為に、心臓をバクバク鳴らしながら動揺している。
そんな黒神を見て、つまらなさそうにしていた目隠しの男が飛び起きた。
口端を大きく釣りあげる。
「ようやく僕に会いにきてくれたんだね。カミサマ。
いや、MZDと呼ぶのが良いか。なんというか、思ってたよりも餓鬼っぽ」
と影はあれほど言い合っていたと言うのに、男の発言を聞いた途端に退却した。
男が様子の変化に気付いた時には、既に遅い。
スカートが破損したの傍にいた事、そして駄目押しとばかりにMZDと呼んでしまった事。
見かけ同様心が少年のように幼く沸点が低い黒神は、が店内の時間を止めていた事を良い事に男を存分に甚振った。
◇
「申し訳御座いませんでした」
男は黒神宅のフローリングの上で土下座させられていた。
カーペットの外へ座らせている辺り、黒神の細やかな悪意が感じられる。
「俺じゃねぇ。と影にだ」
「申し訳御座いませんでしたぁー」
「ちゃんとやれよ」
むぎゅっとスリッパを履いたまま男の背を踏んだ。
「い、いいよ。もう」
「エエ。お気遣い有難う御座いまシタ。ですので、もう……」
も影も、黒神に殴られてすっかりよれてしまったスーツの男を憐れみ、それ以上の謝罪をやんわりと拒否した。
二人が自分の行いに引いているの察した黒神は渋々と脚を下ろす。
すると男はがばっと起きて、にぱっと笑った。
「本当!?いやー、床がさ冷たいし硬いしで辛くってさ!
せめてそっちのカーペットある方で土下座させて欲しいもんだよね!はは!」
「お前、反省してねぇだろ」
黒神はそれ以上相手にする事が嫌になり、の肩を抱き寄せソファーへ座った。
「とりあえず、お前はもう帰れ。そして二度とに近づくな」
「りょーかい!じゃあ、黒神様にはもう一回拝見しても良いって事ですね!そういう意味ですよね!」
「に触れないのなら、その条件呑んでやってもいい」
「勿論。そっちの子には全く興味ないですから。
もうぜーんぜん。そんな男か女か判らないような子供じゃ僕は落とせませんって、ちょっと……?」
黒神は自分と影だけでなく家の中の物を防御した。
それに伴い影は黒神の影として同化し、黙って控える。
「え、えーっと。そこの二人は観戦ムード?あれ?止めたりは?僕危険な目にあってるよ?
それに君たちの大事なちゃん、可憐さとは程遠い顔になってますよー……え?」
「……気の済むまでやるといい」
その言葉を皮切りに、黒神宅はが生みだした光に包まれた。
両眼を覆う男はその光を認知する事が出来ぬまま、その身を侵食されていった。
「よしよし。見る目の無い奴の言葉なんか気にするな。
大丈夫、誰がどう見てもは可愛い女の子だ」
いじけるを抱き、撫でてやる黒神の足元には一つの残骸。
黒神と違い暴力的ではないの攻撃は頭を壊し精神を病む。
「ヒヨコがカエルに……馬鹿な顔した沢山の神が僕の周囲でリンボーダンスを……」
「または……今度は何の映像を見せたんだ?」
の頭の中で自分はどんな扱いを受けているのかと黒神は溜息をついた。
「そこのお前も、俺を狙うのは勝手だがそう簡単にやられてやらないぞ」
「はぁ……あの……何か勘違いしてません?僕は神へ反逆しようなんて思ってないんですけど?」
会話を始めたことでの不思議ワールドから抜けだしてきた男は、
いつもの調子を取り戻し始めた。
「あはは!やられてやらないだってさ!神なのに馬鹿みたいな事思うんだね!
神だよ、神?GodでGottでDieuだよ?
その名でわざわざ頂点に君臨してますって教えてくれてるのに、
それに逆らうなんて、身の程知らずにも程があるでしょ!
あ、それとも最近はそういう自殺方法が流行ってるのかな?
たった一つの死に対するその貪欲に脱帽さ!
僕帽子被ってないけど!カツラでもないよ!触ってみる?」
「……猿轡噛ませろ」
すらすらと無駄に言葉を並べる男に、黒神は眉根を寄せた。
「なんですと……黒神様は、SMプレイがお好き……?」
「えすえむ?」
が小首を傾げると同時に、ソファーに座っていた筈の黒神が男の髪の毛無造作に掴み床に押し付けた。
「……余計な事を言ってんじゃねぇよ」
「うぅ……。ひどい」
頭を潰さんばかりの圧力で押さえていたというのに、男はするりとすり抜けた。
歩いた様子を一切見せていないと言うのに、男は今玄関の扉に手をかけている。
振り返り、睨みを利かせる黒神に手を振った。
「今日はこれくらいで退散しますよ。じゃあね~。またお会いしましょう。黒神サマ」
ぱたんと閉まる扉。黒神は吐き捨てた。
「チッ。胡散臭い男だ」
先ほど座っていた位置に戻り、の手に手を重ねた。
「不思議な方でシタね」
「この辺じゃ見かけない種族だ。アイツにでも聞いてみるさ」
「あの人、掴み所がなくてよく判らなかった」
「ああいうのは関わらないのが一番だ。腹の中で何を考えているか判らない。
もう二度とあの男とは言葉を交わすなよ。奴は面倒そうだ。
……俺がそこそこ力を込めたというのに、ピンピンしているくらいだからな」
の目を気にした黒神はほんの戯れ程度にしか痛めつけてはいない。
しかしそれでも普通ならば立ち上がる事が少々困難になるもの。
それなのに男は床に押さえつけていた黒神から逃れることも出来た。
その辺の口だけの奴等とは違う。警戒すべき人物である。
「もうあの男の話は良い。それよりも、今日も学校疲れたろ。
お風呂が先か?それとも夕食にするか?それとも」
「ご飯!」
「……そ、そうか」
予想通りの答えとはいえ苦笑する。
「準備しましょうカ。サン、スッカリ遅くなりましたが手洗いうがいデスよ」
「はーい。あ、その前にサユリのところ行ってくる。すぐ帰るから」
サユリには何事も無かった事、これからも無いであろう事を伝えた。
帰宅後影が用意した夕食を目にし、突如出現した目隠しの男の事なんての頭の中から消え去っていく。
男が斥候であったこと、そしてまた黒神の前に現れることを知らないは嬉しそうに手を合わせた。
「いただきます!」
fin.
(13/11/22)