いいの、どんなひとでも


窓から差し込む朝の日差しを浴びているのは、家の一人娘・ド・だった。
簡素ながらしっかりとした作りの椅子に腰掛けて、手入れの行き届いた庭に目を細めた。
柔らかでいて力強い光が、透き通るように白い肌を照らしている。
は澄み切った青空に深い溜息を吐き出すと、窓とカーテンを手早く閉めた。
同時に、部屋の扉が軽くノックされる。

「お嬢様、朝食の用意が出来ましたよ」
「ええ、すぐ向かうわ」

ふんわりとした金髪を揺らしたは、初老の執事と共に階下の食堂へと下りた。
食堂には既にの両親が席についていた。三人は神に祈りを捧げた後、揃って料理を口に運んでいく。
家では食事中の会話ははしたないとされるが、家族にとって大切な話だけは別であった。

。食事をしたままで構わないから聞きなさい」

は曇りのない銀食器を置き、父の話に耳を傾けた。

「今日、新しいフットマンが来る。彼らにはお前の世話をしてもらうつもりだ。しっかり教育しなさい」
「はい、お父様」

淀みなく返事をしたものの、は不安で仕方がなかった。
の世話は物心ついた時から今の執事が担ってきた。
主従ではあるが、時には気の置けない友人のように、第二の父のように接してきた。
それが新しいフットマンにとって代わる。
屋敷の中で過ごす事が多いにとって新しいスタッフには心が躍るものだが、自分専属となると話は別だ。
今後は自分の要望も悩みも何もかもを新しいフットマンに言わなければならない。
他人の前で口にするのも恥ずかしい事を伝える事だって。
気の置けない関係を築くには時間がかかるのは当然として、相性の問題もある。
しかし、家長である父の言葉は絶対。は異を唱える立場にない。

不安な胸中はおくびにも出さず食事を終えたが食堂を出ると、大広間には見知らぬ二人の男が旅行鞄を一つずつ携えて立っていた。
もしやと思い眺めていると執事が彼らを紹介した。

「お嬢様、先程旦那様がお話していた新しいフットマンのヴィルヘルムです」

夕暮れ時の空に似た茜色の髪、同じく茜色の瞳は切れ長で鋭く、病的とも思える白い肌によく映える。
人形のような見目麗しい男がへ恭しく頭を下げた。

「初めまして。私は今日からお嬢様にお仕えさせて頂くヴィルヘルムと申します。
 そしてこちらは」

ヴィルヘルムの隣にいる白髪の少年は無表情のまま「ジャック」と小声で呟いた。
それだけと思わず「え」とが零すと、ヴィルヘルムが即座に謝罪した。

「お嬢様大変申し訳御座いません。
 ジャックは私の息子なのですが、少々頭に難がありまして……。
 本来ならば屋敷に同行させるものでは御座いませんが、旦那様のご厚意で許可を頂きました。
 お嬢様がお嫌でしたら目の届かぬ所へと置き、その美しい双眸を穢さぬよう対処致します」

がジャックを見ると、不思議そうに小首を傾げている。
無口そうな印象は伝わってくるが不快感はない。
年の頃はと同じくらいだろう。
袖も丈も短い簡素な服を着ているとは随分貧しい生活をしていると窺える。
貴族以外で同世代の者と関わる事のないには庶民のそれが物珍しく映った。

「その必要はないわ。彼は私の話し相手として傍に置けば良い。それなら貴方もジャックの心配をせずに済むわ」
「寛大なご配慮に感謝致します、お嬢様」

ヴィルヘルムは再度深々と頭を下げるが、の関心はもっぱら表情筋が動かないジャックに向かっていた。
は小さく笑みを浮かべると、スカートの左右を摘まみ少し持ち上げて腰を落して挨拶をする。

「ジャック。これから宜しくね」
「お前、名前は」

不躾な質問にヴィルヘルムは眉を顰めて口を開くが、が手を上げ制止した。

「申し遅れました。私は・ド・と申します」
「……、か。なるほど。理解した」

会話の成立にはほっと胸を撫で下ろした。
身分の低い者との交流は難しいと聞くが、日頃の暇を潰す相手なら十分そうに思う。

「ヴィルヘルム殿、ジャック殿はこちらへ。使用人部屋へと案内致します」

執事に連れられた二人の後姿を見送り、は自室へと戻った。
朝食後は部屋で読書や勉学が主な過ごし方だ。
執事から指導を受けているであろうヴィルヘルムと、ジャックの訪れを待ちながら読書を行った。

は異国の物語を好んだが、経済や政治等の本にもよく目を通した。
貴族に産まれた女がそのようなものを読むな、との祖父は憤慨していたが、父は推奨していた。
学びたいのであれば好きにすればいい。家の蔵書も好きにして構わない。
一見寛容な言葉であるが、その知識を活かせる事は一生ないがな、と釘を刺す事は忘れなかった。

「お嬢様」

ノック音のすぐ後にヴィルヘルムの声が響いた。
入室を許可すると家の仕着せの制服を纏ったヴィルヘルムと、小ざっぱりとした服装のまるで貴族の嫡子にも見えるジャックがいた。

「この時より、私ヴィルヘルムはお嬢様の傍付きとして働かせて頂きます。
 ジャックは部屋の置物と思って頂ければ良いかと」
「ジャック、おいで」

窮屈そうに肩を回すジャックを手招き、椅子へ座るよう指示した。
新品の服の匂いがの鼻に届く。

「ヴィルヘルムと違って貴方には特定の役割はない。だから、もし貴方が良ければ今からでも私とお話してくれないかしら」

ジャックはヴィルヘルムを一瞥。頷いたのを確認してから答えた。

「判った。と会話をすればいいんだな」
「ええ。そうよ。ヴィルヘルムは二人分のお茶を用意してちょうだい」
「畏まりました、お嬢様」

足音一つなくヴィルヘルムが移動する。
どこでどれだけの経験を積んだかはまだ聞いていないが、フットマンの基本的は身に付けているようだ。

「殿方と何を話して良いか実のところよく判らないのだけれど、ジャックは普段何をしているのかしら」
「普段はナイフを、」
「ジャック! 口の利き方には気を付けろ」

まだ部屋にいたらしいヴィルヘルムが厳しく叱責した。
けろりとしているジャックとは対照的に、は目を丸くした。
ととととと心臓が早鳴る中、ヴィルヘルムがの傍へと来て謝罪した。

お嬢様大変申し訳御座いません。使用人ですらないジャックがお嬢様に馴れ馴れしい真似を」
「いいえ。会話を望んだのは私よ、ヴィルヘルム」

の声は微かに震えていた。
特段大声という訳ではなかったし、家庭教師から厳しい教えを受けていたがこの程度で恐怖を感じる事はない。
それなのに、ヴィルヘルムの言葉を耳にした途端に身体中の血が凍り硬直した。
今は目を合わせる事にも躊躇いがある。しかし、己を奮い立たせ主としてヴィルヘルムを見据えた。

「今後は執事に代わって貴方がフットマンとして私に仕えると言ったわね。
 であれば貴方は私の家族同然。貴方の家族であるジャックも含めて。
 よって必要以上の遠慮は不要よ。ジャックが使用人でないというのであれば、友人という関係が適当なのではなくって」
「ですが、淑女に若い男が近づくというのはお嬢様の為になりません」
「今更ね。貴方が傍にいて何も起きるわけがないわ。
 そんな事を起こすようなフットマンをお父様が私に宛がうはずがない。
 ジャックの事も貴方の事も、私は信じるわ」

一瞬の間。

「有難いお言葉感謝致します。しかし、お嬢様とジャックは身分が大きく異なります。
 一定以上の接触を避けます事をお気を付けくださいませ」
「ええ。判ったわ」

会話を終え退室したのをしかと確認してから、はジャックへと向き直った。

「ところで、何の話だったかしら。えっと……ナイフ?」
「ナイフを。を……を……」

言葉に窮するジャックには助け船を出した。

「ナイフを磨く、かしら。食器磨きね」
「違、あ、そう、そうだ。その通りだ!」

ぎこちない笑顔、ぎこちない会話。
は微笑む裏で溜息を吐いた。
使用人も友人も教育には時間がかかるものだと言い聞かせながら、は次の質問を口にした。


こうして、と新しいフットマンとその息子との奇妙な生活が始まった。
箱入り娘のは大らかで寛大だったので、いくらジャックが粗相をしようとも全て許した。

食事のマナーがなっていなくても。
呼びかけた時に手を振り払われても(他意はなかったとジャックは言う)。
外を駆け回った犬のように泥に汚れていても。
着替えの最中に部屋に入ってこようとも。
中流階級レベルの住居が買える価格のドレスを裂いてしまっても。

は一度だって怒りはしなかった。

「今後気をつけてくれれば良いだけよ」

朝から晩まで忙しなく働くヴィルヘルムとは対照的に、ジャックはの傍らで静かに佇んだ。
ただ食事の際は別だ。使用人の息子であるジャックは、と食堂で食事をとる事は禁じられていた。
ならば使用人部屋で他の者たちと食事をするのかと聞けば、そうではないと言う。
嫌がらせを受けているのかとは使用人たちを叱責しようと息巻いたが、ジャックは否定し断った。

「俺は一人が良い。その方がやりやすいからな」
「やりやすい、って何を」
「……。やり、やすいは、やりやすいだ」

ジャックとの会話はなかなかスムーズにはいかなかった。
語彙に乏しく、表現力も貴族基準で遥かに劣る。
男でありながら教養がないのは、教育を受けられるだけの金銭状況ではなかったのだろう。
しかしそんな息子に反して、ヴィルヘルムは知識が豊富で、頭脳明晰、ピアノの腕も良く、見目まで良いのでステータスシンボルとしては申し分ない。過剰なほどだ。
これだけのポテンシャルならば家よりも格上の貴族に仕える事も可能である。
あまりに違い過ぎる二人には疑念の目を向けていたが、尋ねても無駄だろうと何も言わずにいた。

ジャックという少年は、この家であまりにも浮いている。
一般的な貴族が口にする「下賤な者」そのものだろう。
けれど、

。見ろ」

言われた通りに球体の様に合わせた両手を見ていると、開いた手の中からは虫が飛び出した。

「っ、ひぃあ?!」

腰を抜かしたに悪びれなくジャックは言う。

「外にいたから捕まえてきた。閉じこもったもこれなら珍しいだろ」

ぴょんぴょんと絨毯の草むらを飛び跳ねるバッタと、得意げにも見えるジャックを交互に見る。
この後すぐにヴィルヘルムが飛んできてジャックをきつく言い含めるまでがお決まりだ。

「悪かった……。こういうのは、気に入らないか……」

首を垂れるジャックへ思う事は、汚らわしくも下賤でもない。

「ううん。ありがとう。気持ちはとても伝わったわ。……ありがとう」
「……そうか」

相変わらず表情は動かないが、それでも声色からは喜びの色が見えた。
見た目と異なりジャックは不器用ながらもをよく気遣った。
自身の立場を考えて媚びていると到底思えないほど不器用に、優しかった。
の事を想っていると宣う祖父や父や執事、そして側付きのヴィルヘルムよりも。
ここにいる誰よりもをただのとして扱ってくれた。
今後ジャック以上の友人は現れないだろう。

は何代も続く名門貴族ブローシャル家の一人娘。
今後は家の為に嫁ぎ、世継ぎを産み、社交界を通じて他の貴族の内部事情を探り続ける。
夫の政敵周辺に目を光らせ、弱味を見せず、弱みを握り、家の存続と繁栄の為に生きるのが貴族の女の一生。
男も女も敵ばかり、夫でさえも味方と考えてはならない。内外での足の引っ張り合いが貴族社会の常だ。
友人を作った所で探り合いの為でしかなく、気の置けない関係など望んではならない。
そう思っていたの元に、偶然現れたのがジャックだ。
この奇跡を起こしてくれた神には感謝の祈りを毎日捧げている。

「お嬢様。アフタヌーンティのお時間です。紅茶は一人分でよろしいですか」
「二人分よ。貴方もいるなら三人分ね」
「……二人分お淹れします」

繰り返すやり取りに辟易するがフットマンであるならば仕方がない。
は何も言わず、ジャックを手招いて席に座るよう促した。
テーブルにはサンドウィッチにスコーン、ジャムにクロテッドクリーム。
よく食べるジャックがサンドウィッチをさっさと平らげていくのをぼんやり眺めながら、紅茶を受け取り香りを味わった。
ヴィルヘルムは紅茶の腕も良く、やはり非の打ちどころがない。
就職の足枷になっているのはジャックの件だろうと思っていた。
────最初は。
日々世話を焼かれている内に少しずつ違和感を覚え始めた。
それが何か、未だ判っていない。だがヴィルヘルムには本音を吐露するべきではないような気がした。

「……は少食だ。毎度こんなにいらないだろ」

ジャックがヴィルヘルムに意見すると、空気が一瞬で張り詰める。

「お嬢様も、偶には召し上がる場合があるかもしれない。ならばフットマンとして毎度用意するのは当然の事」

親子故かヴィルヘルムはジャックに対しての当たりが強い。
口調こそ丁寧であるが、刺すような視線は冷酷で無関係なを落ち着かなくさせる。

「ジャック。紅茶が入ったのだからスコーンを頂きましょう」
「ああ」

ジャックはから教わった通りにスコーンを半分に切ると、ジャムを塗りその上にクリームをのせる。
それらはすぐに口の中に消えていった。

「ジャック、クリームがついているわ。……触っても良いかしら」
「構わない」

以前ジャックに手を払われてから、は必ず確認するようになった。
事前に声を掛ければ、頭を撫でようが嫌がるそぶりは見せない。

「何か頭部に異常でも」
「いいえ。つい。あなたが弟みたいで可愛くて」
「俺はに年齢を伝えたか?」
「ただの比喩よ」

納得出来ていないジャックを見つめていると、は無意識に零した。

「……貴方たちが私についてくれて良かったわ」
「それはどの辺りが、ですか」

すかさずヴィルヘルムが尋ねた。
仕事上必要でない事には一切の興味がないように思っていた為に少し驚く。
説明する気はなかったのだが、まあ良いかとは口を開いた。

「私、生まれた時から世話係が変わっていないから、突然雇いたてのフットマンを私専属にすると聞いて不安だったの」
「執事がずっとお嬢様の担当を」
「ええ、勿論着替えや入浴はメイドが担当するわ。でも大事な事は全て執事に任せているの」
「なるほど。……そうでしたか」

軽く笑ったヴィルヘルムはそれ以上尋ねる事はなかった。
代わりにジャックがに尋ねた。

は一人で身の回りの事が出来るのに、何故人にやらせるんだ」

は返事に窮した。

「……そういう、ものだから、としか」
「ジャック。下々の人間と上流階級のお嬢様を比較する事は不敬である」

ヴィルヘルムの言葉に頷くと「そうか」とジャックは短く答えた。

「それはすまなかった」

は気にしていないと首を振りながらも、ジャックの言葉に引っかかりを覚えた。
自分が何を咀嚼出来ていないのか。整理の為に敢えて考えを口にする。

「私は家を繁栄させる為に嫁げればそれでいいから。
 見目が良く、子を産むだけの体力がある事、社交界の中で柔軟に動けるかどうかが最重要で、それ以外の事はいいのよ。要らないの」

不要と口にするとやりきれない気持ちが胸に広がっていく。
小さな痛みは連鎖して、奥底に仕舞いこんだ記憶に触れた。

「……ジャックになら言っても良いわ。ヴィルヘルムもそのままで構わない」

は小さく息を吸う。吐く。
手首を握って気持ちを鎮めた。

「私、一度誘拐されかけたの」

二人は何も言わなかった。驚くでもなく笑うでもなく。そのままは続ける。

「昔はよく外出をしていたの。貴族同士の交流以外にも、慈善活動をして少しでも安寧になればと願ってた。
 それがある日突然、所有者の判らない馬車に押し込められたの。
 よくある身代金目的だったのか、あるいは。
 この家の相続人が私だからと家名と財を目当てに結婚をするつもりだったか。
 ……幸い、あの時は自警団に見つけてもらって命は助かったけれど、それからの私は外へ行かなくなった。
 行けなくなったわ……」

淡々と話しているだけでも震えてくる身体に爪を立てた。

「出席すべきパーティーも休み続けているの。お陰で私は家名に泥を塗る厄介者と噂されている。
 お父様には多大なご迷惑をおかけしているわ。……私がもっと強ければ良かったのに」

社交界は婚姻を結ぶ相手を探す場でもある。
誘拐の事実は家名を傷つけると秘匿している事もあって、が引きこもっている事情も外の者には判らない。
貴族の責任を果たせない娘を持ったは影で笑い物にされている。
このままではは修道女になる他なく、家の歴史は途絶えてしまう

「もしもの備えとして護身術を教えて頂いてはいたけれど、実践出来なければ無意味よね」

溜息を吐いた。
今、家の中に閉じこもってばかりいるのは、自己評価を誤ったの自業自得である。
己の不甲斐なさに更に爪を立てた。

「事情は判った。なら、俺が相手をしてやる」
「え」

ジャックはテーブルを端に寄せると、身体をほぐし始めた。
やる気になっているようだが、はそんな気持ちに一切なっていない

「俺が殴りかかるから退けてみるといい」
「で、でも。危ないわ。それに自信がないの」
「大幅に加減する。絶対に当てない。声をかけてからなら良いだろ」

は了承など一切していないというのに、既にジャックは構えている。
どうして、と理不尽さを感じずにはいられなかったが、渋々ジャックの目の前に立って挙動に目を配った。
ラフなファイティングポーズを眺めるがなかなか動かない。

丁度、の気が揺らぎ息を吐き終わった時だった。
ジャックの拳が飛んできた。は短く息を呑み、師範に教わった通りに拳をいなした。
お互いの動きが止まり、は吸い忘れた息を大きく吸った。
心臓がばくはくと鳴り始めた。手を抜いたらしいジャックの動きは十分早かった。
それに人がとっさに動けなくなる息を吸うタイミングできたのは、ジャックが余程の手練れであるに違いなかった。

「基本は出来ている。基礎の基礎の基礎だ。でも駄目だ。速さがない。速さを生むだけの身体が出来ていない」

ジャックは何者なのか。そんな疑問を抱く。

「非力でも虚を突く事が出来るなら、が逃走する時間くらいは稼げるかもしれない」

それとも、あの動きはただの偶然だったのか。

「暇だろ。だったらこのまま少し身体を動かせばいい。ヴィルヘルムも、文句ないな」
「お嬢様に対する不遜な態度を改めろ。ジャック。
 ……しかし、だ。お嬢様がもう一度外へ出たいと願うのであれば……私は見なかった事に致しましょう」

疑問は尽きない。
は己が取るべき選択肢を手に取った。

「ジャック。…………お願い致します」

ジャックによる鍛錬はハードなものだった。

の身体は貧弱で話にならない。だから覚えろ。身体の動かし方を。考える前に動け」

日常会話のような淡々とした指導が一言二言あるのみ。
どれだけ時間が経ってもジャックは息を乱す事はなく、の休憩中に一人でトレーニングをしても変わらない。
一方引きこもり生活が続いているは少し身体を動かすだけでも汗を流し呼吸を乱した。

「疲れた……。ま、まさか室内でこんなに汗をかくとは思わなかったわ」
「お嬢様。入浴の準備が整っております」
「ありがとう。ジャックも。大浴場の方へは連れて行けないけれど、部屋のシャワーを使って」
「必要な、……いや、判った。借りる」

ジャックは備え付けのシャワールームへ行き、とヴィルヘルムは共に階下へ降りて浴場の方へ向かった。
着いて早々が素っ頓狂な声をあげる。

「え。故障?」

執事によると配管に何かが詰まっているようだが、かなり奥で引っかかっているようで復旧には時間がかかるとの事だった。
幸い各部屋にシャワールームがある為の家族は困らないが、使用人達は桶に水を汲んで身綺麗にする他ない。

「ヴィルヘルムとジャックは私の部屋のシャワーを利用してくれれば良いわ。
 遠慮は要らないわよ。自分のフットマンには綺麗でいてもらいたいもの」
「ご厚意に感謝致します、お嬢様」

二人はの自室へと戻った。

「どうした」

湿った髪を乱暴に拭う半裸の男からは目を逸らした。
たった数秒見ただけのジャックの身体には傷や火傷の痕が多数あった。
凄惨な人生の表れに同情心が湧いてくるが、同じくらい別の感情が胸に広がっていく。
女性とは違う逞しい身体つき、隆起した筋肉がひどく淫靡にの瞳に映る。
野性的な雰囲気にたじろぐ。

「浴場が壊れたみたいで……」
「なら丁度いい。用は済ませた。すぐに使える」
「え、ええ」

の頭には何も入ってこなかったが、ヴィルヘルムがテキパキと取り仕切る。

「お嬢様はお掛けになってお待ち下さい。少し準備をして参りますので」
「判りました」

椅子に腰かけたは限界まで顔を逸らした。
衣擦れの音がやけに煩く耳に入ってくるが、今朝読んだ本の内容を思い出して意識を逸らし続ける。
父より贈られた絵画の額縁の模様を目でなぞり、網膜に焼き付いた異性の身体を追い出していく。

、さっきの事だが明日も続けるぞ。暫く継続して身体に覚え込ませてやる」
「お、おぼ!?」
「理屈ではないからな。無意識下で動けるようにするには反復するしかない」

淑女にあるまじき事を連想するであったが、ジャックがあまりにも淡々と話す為余計に羞恥心を覚え頬を染めた。



の耳に届くジャックの低い声がやけに大きく聞こえた。
はっとして振り向くとすぐ目の前にジャックの顔があった。

「……どうした。随分赤い顔をしているぞ」

ジャックの両手がの両頬を包んだ。
小さくが声をあげると、ジャックは僅かに眉尻を下げて「」と呼んだ。

「無理をさせたか?」

は陸地に投げ飛ばされた魚の様にぱくぱくと口を開くが一向に声が出ない。
慌てるほどに身体は熱を帯び、泣きそうな顔でジャックを見つめた。

「体温も上昇している。横になった方が良い」

身体が宙に浮いた。地と離れて不安定になった身体はとっさにジャックにしがみついた。
の胸にある二つの膨らみが、逞しく固い筋肉に圧し潰されて息を呑んだ。
そんな事はおかまいなしに、ジャックはをしっかりと抱き留めてベッドへと運んでいく。
横抱きに抱き直し、ベッドへと静かに下ろした。
とくとくと鳴る胸の鼓動を手のひらに感じながら、はさっきまで自身と密着していた男を潤んだ瞳で見上げた。

「ジャック……」
「ヴィルヘルムに報告する。心配無用だ」

振り返る、その時だった。ヴィルヘルムが背後に立ったのは。

「心配なのは貴様のオツムだがな」

ジャックが即座に腕を十字に組み防御の体勢をとる中、ヴィルヘルムはの手を取った。

「お嬢様。入浴の準備が整いましたのでこちらへ」

ジャックは何かを言いかけたが、ヴィルヘルムの刺すような視線で黙り込んだ。
二人を見比べたであったが、差し出された手から威圧感を覚えたので大人しく手を取り、シャワールームへと向かった。
シャワールームには一切の水滴が無く、ひんやりとしていて誰の痕跡も残っていなかった。
細やかで丁寧な仕事ぶりにまた一つヴィルヘルムへの評価が上がる。

「ありがとう。じゃあメイドを呼んで頂戴」
「いいえ。お嬢様のお世話は私に全てお任せください」
「でも……」

入浴や着替えの世話はメイドの仕事であり、フットマンの担当ではない。

「当主様の命令です」
「判りました」

父の名前を出されてはに成す術がない。
ヴィルヘルムの手ずから一枚一枚衣類が剥がされていくのを黙って耐えるしかなかった。
さっきまで別の男を異性として見ていたは、その父親の目下に一糸纏わぬ姿を晒された事に羞恥心が抑えきれない。
男の身体に一瞬で性を感じたはしたない自分の心が、全て晒されてしまったかのように心許ない。
使用人が誰であろうと貴族は素肌を見られた所で動揺しないのが当然である。
身分の低い者は路傍の石も同じ。石に全裸を見られて動揺する人間などいないだろう。
も貴族としての教育を受けた身であり、同様である。
それなのに。それなのに。

「お嬢様?」
「なんでもないわ。でも今日は自分でするから手出ししないで」
「なりません。ジャックの世迷言は忘れて下さい」

貴族たるもの貴族であれ。
ヴィルヘルムの言葉の根底にはいつもそれがあった。
模範的発言には少しずつ違和感と拒否感が胸の内に生じているのが判った。
尊敬すべき父と同じ事を言っているだけであるというのに。

「私では不安ですか。お嬢様。フットマンとして未熟ですから」

肩を落とすヴィルヘルムには首を振った。

「いいえ。貴方は出来る事を十分やってくれているわ」
「なるほど。お嬢様は全力を出した結果であれば、全て受け入れると。そのような考え方なのですね」

シャワーの湯がの肢体を濡らしていく。
ヴィルヘルムの手がの濡れ髪を後ろへと流した。

「お嬢様も使えるものは使えばいいのです。知識であれ、見た目であれ、身体であれ」

赤い瞳が妖しく瞬いた。は世話を焼かれながら思案する。
もうフットマンに身体の世話をされる事は気にならなかった。

新しい服に袖を通し、髪型をセットされたは窓辺へと歩を進めた。
自室で唯一の外との接点。
朝の一時以外締め切っているカーテンを握りしめながらは尋ねた。

「ねえヴィルヘルム。私、お父様の役に立てるかしら。
 見初めていただけるかしら。家に繁栄をもたらす殿方に」
「ええお嬢様なら必ずや」

口をきゅっと引き締めたは振り返った。

「本当にそう思っているの? フットマンは上辺の言葉を吐くだけでは駄目なのよ」

鋭くヴィルヘルムを見据えると、恭しく頭を下げた。

「これは勉強になります。……。
 では率直に申しましょう。お嬢様の今の立ち位置では難しいでしょう。
 元々家にそこまでの価値がない」

は頷いたが胸中は穏やかではない。だが事実だった。
家はとうとう男に恵まれなかった。相続権はにある。
代々受け継いできた領地も年々痩せ衰え不作続き、近年は災害も多く多数の領民が命を失った。
この地の不幸の何もかもは神の怒りによるものだと言って逃げ出した領民も少なくない。
ヴィルヘルムの指摘は真っ当なものであり、は現実を受け入れなければならない。

「お嬢様は賢くなるべきだ」

部屋を歩き回りながら、まるで教鞭をとっているかのようにに言う。

「何も正攻法でなくても良いのです。貴女でなければならない理由を考えるのです。
 ただ見目が良ければ良い。子を産めば良い。自慢となる妻であれば良い……そんな小さな枠で考えてはなりません。
 相手にとって本当に価値のある事を見抜くのです」

ヴィルヘルムが述べた事は貴族に生まれた女の常識。
何度も何度も耳にし、の意識下に刷り込まれていった理。

「……私なら相手の事を調べられますよ。
 勿論、私の考えに賛同する必要は御座いません」

は選択を迫られていた。
ガーネットにも似た赤の双眸が嫌というほど警告してくる。
今の価値観に浸るか、リスクを承知で代々の教えと異なる道を選ぶか。

「……少し考え……いいえ……考える必要はない。
 ヴィルヘルム。貴方の主として命じます。家にとって必要なものを持つ相手を探してちょうだい。
 そして、相手の弱味や私が提供出来そうなものを調べてきて」
「承知致しました。……ジャック。私の居ぬ間にやるべき事は判っているな」
「ああ。問題ない」

ヴィルヘルムはに向かって微笑んだ後、扉の向こうに消えていった。
不在の間暫くはジャックと他愛のない話をしていたであったが、メイドが夕食を知らせに戸をノックした事でようやく違和感に気づく。

「こんなに長い間私の前からいなくなるの!? フットマンのお仕事が何か判っているわよねえ!?」

思わずジャックに対して問いただすと、ジャックはけろりと言う。

「息抜きだな」
「勤務中に!?」
「あ、いや、……違う、そうじゃない。だから……ヴィルヘルムの事は気にしなくて良い」
「主なんだから気にするに決まっているでしょ。私の為だから不問にするけれども……。
 全く、彼も執事になるにはまだまだね」

だがは口で言うほど気にしてはいなかった。
まだ会って日の浅いフットマンの事をそれなりに信用していた。
誰に連れられず一人で食堂へ向かったは当然、両親にフットマンの事を尋ねられたが私用を言いつけたと言い含めた。
納得していない両親であったが、深く追及することなく静かに食事を終えた。
各自食堂を出て好きな方向へと歩んでいく。
父は仕事、母は身体のメンテナンスを行った後に早めの就寝。
成人した娘がいるとは思えない程、の母は優れた才知と美を兼ね備えた女性だ。
人当たりが良く誰であっても話が合わせられるだけの話術と愛嬌がある。
まるで神の使いのようだと領民たちは慕い、憧れ、愛していた。
世継ぎを産めなかった女と裏では蔑まれながら。

も行く行くはそうなるだろうと思っていた。
だから男さえ産めば良い。の権威をより盤石にする為に必要な男と結婚さえすれば役目を果たせる。
────それだけを考えていたのだ、が。

「貴女のヴィルヘルムが只今戻りました。お嬢様」

自室に戻るとヴィルヘルムが恭しく頭を下げた。

「待っていたわ」

ヴィルヘルムがに数枚の紙を手渡した。
蝋燭の心許ない明かりの下で目を通していく。

「……なるほど。予想外のものを求められていたわ」

嫁に迎えたい女とは。

「領民の支持を得たい、ね。領地からの流出を防ぐため、そして世論を操作するために。
 だから平和活動や慈善事業に積極的な者、信心深い者が望ましいのね」

の領地以外でも、領民には手を焼いているのだろう。
天災が多いこともあり、人々は神々に縋る者が急増している。
だから敬虔な信徒が領主の身内にいるとそれだけ支持を集めることができる。
可能ならば神の声を聞けると良いと走り書きがあったが、流石にこれはどこの子女でも無理だろう。
は苦笑した。

「今の世に不満がある領民たちはいつ反乱を起こしてもおかしくない。
 だからそれを少しでも解消するのに使える者をお望みなのね」
「対貴族・王族ではなく、対領民の策が求められているのです」

見目や社交能力が重要視されていると思っていたは全くの見当違いだった。
ヴィルヘルムに調査を命じていなければ「誰にも相手にされなかった」と影で蔑まれてしまうところだった。
は肝を冷やした。

「需要は理解したわ。あとは外に出られるようにならないと……ね」

大きな課題がまだ残っている。

「ジャック、明日からも私を鍛えて欲しい。ヴィルヘルムは次回の社交界の参加者を調べて。
 私にとって脅威となる者、その弱味を見つけてきて頂戴。
 私の日々の世話はいいからお願い」

この夜より、は目標に向かって走り出した。
娘の変わりように現当主は驚き、時には諫めた。
「愚かな事はやめなさい」「みっともないからやめなさい」
だがは全て一蹴した。一度たりとも逆らった事ない父に声高に反論をした。
そして繰り返した。「全ては家のため」だと。

の変貌に世話係の任を解かれた執事でさえ意見した。

「お嬢様、新しいフットマンはいかがですか」
「問題ないわ。お世話になっている」

ヴィルヘルムが持ち込んだ書物を抱えながらは答えた。
すると執事は皺の入った手を口元に寄せて小声で言う。

「……旦那様の決定では御座いますが、お嬢様の一声であの者達を解雇する事は可能です。
 そもそもあの二人への待遇はおかしいとしか思えない。……旦那様は何か、やむを得ない事情が」

脅されているとでも言いたいのだろうか。
は淡々と答える。

「可能性は高いわね。……けれど、今は様子見よ。
 もしもお父様を脅しているのであれば、それこそ慎重に事を進めるべきだもの」
「承知しております。ですが根付けば駆除もまた難しくなります。ご決断はお早目に」

指摘されなくとも、あの二人が怪しいことは判っていた。
突然すぎる側付きの変更、息子同伴で転がり込むフットマンなど前代未聞。そもそも親子なのかも怪しい。
ヴィルヘルムは怪しさの塊で、ジャックの身体の傷は市井で過ごす者とはかけ離れている。
となると、スムーズにいかない会話も、常識が欠けているところも全て腑に落ちる。
だがはジャックが自分の父を暴力で操っているなどと疑いたくなかった。
そんな甘い考えではいつか足元を掬われるだろう。そうと判っていても。

自室に戻るとジャックは行く前と全く変わらない姿で床に座っており、ヴィルヘルムの方は椅子に足を組んで座り紙に目を通していた。
使用人とは思えない態度だがにとっては些末な事だ。

「ヴィルヘルム。私、次の社交界に参加するわ。さっきお父様の許可も形だけ取ったから」
「……勝算は」

ルビーのように燃える瞳がを見据える。

「ある。……貴方のお陰よ、全部」

ヴィルヘルムは小さく鼻で笑うと紙を丸机の上へと置いた。

「流石はお嬢様。そろそろと思いこちらもご用意させて頂きました」

既にヴィルヘルムはの行動の先を読んでいた。
社交界用ドレスの発注先もしっかりとリストアップしている。
ドレスはただ贅を凝らせば良いというものではない。
着た者を綺麗に見せるだけの道具ではなく、相手に裏のメッセージを送ることができるものだ。
華美な装飾は目を惹き、話題にもなるだろう。その時に言うのだ。
「これは○○で作られたものですの」と小鳥のように甘やかに語ってみせる。
判る者はその一言で、生産地、それを注文出来るだけの繋がりがある事、それが傘下に治める人や物や土地の数々を頭に巡らせる。
本当に価値あるものが有名でないことはざらにある。その筋に明るい者、見識が広い者だけが判る。
家が関係を持つべきは、そういう家だ。

「失礼。お嬢様、ダンスの腕前は」
「お相手して下さる?」
「喜んで」

ヴィルヘルムが相手ではピアノを弾ける者がいなくなってしまう。
はジャックに頼んだ。

「ピアノ弾いて貰えるかしら」
「やめろ」
「やめておいた方が良い」

二人の声が綺麗に重なり、は目を瞬かせた。

「え……じゃ、じゃあ曲はないけれど、鼻歌で良いかしら……?」
「ええ、それでお願い致します」

訳が判らぬまま、はワルツを簡単に歌いながらヴィルヘルムの手に引かれてダンスを披露した。
最近はジャックに護身術を習っていた事もあり、身体が羽のように軽く、しなやかな身体遣いが実現できた。
しかし社交界デビューを果たしていないは、自分の実力がどれほどのものかを知らない。
ここでヴィルヘルムからの判定が、初めて与えられる他者からの評価である。

「どうかしら……?」
「素晴らしい腕前です。これならば誰もがお嬢様のステップに釘付けでしょう」
「世辞はいいわ」
「とんでもありません。心からの賞賛です」

はヴィルヘルムをじっと見るが、裏も表も読むことが出来ない。

「……信じるわ」

様々な準備を整え、迎えた社交界デビュー当日。
両親からはただ一言「の名に恥じぬ振る舞いを」と伝えられた。
・ド・はそれに力強い返事を返した。
ここからは何があっても自分の責任であり、失態は家全体が被る事になる。
そして元々評判の悪いの未来は閉ざされる事になるだろう。
今夜の社交界は家にとっての背水の陣である。

「浮かない顔だ」

自室の大鏡の前で最後の確認をしていたにジャックが声を投げかけた。
鏡越しに見るジャックはいつも通りの無表情で、ヴィルヘルムは部屋内にはいない。
は少しだけ零した。

「……今日失敗するわけにはいかないから。ちょっとね」
「失敗しそうなのか」
「そうは思っていないわ。ただ……緊張はしている、かな」

失敗するとは思えないと豪語するくらい、は用意周到に準備をしてきた。
不安要素はないはずなのに、鏡の中のの頬が強張っている。

「今日のはいつも以上に綺麗だ。と思う。
 俺でさえそう思うのだから、きっと貴族の奴らも放っておかない」

突然の賞賛に対する意味を探すように鏡のジャックを見た。
いつも通り表情筋は仕事をしようともしない。
ならばとは確認した。

「ジャックから見て、私、……綺麗なの?」
「そうだ」

間髪入れずにジャックは断言する。そこには裏や表が絡み合う暇がない。
はようやく表情が和らいだ。

「ありがとう。貴方が言うならきっと大丈夫ね」

は鏡に背を向けた。

「行きましょう」

ヴィルヘルムと話した結果、ジャックは置いて行くことになっていた。
理由は単純で、貴族の世界に対して無知すぎて足を引っ張るとヴィルヘルムが却下したのだ。
適宜フォローを望めるヴィルヘルムだけが従者としてつき、あとは馬車を任せる御者を連れる事にした。

「見送りだけしてもらってもいい……?」
「ああ、そのつもりだった」

は胸を撫で下ろしながら、二人でホールへと下りて行った。馬車の準備が出来ている様子が入口を通して見えた。
もう後には引けない。引くつもりもない。必ずやを繁栄させてみせる。
が勇ましく歩いて行くと。途端にホールが一気に闇に堕ちた。一拍遅れて大量の硝子が割れる音。
驚いたが声をあげる間に誰かに抱き上げられて移動したのが判った。

! 気を張れ!!」

ジャックの怒号にはっとして闇に目が慣れないまま辺りを見回す。
すると、青白い光が一つ、宙に浮かんだ。
ぽぽぽぽとホールの壁に沿って青白い炎がいくつも現れ部屋をぼんやりと照らした。
目を凝らして見てみると、先程が立っていた場所にはシャンデリアが落ちていた。
それに続けて黒い塊が落下し、床が大きく抉れて硝子の破片を飛び散らせた。

「随分待たせてくれたものだ」

動かない塊の傍に、異形の仮面を被った者がふわりと降り立った。
目と思しき双穴から黄色の輝きが煌めく。
あれが自分の命を狙った者だと直感したはジャックの腕の中で警戒を強めた。

「ヴィルヘルム。まだいる!」
「貴様なんぞに言われるまでもない」

フットマンと同じ名を持つ異形の足元を中心に円形の陣が展開し赤白く光った。
陣の中から亡者のような黒い手がいくつも飛び出すと、蛇のようにうねり足元の塊を捉えて宙へ持ち上げた。
黒い手が塊を剥いていくと、人の顔が現れた。は驚きのあまり声を発することができない。
同じ顔をしていたからだ。
の幼少期から世話をしてくれた執事と同じ、顔を。

「ああ。やはり貴様だったか。誘拐の手引きも貴様なのだろう」

ヴィルヘルム?が片手を上げると、何十本もの黒い手が初老の執事の身体を陣の中へ引き込み始めた。
ずぶずぶと陣に飲み込まれる間、身体が軋む音がホール内を反響する。
恐怖や怒りや何かで滅茶苦茶になったが劈くような声をあげた。

「やめて! ヴィルヘルム!」
「馴れ馴れしく呼ぶな」

仮面の光がの目を突き刺すだけで身が竦んだ。
何が何だかさっぱり判らない。理解の範疇を大きく超えている。
は、自分を抱えるジャックに縋るよう見上げた。

「俺を見る間には他の敵を探せ。警戒を解くな」

冷淡な響きはを更に混乱へと突き落す。
敵とは。執事が何故。あの仮面は本当にヴィルヘルムなのか。ジャックは何故落ち着いているのか。
今のにとって、危険人物はヴィルヘルムと呼ばれた異形とジャックの方だ。
ついさっき、ホールについたその時まで一番信頼していた者達だ。
それが、どうして。

「もう良い。撤退するぞジャック。今回の契約は誘拐犯の手引きをした者の排除のみだ」

ヴィルヘルムの足元の陣が収束した。残っているのは砕けた床とシャンデリアの無残な欠片たち。
目を覆いたくなるような惨状だが、青白い炎の光を受けた破片たちがホール全体できらきらと輝いている。

「おい、それだとが」
「契約外だ」

ヴィルヘルムの仮面の目が光った。
表情が一切判らないと言うのに威圧感だけがびりびりとの身体を委縮させる。
ジャックはを抱いた腕に力を込めたが、すぐにを床に立たせた。
掠れるぐらいの小声でジャックがに伝えた。

「俺はお前を死なせない為に教えた。だから、また会いに来るからな」

が口を開くと同時にジャックは忽然と姿を消した。まるで手品のような所業。
立て続けに勃発した、理解不能の数々。思考が停止していく中、はぼんやりと目の前の異形の男を見つめた。

「私を見て何になる」

声は聞けば聞くほどヴィルヘルムである。
仮面で口元が覆われていると言うのにフットマンとして働いていた時同様にクリアに響く。
あれはヴィルヘルム。疑う余地は多分ない。
何もかも判らないが、ヴィルヘルムはを攻撃する気はないようだと察せられた。
ジャックが言う「敵」とはまた別の者で、今尚こちらの様子を伺っているのだろう。
瞳の光が不規則に強弱する事に気づけるくらいには、は現状を受け入れ始めていた。

「敵を探せとジャックが言ったからよ」
「……下らん」

失望を滲ませた声だけを残して姿形が忽然と消えた。蜃気楼のように。

!!」

息を弾ませた夫妻と使用人たちがホールに向かって走ってきている。
がそちらを向いた時だった。新たな影が飛び出したのは。
真っ直ぐにに向かってきたそれを、は踊るように躱けてひび割れた床へと押さえつけた。
ジャックから教わった通りの動きを実践する事が出来た。
駆け寄ってきた使用人たちに賊を引き渡す。

「お父様、お母さま。従者を一人私に寄こして頂けますか」
「何をするつもりだ」

は自分の手を見た。グローブは馬車の中でつけるつもりだったのが功を成した。
次に胸元から足元を見た。抱きかかえられていたお陰か破けている個所はない。
頭に軽く触れた。多少の乱れはあるが、馬車の中で直せる程度のものだ。

「予定通り社交界へと参加して参ります」





「平和とは訪れるものではなく、我々の手で作るものなのです。
 政府でも貴族でもない貴方たちこそが、神が与えた平和の担い手なのです!!
 貴方たちは神の子であり、貴族や政府を導いていくのです」

民衆の前で声高に演説するのは家からこの地の領主へと嫁いだ夫人である。
程度が、と良く思わない民衆も多かったが、数年経った今では彼女が一歩外に出るだけで歓声が上がるまでになった。
彼女と言葉を交わしたい、一目見たいと彼女の周りにはいつも民衆の壁が聳え立つ。
民衆を宥めながら馬車に乗り、馬車から微笑を振りまきながら屋敷へと帰った。
入口で列を成した使用人たちが一斉に出迎えの言葉をかける。

「お帰りなさいませ、奥様」
「ただいま戻りました。このまま休むので私の世話は不要よ」
「かしこまりました。お食事はどうなさいますか」
「頂くわ。その時には起こして」
「承知致しました」

誰も連れずに夫人は階上の自室へ入った。
何もかもを床に脱ぎ捨て、ブラウス一枚だけを着てベッドへと飛び込む。
余所者のにとって、ここだけが唯一気を抜ける場所だ。
だが今の生活を嫌と思った事はなかった。
が格上の良家に嫁いだお陰で家は安泰。
民衆に支持されるはこの家には必要不可欠で手放したくない、大事な嫁。
夫とも良好な関係が続いていて、仲睦まじい夫婦としても民衆から羨望の眼差しを受けている。

何もかも手に入れた。
それは一人の功績ではない。

社交界公開デビューの日。
誘拐されそうになったは、当然ながら貴族間で忌まわしき者として噂された。
どこからか情報が漏れたのか二度も誘拐された娘だと更に疎まれ疎外された。
しかし、暫く経つとその評価が一転。
誘拐犯が数度狙うだけの価値が、家と自身にあると世間の評価が塗り替わっていった。
無論自然にこうなったのではない。世間の流れを変えるように各所から噂を流すようが依頼した。
彼《か》の集団に。

パーティーの最中は誘拐未遂事件を知る者がいなかったのを良いことに、事前に目を付けた男たちに自身の持ちうる輝きを披露した。
元々目を惹く容姿をしていたが、男を惑わす妖艶さも仄かに覗かせれば目の肥えた者達でも無意識に生唾を呑んでしまうだけの魔性の力があった。
途中に行われたダンスでも徹底的にアピールを行ったの勝利はほぼ確定していたが、念には念を入れてその日の内に次の手を打つつもりだった。
そして、“彼”を自室で見つけた。
家が支給した黒の装いよりも漆黒の、外套に身を包んだ赤毛の男を。

「生き延びたか」
「お陰様で。ジャックには感謝しているわ」

興味はないようだった。それはも承知していた。
仮面をつけていない男には持ちかけた。

「一つ頼みたい事があります。勿論報酬はお支払いします」
「話だけは聞いてやる。報酬の方だ。貴様のような小娘が何を提供出来るか言ってみろ」
「……私、・ド・は近々嫁ぐ事でしょう。相手は」
「結論を言え」
「嫁ぎ先の家の全権、そして私自身を」
「得てもいない物を捧げられると思っているなら、貴様は身の程知らずだ」
「未来への投資よ」
「話にならん」
「……なら質問をさせて。お父様との契約内容が知りたいの」
「秘するところだが、貴様は例外だ。なにせ、貴様の全てはもう私のものだからな」
「まさかお父様が差し出したのが私自身だった。……なんて言わないわよね」
「……」

誘拐婚をさせられるくらいなら手引きした内通者に報復する。
その為に相続人を別の者にやるとは随分乱暴な手口である。
下等な新貴族あたりに家名を乗っ取られる事は、よっぽど矜持が許さなかったのであろう。
娘を蔑ろにしても成したかったのだ。

「なら余計に私の要望を聞き入れて貰うわ。私はここで終わる気はない。
 貴方だって、だからフットマンの真似事をして、小娘に一時でも仕えたんでしょう。
 私が貴方にとって使い方次第では利用価値があるものだって、ほんの少しでも見込んだのでしょう」
「……良いだろう。貴様の要求を述べろ」
「私が頼みたい事は────」

契約にあたり、ヴィルヘルムとジャックの正体を知った。
暗殺集団。……と称するが、実際は二人で、少年は一人のみである。
詳しい活動を語る事はなかったが、後ろ暗い事なら大抵引き受けるとのこと。
普段の報酬は金銭から宝飾品、美術品までなんでも良いそうだが、ヴィルヘルムはにはそれら以外の支払いを求めた。


「言われた通りリィート広場に民衆を集めたわよ。……これで良かったの?」

ベッドに寝そべったまま、は虚空に言葉を投げた。
ぼんやりと煤の様な黒い靄が部屋の中心に現れ、晴れると同時に仮面の不審者が現れる。

「十分だ」

は半身を起こして辺りを見回した。

「……ジャックは」
「奴はいない」
「そう」

起きる気を失ったはまたベッドに倒れ込んだ。

「伝達ならジャックにしてくれれば良いのに」
「ん。俺ならいるぞ」
「じゃ!?」

易々と窓から侵入してきた白髪の青年には汚い声をあげた。
今更自分がブラウスのみの淑女にあるまじき姿をしてることに気づき、ベッドシーツで身体を隠した。

「うん? は寝る所だったか。すまなかった。すぐ帰る」
「へ!? だ、駄目よ! いいから! すぐ済むから! 着替えるまで待ってて!」

ベッドから飛び降り、クローゼットから適当に一着ひっつかんで身支度を整える。
ジャックはが慌てふためいている間に、一言二言上司であるヴィルヘルムに小声で伝えた。

「ジャック! もう大丈夫! さあ座って。何もない場所だけれど。あ、でも少しだけお菓子があるわ」

が餌付け用のお菓子を数個持ってジャックの前に差し出すとぱくぱくと食べていく。
無心に食べていくジャックを恍惚とした表情では眺めた。

「ジャック。ヴィルヘルムが嫌になったらいつでも来てね。今の私なら貴方を囲むなんて容易いわ。
 夫の事なんて気にしなくて良いの。彼はビジネスパートナーでしかないし、あっちはあっちで好きにやっているから」
「貴様がジャックを扱いきれるとはとても思えんがな」
「どうかしら? やってみないと判らないわよ。試しに貸してよ。十年くらい」
「貴様の不甲斐なさを見せつける結果にしかならんだろうがな」

何もかも手に入れたが、あと一つだけ欲しいもの。
それは現在交渉中・交戦中で入手の目途は立っていない。

「美味かった。礼を言う」
「ううん。良いのよ。貴方の為に用意しているんだもの」
「報酬はヴィルヘルムが受け取っている。わざわざ俺に施す必要はない」
「好きでやっているの。気にしないでね」

嫁ぎ先で権力と人脈を得たは、実家である家をも繁栄させた。
今後も勢力拡大の為に奔走していくの戦いは続いていく。
自室以外で弛緩する事を許されない環境下で唯一の癒しがジャックだった。
彼は出会った時よりも背が伸びて、身体付きもより男性らしくなったが中身は殆ど変わっていない。
契約上ヴィルヘルムの命令は絶対だと言う割には、任務外にこっそりとの元に訪れたり、困った事はないかと気にかけてくれる。
そういう時、はいつもこう言った。

「大丈夫。貴方のお陰で今日も生き永らえている」

の心の中にはいつもあの日の出来事がある。
心が折れそうな時は「お前を死なせない為に教えた」というジャックの言葉を思い出して奮起した。

俺が護ってやる、ではない所が好ましかった。
己の力で生き抜く方法を教授する。
家名と同じく、脈々と受け継いでいくその様には好感が持てる。

ジャックの教えがの中で血肉となる。
物や言葉のように実体のないそれが確実にに伝わる。
証明したかった。
自分はジャックによって与えられた人間なんだと。
与えてもらうだけの価値が自分にはあるのだと、生存でもって立証したかった。
認めてもらいたかった。家と無関係に扱ってくれた唯一の人に。

「いつまで油を売っている。ジャック次の任務へ向かえ」
「判っている。……。また」

は心から感謝していた。
自分を外に連れ出してくれた二人に。生き方を教えてくれた二人に。

「また何かあったら言って。扇動でも足止めでも隠蔽でも。
 私はいつでも貴方達に力を貸すわ」 fin. (20/12/21)