君に触れたがる手

「ジャック」

もう。何処にいるのだろう。
少し目を離せば、すぐに居なくなる。

「帰還した」
「おかえり」

外から帰ってきたジャックは雑巾で足を拭き、そのまま風呂場へ行って綺麗に足を洗う。
何度も言ったお陰で、欠かさずするようになった。
まるで犬や猫を躾けているような気分。

「こら。食べる前には手を洗うこと」
「……了解」

食べ物に関しては意地汚いらしく、なかなか食前の手洗いは覚えない。
更にゆっくり食べるようにと毎食口を酸っぱくして言っているが、誰かに取られることを恐れているかのようにすぐさま掻きこむ。
そして、よく食べる。だからいつも料理は三人前だ。

「ごちそうさま」
「よく出来ました。美味しかった?」
の料理はいつも美味しい」

そう言うと、ジャックは手を洗う。食後の手洗いはしっかりと習慣付いている。

「さて、洗濯するから脱いでくれる?」

何の恥じらいもなく淡々とジャックは服を脱ぐ。
隠されていた肌は傷だらけで、最初は怖かったが今はもう慣れた。
何しろ本人は傷だらけの自分の身体を全然気にしていのだから。
他人の私が気にするのはおかしい。

「替えの服は部屋に置いてるから」
「了解」

部屋に帰っていく全裸のジャックを見ないように服を回収すると、私は洗濯を行う。
干す頃には家の影からちょこんとジャックが顔を見せる。
何を言うべきかは知っている。

「悪いけど、少し手伝ってくれる?」

そう言うと、ジャックは「了解」と言って私の隣で黙々と作業をする。
最初は見ていられなかったが、今では皺をしっかり伸ばすし、洋服が裏返っていれば表に返すようになった。

「上手になったね。ジャックはいい子だね」
「……俺は命令通りにしただけだ」

ジャックは俯く。どうやらこれが照れを意味する行動であると判ったのは最近のことだ。
最初は落ち込んでいるのかとか、怒っているのかと冷や冷やしたものだ。

「あと少しだね」

洗濯籠に手を伸ばす。ジャックも同時に手を伸ばしていたため、肌と肌が触れ合う。
しまったと思った。
予想した通り、ジャックは後方に大きく跳んで私と距離を取った。

「ごめんね」
「……」

ジャックはぷいっと顔を逸らすと、どこかへ駆け出していった。
注意しているつもりなのだが、先程のようにふとした時に触れ合ってしまう。
あんなに逃げる姿なんて見たくないのに。
思わず大きな溜息をついた。





ジャックと出会ったのは──いや、これには語弊があるから言い直そう。

ジャックを"拾ったのは"、村の教会でのこと。
いつものように神に祈りに行くと、祭壇の前に少年が倒れていた。
ステンドグラスを通って彩られた月明かりに照らされた、血だらけの少年に驚いた私は、
火事場の馬鹿力で少年を担ぐと、家に運び込んで治療した。
後から思えば、すぐ近くに司祭様のご自宅があるのだから、そこに助けを求めれば良かったのだが、
その時はそんな冷静な判断をすることは出来なかったのだ。

目を覚ましたジャックは手負いの獣のように私を威嚇した。
忍ばせていたナイフを取り出し、私の喉元に突きつけ、身体を弄った。
武器の類を私が所持していないことが判っても、刃物を突きつけることを止めなかった。
あの時は本当に恐怖した。

私は弱い人間であり、貴方を攻撃する気は全くないということを必死に訴え続けることで、
ようやく刃物を下ろしてもらえた。
どっと汗が噴出し恐怖に萎縮しきっていたが、ジャックの警戒を解かねばならないと思っていた私は、ジャックの空腹を心配し食事を与えた。
その行動は正解だったようで、ジャックは少しずつ警戒を解いていき、
一つ屋根の下で一緒に生活できるレベルにまで到達することが出来た。

しかし、私はジャックのことをよく知らない。
別世界から来たと本人は言っているが、私はあまり信じていない。
身体の傷を見る限り、普通の生活をしていたとは到底思えない。
戦争に駆り出された者が故郷に帰って幻覚や幻聴に苛まれたというのを聞いたことがある。
きっと、ジャックもそれだろう。
酷すぎる惨状に心が壊れ、自己防衛のためにありもしない現実を語っているのだ。
だから私も深く詮索するようなことは止め、ジャックが語る言葉を決して否定せず、
静かに耳を傾けるようにしている。
一般的な生活を問題なくおくれているのだから、私があまり気を回すことはないのだ。

二人の生活というものに少しずつ慣れてきたが、問題があるとしたら一つだけ。

同じ空間にいて刃物を突きつけられることはなくなったのだが、
肌と肌の接触を極端に嫌っており、手を伸ばすだけで未だにナイフが飛んできたり、拘束されたりするのだ。
すぐさま謝罪して止めてはくれるのだが。

やはり戦いに身を投じていた者は、元の人間生活には戻れないのだろうか。
根気よく接していけば、いつかは、普通の人間のように触れあえる時が来るのだろうか。




人間を壊してしまう戦争など、私は、大嫌いだ。

リビングの写真立ては何時までも伏せられたまま。














ちゃん!大変だよ」

夕食の準備に取り掛かっていると、村のおじさんが慌てた様子で家を訪ねてきた。

「なんです?そんなに慌てて」
「最近ちゃんところに住んでる男の子。あの子が崖に落ちちゃったんだよ」

私はさああっと背筋が冷たくなっていった。
ジャックもまた、私の元から去って逝くというのだろうか。

「しかも、助けようと俺達が手を伸ばしてもそれを嫌がるんだ」

肌の接触を嫌うジャックではあるが、まさかこんな時でも拒否するのか。

「判りました、その場所に案内して下さい」

私達は村の外れにある山に登っていき、ジャックが落ちたという崖に到着した。
大体五メートル位だろうか。村の男性陣が互いの身体を掴み、ジャックに手を伸ばしている。
だが、ジャックは首を横に振るばかり。

「ジャック!」

私の顔を見るとばつの悪そうな顔をして、また首を横に振った。

「なんで手を取らないの!死んじゃうでしょ!」
「しかし、こちらの気が抜けたところで、手を離すかもしれない」
「するわけないでしょ!」
「でも」

完全にジャックは疑っている。
普段全く話さない村の人を信用出来ないのは判るが、
同じ屋根の下で、一緒に食事を取り、同じタイミングで睡眠をとる私でさえも信用しないのか。
ジャックにも色々事情があると思って理解してきたが、だんだんと腹がたってくる。

「じゃあ、私がそっちに落ちるから!一緒に上がりましょう」
「駄目だ。の身体では危険だ」

私の身を心配する心があるなら、手くらい取りなさいよと私は叫びたかった。
口での説得は無意味であると思った私は、村の人たちが止めるのを振り払い、
ジャックの元へ飛び降りた。
地面に着地できる自信は無かった。足をくじくぐらい耐えようと思っていた。
しかし、怪我はしなかった。
あのジャックが私を受け止めたのだ。しっかりと両手で、私の身体に触れて。

「何故まで落ちる必要がある」
「ジャックが大馬鹿者だから!」

怒鳴りつつも私は驚いていた。
先程までずっと嫌々と言っていたジャック自分から私に触れたことに。

「お願いします。引き上げて下さい」

村の男性陣にお願いし、私とジャックを引き上げてもらった。
飛び降りるなんて一歩間違えたら怪我をしていたではないかと、みんなに怒られた。
私は頭を下げ、ジャックも私に習って頭を下げ続け、最終的には、無事で良かったと許してもらった。

私とジャックは自宅へ戻り、負傷するジャックの怪我の治療をした。
足を怪我していたが、それほど大きいものではなく、私はほっとした。
くるりくるりと包帯を巻いていると、ジャックがぽつりと言った。

「……すまなかった」

表情のあまり変わらないジャックだが、今回ばかりはしゅんとした顔をしていた。

「いいのよ。二人とも無事なんだから」

怒りたい気持ちもあるが、素直に反省しているのだから許すことにした。

「今日みたいな時が次もあったら、その時はちゃんと私の手を取るのよ。
 触るのも触られるのも嫌いなのは知ってるけど。私は貴方の味方のつもりだからね」
「……嫌じゃなかった」

思わず、包帯を巻く手が止まった。

が落ちてきて、抱き締めた時思ったんだ。人間とはこんなに温かいものだったのか、と」

己の手を見つめるジャック。
私は包帯を巻き終えてから言った。

「ジャック、今から私は貴方に触れるわ。少しだけ、我慢できる?」

頷いたことを確認して、私は両手でジャックの頬を包んだ。
余計な肉がないせいか、あまり柔らかくない。男性らしいなと思う。

「温かいな」
「そうよ。それが人間というものなの」
「冷え切って腐っていくものが人間だと思っていたのに」

ジャックは目を閉じた。
ようやく人間の温かさを思い出してくれたんだろうか。
私はしばらくそうしていた。
ジャックも嫌がったり、逃げたりすることはせず、大人しくしていて。

「腹が減った」

それが突然真面目な顔でそんなことを言い出すので、私は思わず噴出してしまった。
手を離して立ち上がる。

「さて、ご飯の準備を始めましょうか。ジャック、ご飯の前にすることは」
「手洗い」
「正解」

ジャックは手を洗いに行った。
今日のご飯は何にしよう。
そうだ、ジャックの好きなお肉を沢山入れてあげよう。
今日はおめでたい日だから。


私とジャックの、新たな生活が始まる日。






fin. (12/10/02)