ある日の夜の話


 
 明日すべき執務の確認は済んだ。
 髪や肌の手入れも念入りに行った。
 いつも通りの入眠儀式を終えた私は蒲団の中に入った。
 日々の中に残っていた暑さも次第に消え入り、蒲団の温かさが心地よく眠気を誘う
 ……はず、なのだ。
 それが足先の蒲団の感触が気になり、外の虫の声が気になり、明日の執務が気になり、眼球は瞼を押し上げようと躍起になっていた。
 このまま蒲団の中にいると気が滅入ってしまう。
 私は寝着のまま部屋を出た。外廊下を歩くとぬるい空気が肌に絡みつく。
 明日は雨なのだろう。湿った匂いがする。
 そのせいで寝苦しかったのかもしれない。
 ぼんやりと気ままに歩いていた私は、ふと足を止めた。
 部屋の中にはまだ明かりがついている。
 私は「ねえ」と声をかけた。思いのほか掠れてしまったが、聞こえなかったのならそれでいい。
 踵を返そうと身体をひねった時だった。障子が開いたのは。

「……聞き違えかと逡巡したぞ」

 ともかく入るようにと促され、私はヌラリヒョンの部屋に入った。
 蒲団が敷かれている。寝るところだったのだろう。

「茶でも淹れようか。其方はそこに座」

 行ってしまう背中に抱きつくと、回した手を撫でられた。

「立ったままでは辛かろう」

 私が離れると、ヌラリヒョンは敷布団の上に座って膝を叩いた。私が腰を下ろすと腹部に手を回し、頭を撫でてくれる。

「何かあったか」

 私は首を振った。ただなんとなく人肌が恋しくなってここに来ただけだ。
 ヌラリヒョンはそれ以上何も言わずに私の頭を撫でた。それが時折耳になり、頬になり。ぐるぐると巡回した。
 穏やかな指先が私の中にあった言葉にならない淀みを消してくれる。
 少し顔を上げると、ヌラリヒョンの顔があって、たったそれだけのことでほっとする。
 腕の中という小さな空間は私にとっての浄土
 ……とは少し異なるか。
 浄土には穢れもなければ、煩悩もないのだから。
 撫でられているうちに小さな欲だって産まれないはずだ。
 耳たぶを撫でられた時には、少し首を曲げて首筋に指がかかるように。
 頭を撫でられた時には、頬を寄せて擦って身体を押し付けるように。
 頬を撫でられた時には、その指に噛み付くように。
 私は身体で訴える。

 すると次第に指が首から下って行った。
 肩を撫でた。腰を撫でた。足を撫でた。
 背筋に熱が抜けていき、胸の鼓動が次第に速くなる。

「ここで終いにするか?」

 ここでやめることも多々ある。
 明日忙しいとか。朝が早いとか。そんな些細なことであっさりと。
 私は明日の予定を思い出す。人と会うのは午後だ。午前中は部屋の中の作業のみ。

「朝まで帰らない」

 そう言い切るとヌラリヒョンはおかしそうに笑った。
 だが私は知っている。声に出して笑った後の、冷静な顔の時の方が嬉しそうにしている事。
 心から笑う時こそ、声には出さない事。

「ならば明かりを消してくる」

 子供を宥めるように私の頭をぽんぽんと撫でて、行燈の火を始末しに行った。
 普段通りの表情をしながらも頬がぴくりと動いている。
 このひとも嬉しいんだ。私だけじゃなくて。

 私はヌラリヒョンの蒲団に大の字になって寝転びながら、今日は可愛く恥ずかしがってみせるか、積極的に迫るかを考えていた。


(20210926)
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【あとがき】

 笑ったから笑っているわけではない。
 相槌感覚で笑う。自分に心を許すように誘導している。