瞼の裏の恋

「すみません。貴女のそのお綺麗な髪が僕の心に絡んでしまって」
「ふふっ、お上手ね」
「本当のことですよ、マダム」
「仕方がないわね。貴方もいらっしゃい」

自分の顔が男女共に好まれるものだと知って、僕はそれを武器に対象の懐へと滑り込む。
相手の望みを見極め、求めるものを与え、甘い言葉をかけていけば、求める情報を饒舌に話し出す。
情報を十分に引き出した後は、その人の前から姿をくらます。
追跡されないように、一つの痕跡も残さず。
そしてまた次の対象へ、甘いマスクをちらつかせて近づく。
それが僕の仕事だ。国家のための諜報活動。

仕事の性質上、流れで対象と肉体関係に発展することがある。
特に経験のない女性や、既婚で退屈な日々を送る女性は顕著だ。
対象に眠る女を呼び覚まし、恋に導けば、どんな秘密だって思うがままに引き出せる。
だが、どんな女性に恋い慕われようと、僕自身はその感情に流されたことはない。
恋、なんてしたのは、ずっと昔の話。


そう────あれは、まだ諜報部員になりたての頃だ。
失敗が多く頻繁に怒られていたが、僕は憧れの職に就けたことが嬉しくて毎日が楽しかった。
だが上司は、僕のちょっとしたミスの数々に堪忍袋の緒が切れる寸前で、
ある日、今度の仕事では絶対に成果を見せろと言ってきた。
どんな仕事だろうと、華麗に終わらせ上司が望む以上の成果を持ち帰ってやる。
そして、僕からドジという評価を早々に取り下げてもらおう。
……なんて、若い僕は完全に天狗で、今の自分に出来ないことなど一切ないと思い込んでいた。



数日後正式に僕に命じられたミッションは拍子抜けするほど簡単なものだった。
何故ならその内容が、入院している女性が目撃した情報を引き出すことであったから。
僕を馬鹿にしているのかと、上司たちに対して怒りを覚えたんだっけ。
さっさと終わらせて見返してやると意気込んで、僕はすぐに潜入を開始した。

今回の潜入による僕の設定は、胃腸疾患で入院が必要になった営業部の会社員。
色々と手を尽くして、彼女との二人部屋になるようにも手配した。
元々四人部屋だった彼女が突然二人部屋になるというのはあまりにも不自然であったが、
その辺の説明は懐柔した看護婦になんとかさせた。
こうして、今回の舞台の準備が整う。
そういえばここでも、これだけ素早く出来る自分は凄いと自画自賛したっけな。
過去の自分を思い出すと恥ずかしくてしょうがない。





「初めまして、今日からここでお世話になるエージェントと申します」
「初めまして。と申します。これからしばらく宜しくお願いします」

今回の対象であるさんの第一印象は、儚く脆い女性、であった。
パジャマの裾から覗く細い手足、シーツと同化している肌の色、痩せた顔からは、
生気が一切感じられなかったのだ。
それも彼女の事情を考えれば仕方のない話ではある。
長期入院生活を強いられている者は、完治の見通しも立たず、薬による副作用の苦痛を耐え、
世間から切り離される恐怖や孤独感を常日頃から感じているのだ。
周囲も病人ばかりであるために、輝く生に触れる機会などない。
生気が消えていっても当然だ。

病院内は刺激も少ないだろうし、距離を詰めるのは簡単であると、僕は思い、
いつも以上に力を入れて彼女の求める人間を演じた。
自分が思う完璧な演技をしたつもりであったのだが、そうではなかった。
しょっちゅう言葉を交わすような仲になってから、彼女が僕に言ったのだ。

「エージェント君は、お仕事が好きなのかな?」
「仕事は僕の生きがいですから。それが何か?」
「会ってからずっと私に、営業を行っているから。癖なのかなって」

未熟な僕は、この指摘に必要以上に焦った。このミッションが失敗するかもしれないと。
そんな僕をよそに彼女は続けた。

「ごめんなさい。でも、それがエージェント君なら、それでいいの」
さんすみません。でも、別に僕は」
「大丈夫、気にしてないよ。だって、お仕事が好きなんだもの、しょうがないわ」

お仕事とだけしか言わないが、もしかして、自分の諜報員としてのミッションがバレたのか。
僕に限ってそんなことは有り得ない。
もし仮にそうであれば、僕はもうこの仕事を首にされてしまう。
今回は上司がいつも以上にミッションの出来を評価するというのに、こんなところで躓くのか。
と、僕の頭は完全に冷静さを失い滅茶苦茶だった。

当時の僕は、想定外のことが起きると冷静さを失い何をしでかすかわからないという、
諜報員として最低な欠点があった。
その時も、やってしまったのだ。
僕としては、チェストやカーテンを挟んだ向こうの彼女の元へ行って、その考えは誤解であると伝えたかった。

しかし、慌てすぎた僕は何もないところで躓き、さんのベッドの足元の柱に頭をぶつけ、
痛みに気をとられては自分の足に躓き、反射的に掴まろうと手を伸ばすと、それが さんのパジャマで、
前開きのそれはボタンを弾けさせながら解放されていき、僕はそのまま床に顔を打ちつけた。

過去のことなのにこれだけ思いだせる自分の記憶力を誇りたい気もするが、
失態のレベルが高すぎて僕は素直にそう思えない。
恥ずかしすぎる。



「すみません!!本当に、すみませんでした!!!」

丁度よく床に落ちた僕はスムーズに土下座の形を取った。
この時の僕の頭はただただ真っ白だったと思う。
許して欲しくて必死なのではなく、自分の失態を見逃して欲しい、忘れて欲しいという気持ちで
必死に謝罪の言葉を並べていた。
そんな僕に、彼女は。

「っあははは!!こんな、ふつう、ふふ、ないよ!!ははっ、なに、こ、れっ!!」

ひーひー言いながら、枕を抱いて笑い続けていた。
普段とのあまりの差に、僕は少し我に帰って顔をあげると、
彼女は大きく息をし、必死に笑いを抑えようとするが、すぐに噴出すということを繰り返している。
そんなさんを見ていると、僕は段々と冷静さを取り戻し、笑いが収まるのを静かに待っていた。
しばらくして、呼吸を整えたさんが、弓のように口端を吊り上げる。

「これが、エージェント君の素なのね」

僕はむっとした。当然だ。
こんなひどい有様を僕の素と評するなんて、当時は耐えられなかった。

「僕は普段こんなにドジではありませんよ!たまたまですよ!」
「そうね、ごめんなさいね」

さんはいつものように口元を手で覆い隠す上品な笑いに戻ったが、肩の異常な震えが隠れていない。
これほど感情を露にし笑う彼女を見るのは、これが初めてだった。
僕は、そんなさんを半眼で見ていた。

今思えば、自分の弱みを見られたことで、心に隙が生じ、そこにさんが音もなく滑り込んできたのだろう。
そしてそれは、彼女も同様だった。




お互いこの一件により、砕けたと言うか、無遠慮になったと言うか、明らかに関係性が変化した。
会話の内容も世間話から自分の話へと深いものになる。

彼女が聞かせてくれたのは、幼少期から入院していること、昔は医者に叱られる程お転婆だったこと、
ボードゲームが強いこと、売店のお菓子を食べ過ぎて一時期酷い体重になったこと。
他にも沢山教えてくれた。例えば、恋の話とか。
だから僕も同じように、数ある恋の話を彼女に聞かせた。
すると、相手をどれだけ好きだったか、どのように恋い焦がれ、眠れない日々を過ごしたかを彼女が熱く饒舌に語り出す。
そのあまりの熱っぽさに、顔も知らない誰かを僕は羨み、嫉妬した。

「それなら、さんは異性をよくご存知なのですね」

嫌味だった。彼女は口を噤んでそっぽを向く。
ここで気づけば良かったのだろうが、さんの話は彼女の募る思いばかりで、
相手がどう答え、どんな逢瀬を果たしたという描写は一切無かった。
だが、それに気づかない当時の僕は寝ても覚めても、
さん"と恋した"(実際は間違いである)男への嫉妬が心を大きく占めることとなる。

さんに対し普通に接することが出来なくなった僕は、頭を切り替えて諜報活動に戻ることにした
世間話を装い欲しい情報を引き出す作業。
その最中、彼女は冷たい目をして言った。

「私のことが嫌になったのに、どうしてそう普通に話かけてくるの?」
「別に僕はただ、元の関係に戻ろうと」
「そんな感じはしないわ」
「じゃあどうすればいいんです」
「エージェント君が何を怒ってるか教えて。
 もしその答えが私が思ったことと同じなら、もう二度と前の関係には戻れないわ」

情報を引き出すのであれば、前の関係に戻るのが望ましい。
ならば、彼女が思いもよらぬことを言えば、良いのだろう。
諜報員としての僕はそう判断し、正直に自分の中で渦巻く暗い感情を話すことにした。
彼女の思いとは絶対に被らないだろうと想定して。

「僕のはただの嫉妬です。馬鹿げていると笑うといいですよ」
「良かったわ。貴方と同じで」

良かったとは、それほど前の関係に戻りたくないのか。
そんなに僕が嫌いなのか。
と思ってから、僕は首を傾げるのである。

「うぬぼれだったら、私恥ずかしくて死んでしまうところだったわ」
さん」
「なあに」

久しく見ていない彼女の笑顔がそこにあった。
僕がジッと見ると恥ずかしそうに目を伏せる。
その時僕は嫉妬で隠れていた自分の真実に、そしてさんの真意に、漸く気づいた。




「僕は貴女が、さんが好きです」






さんの言うとおり、僕らは元の関係には戻れなかった。
その代わり、恋人という新たなステージへと進んだ。
出会ってからまだ日が浅いと言うのに。
だが、あのロミオとジュリエットだって五日で出会いから死まで行ったのだから、別に僕らが早すぎるとは思わない。
自分でも不思議だが、彼女とはずっと前から交流していたような気分にさせられていた。
多分、二十四時間同室で過ごす数日はそんな錯覚を感じさせる程濃厚だったのだろう。
人の気持ちに時間なんて関係ないものなのだと、身を持って感じた。


思いが通じてから僕らは更に話をした。
僕は今まで自分の話は控えていたが、さんを好きな自分を自覚してからは、ついぽろぽろと話してしまった。
子供の頃から、ゲームや映画で見るスパイという存在に憧れていたことを話すと、
「きっとエージェント君なら格好いいスパイになれただろうね」と言っていた。
本当はもうなっているとは言えなかったが、さんが話す『スパイのエージェント君』は聞いてて嫌じゃなかった。
ずっと聞いていたいくらい心地のよいものだった。
今の僕が、さんの想像したスパイにはなれていないのが、残念極まりない。


チェストとカーテンを挟んだ交流が続くと、僕は段々それだけで満足できなくなくなっていた。
消灯時間が訪れ、辺りが静かになってから、僕は隣のベッドに音もなく滑り込んだ。
あの時の、さんの驚いた顔は今でも忘れられない。
確か、声をあげられないようにと、僕はさんの唇を無理やり奪ったんだ。
その時、さんの口から漏れる、耳を撫であげ甘い吐息で僕はどうしようもなく熱くなった。
まだキスだけであったというのに、あれほど身体が昂ぶったのは、後にも先にもあの時だけだ。

「っふ……」
、さんっ……」

小さく開けられた口から唾液にまみれた赤い舌が覗く。
さんの中に僕の体液が流しこまれたことを思うと、僕は異常に興奮した。
さんが、染まっていく、僕色に、僕の支配下にあるということが、嬉しかった。

「えー、じぇん、と、くん?」

小首を傾げるさんは可愛くて、それでいて肩を揺らして熱い息を漏らす姿があまりにも艶かしく僕を煽った。
キスだけじゃ満足できない。それ以上へと足を踏み入れずにはいられない。
僕はさんから香る女性らしさに完全に浮かれていた。

「いやっ」
「僕じゃ、駄目……ですか?」
「ここは病院よ。それに見回りだってあるのに」
「分かってます。でも……僕は、さんに触れたかったんです。
 何がしたいじゃないんです。貴女に近づきたい。普段の僕らはあまりに遠すぎる」

僕は服の中に手を滑らせ、女性らしいなだらかな肩を撫でた。
ぴくりと震える彼女。

「嫌なら、もっと嫌がって下さい。僕は無理強いしたいわけではありませんから」

片手でボタンを外し、肩から滑り下ろしていく手。
ゆっくりと撫でながら、胸の膨らみにたどり着く。
戸惑っているであろうさんを気遣い、そのラインを撫でるだけに止めたのを覚えている。
あの状態で、よく さんを気遣えたものだ。
それだけ、僕はさんが好きだった。

「僕の意思では止まれません。だって、貴女を心から望んでいるから」

結局、さんは僕をはねつけなかった。
見回りの足音が鳴っては、お互い声を潜ませ、動きを緩め静かに唇を貪る。
さんは始終素敵だった。
慣れない自分に戸惑い何度も中断を訴えたが、その度にどれだけ愛しいと思っているかを僕は様々な言葉で囁く。
頑なな身体と心がゆっくりと解れていくのが手に取るように分かったあの時は嬉しかった。
全てが満たされていた。

さん、大好きです」
「私も。大好きよ」

身体を重ねることで、僕はより一層さんが愛しくなっていた。
さんが初めてであると挿入時にようやく気づいた時、天にも昇るような気持ちになったのは今でも忘れられない。
それを指摘されたさんは恐々と「やっぱり嫌だった?」と尋ねてきて、それがまたいじらしかった。

「初めてが、僕でいいんですか?」

真っ赤に染まった耳を甘く噛んで、尋ねる。
さんはか細い声で囁いた。

「初めてが貴方で、幸せです」






僕らの関係は順調であった。
あまりに平和過ぎて僕はミッションを忘れかけていたくらいだ。
思い出させたのは、携帯に入った定期連絡の催促。

「すみません。ですが、情報は無事聞き終えました」
「で、なんと」
「やはりあの日は外出していました。例の場所で幽霊を見たと。
 多分、それは人間でしょうが、はっきりと見えなかったようで、
 最後までそれが人間であることを否定していました。
 加えて彼女は僕に言われるまでこの事をすっかり忘れていました」

このミッションで僕が改めて評価されることなんて、僕の中では小さなことになっていた。
電話で報告をしながら、早々に終わらせてさんの所に戻りたいと苛立っていたくらいだ。

「仕方ない。これが本当のミッションだ。その娘を始末しろ」

何を言っているんだと、僕は自分の耳を疑った。
諜報員である僕が、他人を殺せというのか。
それも愛しいあの人を。
僕は激昂し上司相手に電話口で反論した。

「どうしてです。彼女は危惧する程ではありません!
 それとも、その日見たものはそれほど見られてはならないものだったのですか!」
「国家機密だ。このミッションが達成出来なかった場合はお前も始末することになる」

最後の言葉に僕は開いた口が塞がらなかった。

「お前が真に我々の仲間になれるかを試させてもらう。期日は今夜深夜零時まで」

既に夕方。時間がない。さんを逃がせる気がしない。
二人が生還するにはどうすればいい。

廊下で立ち尽くしていると、看護婦に部屋へ戻るよう強く言われ、
さんに合わせる顔がないと思いつつもその指示に従った。

「おかえりなさい、エージェント」

駆け寄ってきたさんは、僕の頬に小さく口付ける。
いたずらっ子のように微笑む。
本当に可愛い人だ。

なのに、僕にこの人を失えと言うのか。それも自分の手で、だなんて。
そんなことは出来ない。
だが、それではここで僕の命も、夢も潰えてしまうことになる。
更に、例え僕が命を投げ出したところで、別の人間がさんを始末するだけであって、何の救いもない。


タイムリミットは深夜零時。


僕はさんに悟られないように、双方が救われる道を考えていた。
さんはというと、僕の思惑には全く気付くことなく、楽しそうに笑っていた。
死が目前だというのに、何も知らないさんは笑っている。

時間が刻々と過ぎていく。
気付けば、深夜がすぐそこまで来ていた。
僕はさんを屋上へと無理やり連れ出した。
彼女が元々大人しい性格でなかったお陰で、それ程抵抗を受けずに済んだ。

「夜の星の輝きはとても綺麗ね」
「こちらに登ってみましょう。高いところの方がきっと綺麗ですよ」





決して忘れられない、あの夜。





僕は貯水タンクの上へとさんを誘った。
さんは迷うことなく僕の手を取り、タンクの上へと登る。
タンクの上で隣り合った僕らは星を見ながら、将来を語りあった。
さんは自分の病気の薬ができるまで頑張ると言っていた。

「いつかエージェントと一緒に外へ行ってみたいわ」
「僕も、色々なところへ連れていってあげたいです」

もっともっとさんと時を過ごしたかった。
まだまだ話したいこと、したいことが沢山あった。
僕は結局自分を最後まで偽っていて、彼女と対等な位置に立っていないのに。
それに、まださんは病床に臥している状態で、恋人らしいことはろくに出来なかった。
恋人としてさんに与えたい幸せは数え切れない。
さんが元気になった姿だって見ていない。
きっと外へ連れ出せば、小さなことですぐに大はしゃぎして、僕を見ては可憐に笑ってくれたんだろうね。
僕はさんに手を差し出すと、照れた顔をしながら手を取ってくれたんだろうな。
さんの手を引いて、僕はどこへだって彼女を連れて行く。
彼女の望むものを与えていく。
そして彼女も、僕に沢山の幸せをくれるだろう。

そんな僕らは他人に羨まれるほど幸せに違いない。
だって僕らは本当にお互いのことが好きで、大切で、愛している。
そうでしょう、さん。
僕らは幸せだよね。ずっと一緒だよね。

ねぇ、さん

さん、

さん。






さん……






僕は未来のことを楽しそうに話すさんを見下ろした。
僕に習い、立ち上がろうとしたさんが、ふわりと僕から離れていく。






あの時、

僕がすぐに手を伸ばせば、さんは落ちずにすんだ。

けど、僕の頭に一瞬過ぎった。

誰かに、国家機密にさんを殺されるくらいなら、手をかけられるくらいなら、
いっそ、いっそのこと

僕が、せめて僕が手をかけてしまえば




でも、僕はこうも考えた

ここで僕がさんに手をかければ、僕への憎しみで最期が染められると。
そして、今後諜報員として動くには、殺人に関わったことはマイナスになると

ね、僕は愚かだろう
さんが今死ぬって時に、僕は自分の未来のことを考えているんだ。







そして僕は僅かに遅らせてさんに手を伸ばすが、あと数センチばかり届かない。
小さくなる身体を僕は最後まで見続ける。
恋人の顔で。

生を終える直前まで僕を見続けたさんの感情は、絶望か、喜びか、怒りか、憎しみか、安堵か。
どんな思いを抱いているのか、僕はもう知り得ない。
だって、さんは真紅の薔薇を咲かせたから。
美しい大輪を、僕に見せ付けた。



その後のことは今でも思い出せない。
同じ部署の者曰く、僕らしからぬ慎重さと手際でつつがなく処理を済ませたらしい。
実際、僕が手を下したわけではなかったので、後の処理は簡単だっただろう。
ただ僕は悲しめば良かったのだ。彼女の死を悼めばいい。

この案件により、僕は優秀な人材であると評価されることとなった。
それ以後、僕は落ち着きを手に入れ、追い詰められようと以前のようなパニックに陥ることはなくなった。
寧ろ追い詰めすぎる方が冷静沈着に動ける。
こんな性質だから大きな案件にも携われるようになり、地位も得ることとなった。
僕の人生は僕が描いたとおりになり、順風満帆だ。

ただ、僕の中に決して埋められない穴が空いてしまったけれど。

そういえば、恋はもう随分していないと言った。
だが、この罪悪感を、執着を恋と呼ぶならば、僕は永久に終わらない恋をし続けていると言えよう。




さん、貴女は永遠に僕のものだ。

そして、さん。

僕は、永遠に貴女だけのものだ。
何があろうと僕はずっと貴女に囚われ続ける。






僕は今日もターゲットの女性に愛を囁く。






「愛してますよ、(さん)──」





fin. (12/05/14)