オーディンが来た話

────神木ユグドラシル

アスガルズを支える大樹の下、我等神族や巨人族が生命を侍らせる。
それが儂、オーディンが統治する世界。

完全な世界に悪霊と呼ばれる黒き異分子が入り込んできた。
このアスガルズではラグナロクに備えてきたが、
それがまさか、別の世界から訪れた智も理もない下等種がもたらさんとするものであったとは。
神木ユグドラシルの結界を破らせたのは、ロキだとか──。
嘆かわしい。

悪霊如きを早々に抑え込めぬ我らもまた、嘆かわしい。
力こそ正義と掲げてここまでやってきた。
我等の正義が屈するのか。我等の力が及ばぬのか。
嘆かわしい。

儂が己を含めた全てを投げうって集めた智では抗するまでで、
不埒な侵入者どもを一掃する事が出来ぬとは。
嘆かわしい。

儂の治世を揺るがしたロキめに放った刺客もまた一切の音沙汰なく。
嘆かわしい。

儂の嘆きを知らぬものなどあてにならぬ。
アスガルズ界を揺るがすこの事態、やはり、主神自ら動かねばならぬのか。







「目障りだからブッ倒しただけだが……ドクシンさん、こんなんでも喜ぶんだろうか」

足元で伏した悪霊たちが塵となって消滅していく様には目もくれず、ヨルムンガンドは本殿にいる独神の事を思い浮かべた。

「いやいや……わざわざ言うなんてダセェだろ。……オレ様はドクシンさんに仕えてるわけじゃねえ、し」

その場をうろうろと忙しなく歩きながら、独神への報告を口実に顔を見に行くか、
それとも黙っておき、気づかれた時に「べっつに。大したことねえよ」と、さらっと流した方が良いか、
本気で、真面目に、悩んでいる。

「……最近、ドクシンさんの誘い全部断ってたしな。少しくらい、良いだろ……偶には」

悪霊退治の手土産があれば、堂々と本殿の敷居を跨ぐことが出来る。
ヨルムンガンドは意気揚々と海を後にした。

「(けど悪霊だけじゃつまんねえか? なんか他にやるもんねえかな)」

海産物でも渡そうかと、海を振り向いた瞬間、浜辺に音もなく現れた男に度肝を抜いた。

「げ! オーディン!!」

────遅い。
銀の毛並みが風を裂き、二頭一対の狼がヨルムンガンドの前後を位置取った。
動きを止めたヨルムンガンドのもとへ、狼の主がヨルムンガンドの眼前まで空間を渡る。
時間の事象を捻じ曲げた空間転移は、アスガルズの魔術によるものだ。

「随分と楽しそうだな。……先に言っておくが蛇の身体でなければロキを連れ戻せぬとは言わせぬぞ」

白銀の短髪に隻眼、そして手に持つのは氷の様な美しさと鋭さを兼ね備えた槍。
間違いない。アスガルズ界の主神、戦争と死の神、氷より出でし神より産まれた神の子。
巨人ユミルを殺し、氷と炎しかなかった空間に大地と空と海と命をもたらした者。

────アスガルズ界最強、主神オーディン

ヨルムンガンドは口を噤んだ。
ここにオーディンが来たのは偶然ではない。
大蛇であるヨルムンガンドに人の身体を与えたのがオーディンであり、自身の魔術の痕跡を追ったのだと推測する。

「(厄介なのはオレ様がこの身体でいる限り、オーディンに支配権がある事だ。下手な事は出来ねえ……)」

一対の狼に睨みつけられながら、ヨルムンガンドは舌を打った。

「ハッ、言い訳はしねえよ。オレ様がロキを捕らえてないのは事実だからな」
「しょせん貴様ではロキには勝てぬか。まあよい。儂がわざわざ来てやったのだ。ロキ確保も時間の問題」
「(いっそロキを差し出せば、コイツをドクシンさんに会わせずに済む、か……?)」

ヨルムンガンドとロキは休戦中であって、和解したわけではない。
独神とロキのどちらを取るか、など比べるまでもない。
だがロキを差し出せば心優しき独神が、余計な手出しをしてわざわざ首を突っ込んでいく姿がありありと目に浮かぶ。

「どうした。何を隠そうとも無駄だ。ルーンを刻めば蛇の腹なんぞ容易く裂いてやれる」

身体の制御権を握られているだけでも分が悪いというのに、オーディンには魔術とルーンがある。
不利な条件ばかりだが、せめて時間があれば良い案が思いつくかもしれない。
ヨルムンガンドは悪あがきを選択した。

「べっつにぃ。つまんねえ深読みしてんじゃねえよ」
「そうか。ではロキの居場所、行動に心当たりはあるか」
「さあな。判ってりゃとっくに丸呑みしてる」

ロキが本殿にいる事は少ない。
こちらの界でも敵を作るばかりで、本殿でジッと出来ないのだ。
だがそのお陰でオーディンと独神が鉢合わせずに済む。
こればかりはロキの悪神ぶりに感謝である。

「一応聞いてやっただけだ。ロキの居場所などレーヴァテインの力を追えば容易い」
「(しめた。これならドクシンさんに気づかれず、ロキの野郎をアスガルズに戻せる)」

アスガルズ界を崩壊させた戦犯ロキは厳重に拘束され、拷問か、それとも処刑か、どちらにせよ力を失う事だろう。
トールやフレイヤはロキ救出に向かう可能性はあるが、アスガルズ界の問題に独神を巻き込む事はないだろう。
あの二人にとっても、独神が特別な存在であり、護るべきものだからだ。
オーディンによってひっそりとロキが八百万界から消えれば、ヨルムンガンドにとっては好都合である。

「ロキを捕えたらどうするつもりだ。八百万界は」
「ロキが手に入ればこの界に用はない」

独神がオーディンに襲われる心配はない。
心から安堵したのも束の間。

「ヨルムンガンド! よるむんがんどー! いないのー。るすなのー」
「(ばっ! ドクシンさん!!?)」

大声をあげる異邦人の方角へ、二匹の大狼が身体を低くし唸り声をあげた。
オーディンもまた、声の方へと顔を向けている。

「……ヨルムンガンドとは、貴様の名ではなかったか?」
「っっっ、そうだよ! 判り切った事聞いてくんじゃねえ!!」

声を耳にしたのは向こうも同じ。ひょこひょことたどたどしい足取りで山道を抜けた独神が顔を見せた。

「いた! あら、そちらの方はお客様?」

二匹の狼、見知らぬ男、そしてヨルムンガンド。
遠目でもこの組み合わせが見えていただろう。
なのに一切怖気づく事のない胆力が、今は恨めしい。

「ばっか! なんでここにいるんだよ!」
「え。……ええー……さあ?」

独神は目を逸らした。
仕事が嫌になって「あ、そういえばヨルムンガンド最近見てない。ちょっと行って来ます」と書置きして逃げだしたのだろう。
よりにもよって何故このタイミングなのかと苦々しく思わずにはいられない。

「なんだ現地民か。ロキ捜索には関係あるまい」
「あ、やっぱり、ロキの知り合いだったのね」

のほほんと楽しそうに笑う独神の両肩をヨルムンガンドは掴んだ。

「ドクシンさん!! オマエどうしてこんなに運がねえんだよ!!!」
「え?」

警戒心ゼロの独神に言ってやりたかった。
アスガルズ界から来る奴にろくな奴はいない。近づくなと。
ヨルムンガンドもその一人だったではないかと怒鳴ってやりたかった。(詳しくは過去作のヨルムンガンド登場回)

「なるほど。貴様がドクシンか」

オーディンの確認に、独神は「はい」と朗らかに笑んだ。
堂々とし過ぎる態度に多少気を呑まれたのか、オーディンは僅かに眉を顰めた。

「儂はアスガルズ界の主神、オーディンである。
 ロキの名を口にしていたが、奴との関係はなんだ」
「友人……と言うのが一番近い表現かと思われますね」

主神と判った後でさえ気安く応えるので、ヨルムンガンドの方が気を揉む。
オーディンの方はと言うと、独神に対し警戒心を強めていた。

「ドクシンがこの地を支配していると小耳に挟んだ。
 つまり、貴様がロキを匿っているのだな」

一対の狼──ゲリとフレキの視線が独神を捉えた。
主であるオーディンは独神を敵視したのだ。
胸中で毒づきながらも、ヨルムンガンドは独神を庇うように立つ。
オーディンは嘲笑めいた笑い声を漏らした。

「なるほど……。ロキを捕らえ損ね、吉報の一つも寄こさなかった理由がそれか。
 ドクシンとは随分、懐柔する術に長けているようだ」
「(クソッ。言い返してやりてえが、それどころじゃねえ)」

オーディンとヨルムンガンドの力関係は歴然。
例え我が身を犠牲にしたところで、独神の無事を保障できない。
なのに更に二匹の狼も加わり、同時に三体を相手にしなければならないのだ。
ヨルムンガンドが必死に方策を考えていると、

「すみません。理解できていないので普通に説明して頂けますか?」

場にそぐわぬ言葉を独神は放った。
これにはオーディンもヨルムンガンドも気を削がれる。

「ではまず、ロキを求めている理由をお願いします」

自分のペースで話し始めると、オーディンは呆れかえりながらも律儀に言葉を返す。

「アスガルズ界の崩壊を防ぐにはロキが必要だからだ。
 ロキが手にしたレーヴァテイン。あれさえあれば、崩れる世界を繋ぎとめる事が出来る」

独神は子供のようにヨルムンガンドの外套を引いた。

「……ねえ、ロキってとんでもなく悪い事してない?」
「今更かよ」
「引きずってでもロキを連れてこようかしら」

独神が説得すれば万に一つは可能性があるかもしれないが。
いつまでも緊張感のないこの態度に冷や冷やとする。

「レーヴァテインが第一だが勿論、ロキ自体を必要としているのもまた肯定するがな」

ロキを引き渡せばロキの身の安全は保障されない。
それを独神は読み取ったのだろう。

「そうですか……。そのような事でしたら協力しかねますね」

協力する気だった態度は一転、きっぱりと要求を退けた。
この場でくらい嘘を吐けばいいものを……などとヨルムンガンドはつい毒づきそうになる。
しかし意外にも、オーディンは考えるそぶりを見せた。

「ふむ……ならば聞かせてもらおう。ドクシンよ。貴様が儂に協力する為の条件を述べよ」
「まずロキや八百万界の者への加虐は認めません。それさえ守って下さるのなら、そのレーヴァテイン入手には手を貸します。
 これは同じ、悪霊から界を守る者として、個人的に協力したいと思っていますので」
「判った。では、その条件を呑もう。今回はロキに手出しはせぬ、とな」
「はい。なら現時刻を持って独神はあなたに協力致します」

アスガルズ界主神オーディンと、八百万界代表の独神の間で、小さな協同関係が締結した。

「おい、ドクシンさん良いのか?」

嘘を言っている可能性だってあるだろうと、小声で言う。
しかしヨルムンガンドの心配とは裏腹に独神は晴れやかな顔をしている。

「良いの。だって、あなたたちの大事な故郷でしょ。救える術があるなら協力するのは当たり前じゃない」
「(……小恥ずかしい事よく言えるな)」
「じゃあ、レーヴァテインとロキを探しに行きましょう。
 ヨルムンガンドはこのまま私と来て。……それにオーディンも一緒に行きましょう」
「は!? おま、馬鹿だろ! 普通拠点内に敵を入れねえだろ!! 馬鹿だろ!!」

重ねて言うが、ヨルムンガンドは過去の自分の行いを承知の上で棚に上げている。(詳しくは過去作のヨルムンガンド登場回)

「他所の界から来た方を結界外に置いていくわけにはいかないでしょう?
 それに、オーディンは約束を違えるなんて事、しませんよね」

一見すると軽い確認だが、言葉に圧が見え隠れする。
約束を破るなんて狭量な方ではないですよね、と。

「ああ、ただの口約束であるが、主神オーディンとしてロキに手出しをせぬ事を誓おう」
「はい、確かに。あなたの誓いを聞かせて頂きました」

ゲリとフレキはオーディンの傍へと戻った。
張り詰めていた空気も緩和していく。

「(はあ……。ドクシンさんの考えは理解出来ねえな)」

武装をすっかり解いたオーディンを背に、独神の横に並んだ。









「長《おさ》! おかえり! でも、群れからはぐれる、だめ。怒る」
「ご、ごめん……」

マカミが背後のゲリとフレキに気づくと、双方が白い毛を逆立てた。
喉を低く鳴らし、しばし睨み合う。
各々の主が静観していると、獣たちは互いにぷいと顔を背けた。

「マカミ……どういうこと?」
「ここは独神が長。よそものにも、ちゃんと知らしめる。大事なこと」

会って早々上下関係を教え込むマカミの行動にぎょっとした独神はオーディンを伺った。

「警戒せずとも儂の命令が無ければこやつらは何もせぬ」
「じゃあ後はぼくが面倒みるよ! 任せて!」

マカミが手招くと、一対の狼は主の顔を見やる。
オーディンが顎で指すと三匹の狼は庭を駆けていった。

「ではオーディンはこちらへ」

独神が執務室へ案内していると、今度はアマツミカボシが駆け寄ってきた。
言葉を交わさずとも判る。怒っていると。目が吊り上がっている。

「貴様あんな紙切れ一つで何処をほっつき歩……」

目線が独神からオーディンへと上がっていく。

「……誰だ貴様」
「彼はアスガルズ界のオーディンよ。お客様だからね。お客様よ。お客様」

剣を抜こうとするアマツミカボシに三度の念押し。
だが柄から手が離れない。独神はオーディンの手を取った。

「私案内があるから。じゃあね。勝手に抜け出したのはごめんね」

歩幅の違いもあり、独神がどれだけ駆けようともオーディンは容易く追いついた。
執務室へ三人が入ると、独神は障子をしっかり閉めた。これで、外から中の様子は判らない。

「まずはお茶でも……と言いたいけれど、レーヴァテインを優先しましょうか」

独神はすっと顔を引き締めた。

「そもそもレーヴァテインとはどのような物ですか?」
「魔法の杖とも言われる剣だ。形状は貴様らが想像する剣と相違ないだろう」
「判りました。なら少々こちらでお待ち下さい。他の英傑に伝えるついでにお茶も用意しますので。
 ああ、ヨルムンガンドは私を手伝ってね」

ヨルムンガンドと共に部屋を出た独神は、会釈して障子を閉めた。
部屋に残されたオーディンは、小声で呪を呟くと廊下を歩く二人の会話が直接耳に響く。




「……で、どうしよう、これから」
「無策で本拠地に連れて来たのか!?」
「剣一つであなたたちのアスガルズ界が救えるって言ってるのよ! 大事に扱うなんて当然じゃない!
 ……そもそもなんでロキは渡さないんだか。
 八百万界にいるのだって、アスガルズを救う手がかりの為だったはずよ。
 なのに、やってる事がおかしくない? 問いただす為にもヘイムダルにロキの場所を聞いてくるわ」
「ならオレ様はオーディンの監視をする。ドクシンさんも部屋に戻る時は誰かと来い。
 ドクシンさんは判っちゃいねえが、オーディンの魔術はアスガルズ一だ。
 普通ならドクシンさんなんてとっくに八つ裂きにされてるんだからな」
「へえ。凄いのね」
「……オマエ本当に判ってんのか?」
「判ってるわよ。でもオーディンは多分私を討たない。
 彼の目には敵意がない。思慮深さが伺えるもの。
 それに話が通じる。今回は無血で終われると思うの」
「なんだよ……。オレ様とは違うってか」
「ふふ。怒らないでよ。そんなつもりないってば」




「(ドクシンは何も考えていない訳ではないようだ)」

供を放ったオーディンであるが、それは己の力に絶対的自信があるからに他ならない。

「(ゲリとフレキにはこの砦の偵察を命じた。報告を待つのみ。
 それまで儂はこの建物の術式を見定めねば。アスガルズの魔術とは毛色が違う術式だ。
 仕組みを解析すれば新たな知識を得る事が出来る。それに……あのロキを手懐けたドクシンの情報が欲しい)」

オーディンは床に座るという八百万界の生活文化を気持ち悪く思いながらも、不動の姿勢で辺りの術を探っていた。
ほどなくして、ヨルムンガンドが戻ってきた。

「……オーディン。何やってんだ」
「待てと言ったのはそっちだろう」
「……とにかく余計な事はすんなよな。そうすりゃレーヴァテインは確実に手に入る。ドクシンさんはそういう人だ」

ヨルムンガンドが戸に近しい所に腰を下ろした。
もしもここに入ってきた独神を狙って槍を振るったとしても、ヨルムンガンド自身を盾に独神の身は守られるだろう。

「儂はロキを諦めたわけではない」
「だろうな。だが、今は止めておけ。そうすりゃ、ここのヤツらはオマエの邪魔はしねえ」

海の中に沈んでいた大蛇ヨルムンガンドが他人を語る姿を、オーディンは見たことが無かった。

「随分入れ込んでいるようだな」
「はっ。ここのヤツらが単純なだけだ」

これ以上話す事はない。
二人の間には沈黙と、そして静かな殺意が満ちていく。




一方独神は──。

「ヘイムダル!」

本殿から少し離れた小屋を訪れると、ヘイムダルだけではなく、フレイヤとブリュンヒルデまでもがいた。

「来たね。既に私には視えていたから、二人には事情を話しておいたよ」
「ありがとう! 流石仕事が早い!」

未来視を持つヘイムダルに言葉は要らない。

「オーディンが直々に足を運んだとは言え恐れる事はない。私の目《みらい》には、笑った貴方しか視えていないからね」

唇が綺麗な笑みの形を作った。

「あのね、ヘイムダル。……レーヴァテインがあればアスガルズが救える事、それをロキが持っている事を知っていたの?」
「…………ここは、肯定しておいた方がいいかな」

薄い笑みを一切崩さない姿勢に独神は溜息を吐いた。

「……判った、深くは聞かない。とりあえず私はレーヴァテインをオーディンに渡すように動くわよ。
 それでロキの居場所が知りたいのだけれど……」
「それなら簡単だ。今頃オーディンのところだろう」
「……え?」
「ふふ。ロキとトールは、今、オーディンとの対峙の真っ最中さ」
「え!!!」
「私には独神様しか視えなくてね。これはうっかり」

扉を破る勢いで独神は飛び出していった。
くすくす笑うのはヘイムダル、……と、二人の女神。

「……貴方たち、私をつつくのはやめてもらいたいね」
「えー。だって」

にやにやと笑いながらブリュンヒルデはつんつんと身体を突いた。

「ふふ、ヘイムダルはドクシンさまを困らせるのが好きなんですわね。好きな子には意地悪したいってアレですわよね?」
「ロキ達がオーディン様と会ってマズイなら、ボクらを使って事前に阻止してたよねー。
 そうじゃないって事は、大団円が見えたんでしょー。このこのー」
「はあ。全く……。そういう訳でもないんだが、例の如く聞いてくれそうにないね」

一通り突いて満足したのか、フレイヤとブリュンヒルデは立ち上がった。

「さて、わたくしもオーディンに会いに行きましょうかね」
「じゃあ、ボクも! 挨拶しよっと」
「ブリュンヒルデ、その格好で良いのかい?」
「…………駄目じゃん!! え!!!
 今更、凛々しくてかっこよすぎるキラキライケメンボクに戻れ、って言うの!?」




さて、独神の方は──全速力で疾走中である。
普段の運動不足もあり息が上がっている。
それでも収縮するふくらはぎの痛みに負けず、執務室前の廊下までは走り切った。

「た、た、だい、ただ……はぁ……っ~、……ぜー……~~~~~」

ヒューヒューと呼吸の度に音が鳴る。顔は熟れた林檎のように真っ赤だ。

「主《あるじ》さん大丈夫か? 声出てないぞ」

トールは執務室から駆け寄るとゼコゼコと咳きこむ独神の背を撫でてやった。

「ゴシュジン! なんでこんなヤツ入れたんだよ。さっさと八百万界から追い出しちまえ」

廊下へ近づいてきた諸悪の元凶の足首を、独神はがしっと掴んだ。

「れ、れーば、ていん……」
「は? レーヴァテインだと」
「オーディン、いった。レーヴァテインひつよう。アスガルズかいのさいけんに。だから」

ロキはにやりと笑った。

「ふうん。そういう事か。残念だったな。おれは持ってないぜ」
「ロキ! 貴様!」

オーディンは立ち上がり、手にはグングニルを携えた。

「慌てんなよ。レーヴァテインは"ドクシン"が持ってるぜ。
 じゃっあなー。精々頑張ってみな」

独神の手を払い、ロキは軽やかに逃げ出す。

「おい、ロキ! 主さん、俺はあいつを連れ戻してくる」
「……いい」

首を振った独神は、靴を揃え廊下から上がった。
グングニルを下げたオーディンは、ロキが行った先をじっと見据えている。

「……あなたは先程のロキの発言を信じますか」

独神は尋ねた。

「信ずるに値しないな。なにせロキだ。ただ、手元にはない可能性は確かにある。儂の探査魔術に反応が無い」

ロキの言葉を鵜呑みにし、独神に襲い掛かる事はない事に独神は一先ず安堵した。

「ロキが所持していないのであれば、人を使い直ちに探します。……すぐにお渡し出来ず申し訳御座いません」
「いや。すぐに取り戻せるとは思っていなかった故予定は変わらぬ」
「でしたら、レーヴァテインが入手出来るまでここに滞在なさって下さい」

独神の提案にオーディンとヨルムンガンドは渋った。

「……ドクシンよ。儂がアスガルズ界の主神である事は確かに伝えたはず。
 なのに何故そうまで尽くせる? 懐柔のつもりなら無意味であるぞ」

独神は首を振った。

「ここ八百万界も現在悪霊による侵攻が日夜問わず続いております。
 私の使命はこの八百万界と民を守る事。使命が私の存在意義。
 ……私は、界の為ならなんでもします」
「それがアスガルズ界の救済と何の関係がある。八百万界に何の益もないではないか」

得体のしれない物を見る目を向けると、独神はおかしそうに笑った。

「確かに直接の関係はないですよ。でも、同じく悪霊と交戦するアスガルズ界を他人事とは思えないのです。
 ……だから、アスガルズ界が先に救われれば、私の心も慰められるものです」
「それだけか」
「はい。……正直にお答えしたにも関わらず、理解に苦しんでいらっしゃるようですね」
「当然だ。貴様の思考は無駄しかない」

批判の言葉を受けても、独神は笑うばかり。

「無駄ばかり、回り道ばかりをしています。でも、それでいいのです」

子供のようにころころと笑う独神に、とうとうオーディンは黙った。
トールやヨルムンガンドは憐れみにも似た思いで、己の主神の苦悩を感じていた。
二人も昔は、独神の理解不能な思考と行動に随分悩まされたものだ。

「主さま! 見回り終わったよー!」

と、庭先からビシャモンテンが手を振り、廊下まで駆け寄ってきた。
独神と向かい合うオーディンに目が行く。

「お客様? なんだかフレイヤたちみたいね」
「そうアスガルズ界の神様、オーディンよ。お客様だから何かあれば手を貸してね」
「はいはーい。ヨルムンガンドも判った? お客様は大切にするのよ」
「うるせえな……。つか、オレ様もそのアスガルズ界から来た”オキャクサマ”なんだが?」
「あ、忘れてた。あははっ。だってわたしたち仲間なんだもの」

詳しい報告の後、来た時同様ぶんぶんと手を振りながらどこかへと走っていった。

「……さて、私もそろそろ仕事再開しないと。ヨルムンガンド、オーディンの事任せていい?」
「断る。オレ様は海に帰るぜ」

机に向かっていた独神は「ん?」と動きを止めた。

「……待って。ちょっと待って。……お客様を放っておくってどういう事? 同郷でしょ?」
「オレ様には関係ねえ。他のヤツに頼め」
「そんな事言わずに。ね?」
「やなこった」

外套を翻し、ヨルムンガンドもまた思うままに部屋を出て行った。
その背を唖然と見ていると、トールが吹きだした。

「ははっ。しょうがねえな。主さん俺に任せな」
「じゃあお願い! あと、オーディンにもお願いです。
 ここでは誰かと刃を交えないで下さい。
 それさえ守られるのであれば、ご自由に探索して下さって構いませんので」
「判った。戦闘はすまい。……だが、降りかかる火の粉は当然払う。先に剣を抜かれれば儂は容赦はせぬ」
「……判りました」

トールがオーディンを部屋から連れ出す際、独神に向かってニカッと笑顔を向けた。
独神はそれに微笑んで手を振って、二人を送る。
戦神トールが素直に独神に従う様子を、オーディンはじっと見ていた。





────時は流れ、一週間後。


「ドクシン。何故兵を出さぬのだ。疲弊しているのはあちらも同じ。押して最後まで倒れなかった方の勝利ではないか」
「耳が痛いですね。しかし、悪霊との戦いは長期に渡るのですよ。こんなところで消耗するわけには行きません」
「それでも、今は出陣すべきだ」
「いいえ! 出しません!!」

英傑を交えての作戦会議で、オーディンと独神はやいやいと言い合っている。
アスガルズ界の主神の訪れに本殿内はどよめいたが、独神の意向に従い滞在を受け入れた。
表面上は小競り合いもなく、会えば声をかける程度には馴染み始めていた。
英傑たちが来訪者《ガイコクジン》慣れしているのもあるが、オーディンが穏やかに振舞い、武器を手にしない事も大きい。
心の内はどうあれ、丸腰の相手に襲い掛かるような卑怯な者はいなかった。

問題はアスガルズ界の面々の方だ。
ロキの問題は未解決。
アスガルズ界が崩壊している最中に八百万界に居ついた刺客たちは、その後ろめたさから堂々とオーディンの前に立つことが躊躇われた。

今日も三人固まって、独神とオーディンの様子を物陰から伺う。

「あらまあ、オーディンも随分とドクシンさまと仲良くなりましたのね」
「うげー。じゃあ、ボクの新しい服団長サンにいつまで経っても見せに行けないんだけどー」
「ははっ、あれは面白かったぞ。昔のお前の事すっかり忘れてんだもんな」
「トール、笑わないでよね! ボクだって今更騎士の振る舞いなんてむずむずして落ち着かないんだから!」

ブリュンヒルデは未だ”カワイイボク”をオーディンに見せられずにいた。
誉れ高き騎士としての立ち振る舞いは英傑達には馴染みがなく、表でも影でも笑われている。
だがひっそりと、騎士ブリュンヒルデに好意的な黄色い声もあり……。

「で、レーヴァテインの情報は? 俺は収穫ナシ」
「ボクもナシ。皆が悪霊ついでに手伝ってくれてるんだけど……」
「わたくしも本殿内を探し回りましたが、見つかっていませんわ」
「ヘイムダルはまだロキを追ってるけど、なかなか苦労してるみたいだな」

耳が良いヘイムダルは、どれだけロキが離れていようとその声を聞き取る事が出来る。
狡猾なロキの追手に適任だと、自ら率先して捜索している。

「ロキだって相手がヘイムダルって判ってるから対策が万全なんじゃない?
 元々ヘイムダルの事はいけ好かない言ってたわけだし」

ヨルムンガンドに続き、ヘイムダルともロキは不仲である。
その事もあってヘイムダルは本殿に住まず、少し離れた場所に建てた小屋に生活しているのだ。
本殿が煩いのも理由ではあるが。

「だがロキだってヘイムダルを掻い潜るのもそろそろ限界だろう。
 それでさ、……レーヴァテインが見つかったら……俺たち、どうする?」

ぱちっと目を瞬かせた二人は、更に顔を見合わせた。

「まあ……いつかは帰るって思ってるよ。八百万界の事は好きだけど、ボクの世界はあっちだし。
 ……ボクを慕ってくれた部下たちも置いてきたままだからね」
「わたくしは愛がある所ならどこへでも参りますわ。ただ、今はまだここに求める愛がありますので」
「……俺も、まだやり残したことがある」
「ふうん……」

ブリュンヒルデは重々しい表情を浮かべるトールを見ていた。

「多分、ヨルムンガンドもあっちに帰らないかもね。
 ボクは向こうでは会ったことも無かったよ。ここに来てからだよ、あんなに顔見るの」

誰一人として、早く帰りたいと言わない。
アスガルズの者として情けない限りである。

「……オーディン様、何考えているんだろう」

一向に戻ってこない神々を追ってやってきたオーディン。
連絡を寄こさない、任務失敗の叱責もない。

視線の先には、作戦会議が終了したにも関わらず議論を続けている独神とオーディンがいた。
とことん言い合う姿は随分楽しそうに三人の目に映る。









────そして、オーディンが本殿に来てから三ヵ月が経過した。


「ドクシン殿。見回りが終わったぞ」
「なに。また休まなかったのか。統べる存在とはいえドクシン殿は身体が弱いのだから無理は禁物だ」
「ドクシン殿! 供なく出歩いてはならぬと言いつけておったであろう!
「ああ、見回り中に貢物をな。……ドクシン殿もどうだ? なに二人分くらいはある。他の者には口外してはならぬぞ」




「ちょっと!!!! オーディン様順応するの早すぎない!?」

ふりふりスカートを揺らしながらブリュンヒルデは叫んだ。
最初こそ”オトメ”ブリュンヒルデはオーディンに引かれたが、二度三度見るとすっかり慣れたようで依然と変わらぬ態度に戻った。
しかしそれはそれで負けた気がして、ブリュンヒルデは平素よりも可愛い服装に力を入れている。

「オーディンがあんなに穏やかになるとはな。さっすが主さんだ」

トールはうんうんと頷く。

「そこは良いけど、団長サンに近すぎない!?」
「あらあら。オーディンもドクシンさまに愛です? 愛ですの?」

フレイヤはいつもと変わらず、愛を歌い、愛を愛する。

「とうとうオーディンさえ手籠めにするとは。さすがだね、独神様は」
「ヘイムダル、ロキは良いのか?」
「おや、私には休憩も許されないのかい? 貴方たちは油を売るばかりなのに」

ロキの捜索は今でも続いている。だがヘイムダルの報告はいつも「今日も駄目だったよ」だ。
最初こそ手を貸していた英傑たちであったが、あまりの進展の無さに段々と飽きが生じてきた。
それに主神オーディンが本殿に馴染みすぎて客人として扱われなくなった事、オーディンの口からロキやレーヴァテインの話題があまり出ない事から、火急の用ではないように感じられ、進んで協力する程の熱意はなくなってしまったのだ。

「儂が給仕をする事になろうとはな」
「だから、私がしますと言っていましたのに」
「嫌とは言っていない。ただ……驚いているだけだ。そんな自分に」

最近のオーディンと独神とのやり取りを眺めていると、トールはじわじわと真顔になっていく。

「……なんか、むずむずするな。ミョルニルが震えてくる」
「ちょっと静電気やめてよ。折角の髪型が乱れるじゃん」
「あ、悪い」

赤に染まりつつあった瞳が少しずつ金糸雀の色へと戻っていく。

「あっ! ……いたた……。い、いえ、大丈夫ですよ」
「何を躊躇う。向こうではこういう時、身を委ねてエスコートされるものだぞ」

差し出されたオーディンの手を取る独神がいた。

「……」
「ちょっと雷! 静電気どころじゃないんだけど!」
「……そうか」
「気持ちは判るけど、落ち着きなって!」
「ふふふっ、わたくしもドクシンさまに手を取って頂きたいですわ」

今いるオーディンは、アスガルズ界にいた頃の主神オーディンとはまるで違う。
それを見る度、神々はもやもやとした得も言われぬ感情が胸を占める。
八百万界の心地よさはそれぞれが身をもって知っている。
だがオーディンまでもが八百万界に染まっていく姿を見ると、何故だかあまり嬉しいとは思えなかった。

「おい! あれおまえたちの頭だろ!! さっさと連れ帰れ!
 最近頭とちけーんだよ!!! 調子乗ってんだろあいつ!!」

客人の立場で独神の隣を堂々と陣取るオーディンを気に入らない英傑は多い。
シュテンドウジのように直接苦情を言う者もいれば、アマツミカボシのように視線で言う者もいる。

新たな来訪者は、仲間ではない。
ただの客人だ。だが、仲間の様な働きをする。
独神を慕うような顔を見せる。でも従っているわけではない。

中途半端な位置のままで、本殿に居座る異界の神は、英傑達の心もざわつかせ続けている。









「外が騒がしいな」
「……大変申し訳御座いません」

独神は英傑たちの粗相をほぼ全て把握しており、その度に深く謝罪していた。
オーディンが外で悪霊を倒しに行った時などの隙間時間に、何人も直訴しに来る英傑もいた。
ハシヒメには呪わぬように頼み、フウマコタロウには闇討ちの中止を頼み、フツヌシには怪しげな薬品を混入させないよう頼み、
マサカドには切らぬよう頼み、オダノブナガには自城に帰ってもらったりと、他にも色々と動いている。

「いや。それだけドクシン殿を気にかけているのだろう。
 主従ではないとドクシン殿は言うが、ここにいる者の誰もが絶対の忠誠を誓っている」

そう言ったオーディンは、物陰で毎日こそこそと話しているアスガルズの面々を一瞥した。

「……。ドクシン殿、界を統一するにあたって何を重要視する?」
「相互扶助です。どれだけ強大な力を持つ者でも、一人では生きられないものですから」
「儂の魔術ならば、身の回りの事であれ、世界の監視であれ、外敵の駆除であれ何でも出来るが?」

一人で生きる事は可能だと言うオーディンに対して、独神は微笑んだ。

「あなたが望む知識だって、元はと言えばあなた以外が産み出したものだったものでしょう?
 ……あと単純に、一人より二人の方が楽しいですよ。
 こうやってあなたとお話し出来るのも、自分以外の生命が共通する言語を用いているからこそ」
「……そう言われては否定しづらいな」

オーディンは穏やかに笑ったが、すぐさま顔を引き締める。

「しかしだ。環境に適応できぬ弱者が淘汰される事こそが正しいという儂の主張は曲げぬぞ」
「弱者が淘汰される世界は、八百万界も同じ。
 淘汰されるからこそ、生命は進歩出来た。知識や生を引き継ぐ手段が産まれた。
 それは一血卍傑の秘術にも通ずる理」

独神は全面的に同意する。

「例え話ですが、弱者の中にあなたのお好きな詩人だっている事でしょう。
 加護が偶々受け取れなかった運の悪い詩人の中には素晴らしき才を持った者もいた事でしょう。
 そういう方を失う事についてどう思われますか?」
「掬い上げられなかった不運は、本人の運命力の低さの証明。
 生命としての強者は運も兼ね備える。そうでなくては、世界で生きていけぬ。
 それさえ救おうとするドクシン殿の考えこそ、理への反逆では?」
「ふふ、そうかもしれませんね」

独神は反逆の言葉を否定しなかった。

「私は周囲に持ち上げられるような成人君主では御座いません。
 八百万界の自然律より、己の望みを優先するだけの、ただの、傲慢な民の一人です」
「つまり、貴様は界をまとめる義務などないのでやりたいようにやるだけ。と」

肯定すると、オーディンは深く息を吐いた。

「儂が掲げる『力こそ正義』とは単純明快であり、生物の本能とも等しいものなり。
 つまり言葉を解せぬ者でも判る理で、だからこそ正しいのだ」

世界の土台を創り上げた神は、年若き統治者の目を見つめる。

「八百万界は、……ドクシン殿が目指す理想は悔しいが心地が良い。
 なればこそ、ドクシン殿が表舞台から消えた後の界は興味深い」

自らは統治者ではないと否定する独神であったが、今の八百万界は独神という個によって動かされている。
この世界は統治者を得てしまった。
たった一人の者によって左右される脆さを抱えてしまったのだ。

「ドクシン殿のやり方がどのような結果を界にもたらすか。
 儂はその結末を見届けたい。出来れば、ドクシン殿の傍で」
「それは構わないのですが……。アスガルズ界は……?」

主神不在の界。悪霊の侵攻が続く世界。

「侮るでない。当然アスガルズ界の事は考えておる」
「これは差し出がましい事を申し訳御座いません」
「ドクシン殿になら構わぬ。なにせ、同じ界を束ねる者同士。遠慮はいらぬ。
 困った事があれば何でも話すと良い。ドクシン殿の苦労は儂が一番理解できるであろうからな」
「お心遣い感謝致します」

床に手を付き、腰を折ろうとする独神を制止した。

「それと、儂らは対等なのだからその遜った態度はもうやめぬか」
「……ありがと、オーディン」









「……こんばんは」

酒盛りでドンチャン騒ぎの本殿であっても、ゴシュジンの傍にいると音が消えてなくなるように思えた。

「お風呂まだなら入ってきたら?」

久しく聞いていなかった声が、馬鹿みたいに身に染みる。
こんな所帯染みたどうでもいい言葉に、やけに安堵してしまう。

「……部屋、来る?」

フードを目深に被った無言のおれを、ゴシュジンはいつものように迎え入れた。

「悪戯が不発だったの? そ、それとももう既に発動していて、私が気づいていないだけ……?」
「さあな」

風呂上がりのゴシュジンは湿った髪が黒々と艶めいていて、火照った肌から色香が漂う。
そんな恰好でひとを部屋に引き入れるかフツー。
……ところがゴシュジンにとっては普通なのである。
鈍感馬鹿なのもあるが、心配性の英傑どもが無許可で各々の術をゴシュジンの自室に施しているので、この部屋そのものが実は安全な場所だったりするのだ。
おれも部屋を改造した中の一人あるが、それは置いておく。

「ゴシュジン、透けてるぜ」
「なっ!? どこが!?」

寝着を纏った自身を抱く。

「って、そんなわけないじゃない! 二重に着てるのに」
「んなの当然だろ」

おれの悪ふざけにものってくる。
元気そうで、いつもと変わらない。
そりゃあそうだ。
変化を迫られているのは周囲にいるおれたちアスガルズの面々だけだからな。

ああそうだ。その通り。
このおれだって、ゴシュジンのせいで今後の事を考えさせられている。

そもそも、判ってんのか?
このおれが、独神でも、ドクシンさんでもなく、”ゴシュジン”って呼んでる意味を。
御主人、だぞ。八百万界の言葉でそれがどう意味を持つか、おれよりも判ってんだろうが。

睨みつけてみても、ゴシュジンはただおれを見つめているだけ。

「ゴシュジンはもっとおれをありがたく思うべきだろ。
 このおれを振り回す事を認めてやってんだから。
 その分もうちょっと、こう……なんか……あるだろ」

目を丸くしたゴシュジンはおれの背に手を伸ばして、その胸に引き寄せた。
石鹸の匂いが鼻をくすぐる。同じ風呂を使っているが各々持ちこんでいる物が違うので、嗅ぎなれない香りが新鮮だ。

「……あなたって、時に爆弾投げてくるよね」

わざとしてんだから、当然だろ。
負けん気の強い言葉は思うだけで口から出てこなかった。
ゴシュジンはそっと溜息をついておれを剥がす。

「……は? これで終わり? ガキでももっとマシな事するぜ?」
「なら私は子供未満なんでしょうね」

その姑息さはガキなんかにねえよ。
毎回妙に期待させる線引きしやがって。ドヘタクソ。

「ゴシュジン」
「なに?」
「アスガルズ界の事、どう思う」
「……そうね。よく判らない、かな。見た事もないし。でもきっと素敵な所なんでしょうね」

おまえはそうやって、よく知りもしない界の事なのに、
おれたちがいる世界だからと言って褒めるんだ。

「おまえにとって大事な事はなんだ」
「八百万界から悪霊を退ける事」

いつもの言葉を口にするゴシュジンに迷いはない。

「……あー、その頭の固さ最高だな。今日のところは」

独神は八百万界救済の要。本人も自覚がある。
だから、ゴシュジンは八百万界を優先するだろう。おれたちの故郷よりも。

「ゴシュジンはそうやって、いつでも真面目に悪霊退治してな。
 おまえが他所《アスガルズ界》に気を取られるようなら、悪神がさらっちまうぜ」

オーディンの馬鹿が何を企んでいるかは知らないが、ゴシュジンが呑み込まれる事はないだろう。
ゴシュジンの心はここにあって、そんなゴシュジンを守る馬鹿がここには沢山いる。

「そうだ。このおれがやる気の出る甘い言葉でも囁いてやるよ。耳貸せ」

さっきおれを抱き寄せたくせに、おれから行くと途端に後退っていく身勝手なヤツ。

「ほら、赤くなって逃げんじゃねえって」

腕を掴んで引き寄せてしまえば、所詮華奢な身体。おれの思うままに捕らえる事が出来る。
身を捩って抵抗するところを押さえつけて、髪をかき上げて囁く。

「ヘイムダルとオーディン。目的が判るまで気を許すな」

ぴくりと一瞬震えたゴシュジンはおれをまじまじと見つめた。

「刺激的だったろ?」

間抜け面を晒していたゴシュジンはみるみると不敵に笑った。

「癖になりそうだわ。けれど、今度は私からするから、大人しく待っていてよね」
「ま、おれが飽きるまでは待ってやるよ。天井の鼠どもはずっと待ってんだろうけど」

おれが味方である事、他にも味方がいる事を匂わせた。
後はゴシュジンが何らかの形で方針を伝える事だろう。

直接会って判った事がある。
ゴシュジンは自分に監視がついている事を判っていた。
いつもなら軽々しく呼ぶおれの名を一度も口にしなかった。

どこまで知っていて、何を考えているかは相変わらず判らないまま。





そもそも、ヘイムダルと英傑から逃げ回っていたおれにゴシュジンの異変を教えたのはゴエモンだった。

「オマエも盗人の才能があるたぁ……へへっ、八百万界一の大泥棒のオレ様としちゃ気になるんでね」

どうでもいい事を勝手に喋って、迫ってきた。

「レーヴァテインだっけか? 見せてみろって。その間、オレ様が盗んだ絵巻物でも見せてやる」
「レーヴァテインは持ってねえよ。つか、近えよ」
「ならオレ様の凄さを理解するためにこいつを見ろ。そして思う存分賞賛しろ」
「うっぜえな」

無理やり押し付けられた巻物を破ろうとすると、中には絵ではなく文字が書かれていた。


『独神は何も語らない。
 誰にも。
 どれだけ乞うても。
 話せない理由がある。
 あの隻眼の神には何がある。
 事情を知るならお前が動け。
 怪しんでいる英傑は、お前を助けるだろう』


「どうだ? 感動的で声も出ねえだろ?」

茶番の理由は簡単だ。ヘイムダルの耳を恐れている。
さすがは元忍び。対策は万全。だとすると、忍のヤツらは事情を知っているのだろう。
あとは限定的であるが未来視が出来るクダン、占いが出来る陰陽師とナリカマ、心を読めるサトリあたり。
他にも勘のいいヤツは判っていそうだが、特定は出来ない。当てにするべきじゃない。

「はっ、こんなもんかよ。だったらおれがもっとすげぇもん見せてやるぜ」

多分、おれ以外も察している。
何故、レーヴァテインの追手がこんなに手薄なのか。
何故、オーディンがおれを討たないのか。
何故、ヘイムダルがいつまでたっても、おれを捕まえないのか。

ヘイムダルは前からいけ好かないやつで、何を考えてるのかわかりゃしない。
オーディンは目的のおれを放っておいて、何をやっている。
二人とも怪しい。もしかしたら、二人は結託しているのかもしれない。

トールが一度も来ない事も気になった。
お節介なあいつは、必ずおれのところへ来てミョルニルで諭しに来るのが常だ。
来ないのであれば必ず意味がある。トールは馬鹿だが、勘が働く。
ゴシュジンから離れないなら、それこそ意味あっての事だ。

本殿の様子は耳に入ってこないが、なんとなく状況が判ってくる。
多分だが、レーヴァテインがオーディンの手に戻らない方が都合が良いんだろ。

おれとしてもそうだ。
レーヴァテインがオーディンの手に戻り、アスガルズ界が元に戻るならおれはここにいる理由を失う。
ゴシュジンの為にここにいてやっている、なんて死んでも言いたくない。
おれの意思とは無関係にここにいる。そんな理由の為にもあの剣はおれには必要だ。

ゴエモンには身振り手振りで伝えた。おれが戻る日、時間を。
そうしたらその日、ヘイムダル対策なのか酒宴が開かれていて英傑の多くが馬鹿騒ぎをしていた。
だからおれは誰にも気づかれずゴシュジンの下へ行けたのだ。

これからはしれっと本殿にいればいい。
いたところで、オーディンはおれに何もしてこないだろう。
もし動きがあれば、馬鹿の一つ覚えでレーヴァテインはないと言えば良いだけだ。
問い詰めても無駄だと笑ってやればいい。
本当にないのだから。

レーヴァテインはゴシュジンが持っている。
その言葉に嘘はない。
だが、ゴシュジンはそれを知らない。
ゴシュジンの部屋におれが勝手に置いていったからな。