アマツミカボシと過ごすxx日-5-


今日もまた、平和とは程遠い一日だ。
日が昇る前に悪霊が動き出したので討伐隊を派遣。
朝日が照らし出した頃には、都の方で暴れる妖族がいるとの連絡が来たので派遣。
そして今は昼である。夜明け前の悪霊との戦いは未だに終わっていない。

「アメノワカヒコ! ごめんね、呼び出して」
「ううん。大丈夫」

遠征から帰ってきたばかりのアメノワカヒコを急遽部屋に呼び出した。
本来なら休んでもらうが、そうは言っていられない。

「今日はいないんだね」
「サンキボウは討伐。数が必要だから今朝行ってもらったの」

すると何故か顔を真っ赤にしたアメノワカヒコが上ずった声で言った。

「え! ちが、い、いや。ごめんね。主殿」
「え。ううん。私の方こそごめんね……?」

よく判らないが謝られたのでとりあえず謝り返しておく。

「それで討伐の事なんだけどね」

気持ちを切り替え独神として指示を出す。
アメノワカヒコも雰囲気を察してくれたようで、顔を引き締めた。

「現在交戦中の悪霊部隊を別部隊から叩いて欲しい。悪霊の動きはオロチマルが見ているから合図で総攻撃を仕掛けるの」
「今から行くんだよね? それでは間に合わなくないかい?」
「確かに第一波はもう動いているよ。アメノワカヒコは第三波ってところかな」
「剣呑過ぎないかな」
「ふふ。よゆーよゆー。……なんて、本当のところは気になる事があるからまだあまり動けないだけなんだ」

時間差で攻撃していく作戦だったのだが、どうも相手も何かを仕掛けているようで本殿をあまり手薄にしたくない。
だが、それこそ相手の作戦かもしれない。
私たちは睨み合い、裏を読み合い、少しずつ英傑を動かしている。

「じゃあ、すぐに出立してもらえる?」

砂を踏んだ音が響き、執務室前の縁側に忍による伝令が届いた。

「独神様、前線を担当していたアマツミカボシ殿が負傷」
「程度は」
「右椀を負傷。全身に傷を負っていますが、今なら単騎で撤退可能。周囲は撤退させる気ですが本人は抵抗中です」
「なら下げないで」
「宜しいのですか?」
「利き手が無事なのに退く必要はない」
「いいや主殿、ここは退かせるべきだ! 彼は例え利き手を失っても立ち続けてしまう。でも主殿の指示があれば」

私は忍に指示する。

「伝えて、勝利を待つと」

伝令はすぐさま行ったが、アメノワカヒコは憤慨している。

「見損なったよ主殿。アマツミカボシを何だと思っているんだ。彼は戦いにおいて心が折れる事はない。
 あなたの命令は遠回しに『死ね』と言っているようなものだ」
「命令は撤回しません。アマツミカボシは前線のままです」
「だったら、俺がすぐに前線へ」
「あなたは別部隊で合図を待ってもらいます。変更はありません」
「……」

顔を歪めて何か言いかけたアメノワカヒコは足音を響かせながら退室した。

「……ふう」

誰もいない部屋で私は思い切り溜息をついた。
多分アメノワカヒコは私の指示通りに動くだろう。
私への感情とは別に、既に戦場で待機している英傑達を巻き込まないよう役目をきっちり果たすはずだ。
彼は信用を失う事の怖さを昨日の事のように覚えているから。

それにしても随分な目だった。普段穏やかな者こそ、憎悪が滲んだ瞳は一層鋭い。
何度も見てきたものだ。流石の私もこの程度では心を揺るがされはしない。
特に今回のように大規模かつ緻密な作戦中に個人の感情などに構っていられない。
気を取られれば、時に想定外の大惨事が起きてしまう。切り捨てるべきものだ。
……それが、皆の為なのだ。

二日後、今作戦は負傷者を出しながらも、悪霊を無力化する事が出来た。
帰還した者の為に勝利を祝う宴を開き、私はその間執務室に引っ込んだ。
部屋の中まで聞こえる歓声を受けながら、次の戦の為の情報をまとめていく。

そういえば、アマツミカボシは霊廟に運び込まれたと報告を受けている。
予想通り負傷を感じさせない振る舞いで、しっかりと武功を上げたそうだ。
その分身体への負担は大きく、人に運んでもらって帰還したんだとか。

アマツミカボシは私を恨んでいるだろうか。前線から下げなかったことを。
私は薄情だ。全体の勝利の為に無理やり残らせたのだ。
けれどアマツミカボシなら。
不屈の星神ならば負傷をものともせず、向かう敵を殲滅し続けると思ったのだ。
これが信用なのか、希望的観測なのか、 無謀なのか、戦ごっこなのかよく判らない。
偶々今回は上手くいったが、負傷の程度によっては昇天していただろう。
アマツミカボシを退かせなかったのが功を成したと言うのは、所詮結果論。
こんな私にアメノワカヒコが起こるのも当然だ。
私がアマツミカボシを見舞う資格はない。

次の日の朝、アマツミカボシが来るはずなく。
しかし習慣として身体に染みついているので、いつもくらいの時間には朝食を取りに行った。

「おい、一人で行くつもりか」

広間前、腕を組んで仁王立ちをする星神がいた。

「えっ、……だって傷……」
「あの程度一晩寝れば治る」

治っているようには見えない。
いつもなら無防備に晒している胸や腹部には長細い布が巻き付いている。

「ぐずぐずするな、行くぞ」

あまり上がらない手に招かれ、戸惑いながらもついていく。
配膳を手伝おうとすると狂犬のように噛み付こうとするので、手出しは出来なかった。
いつも通り隣同士で座る。
いつもよりゆっくりと食べている彼に横から話しかける。

「傷、大丈夫?」

ひとが心配しているというのにアマツミカボシに鼻で笑われた。

「まず貴様が言うべきは、勝利をもたらした俺への賛辞だろう?」
「……ありがとう。あなたなら必ず勝つと思ってた」

珍しく、アマツミカボシが目尻を大きく下げた。

「当然だ。俺が勝利せずして、誰が貴様に勝利をもたらす」

笑っている。滅多にない上機嫌で、私は「ごめんなさい」の言葉を呑み込んだ。

「アマツミカボシは強いもんね」

この日は稀有な事に、この後も他愛のない会話が続いた。
食べ終えた後、立ち上がろうとしたアマツミカボシは待機していた数人の英傑によって霊廟に連行された。
そもそも外に出てはいけなかったらしい。
周囲は直接独神に報告したくてしょうがなかったんだろうと呆れて見ていた。
しかし一人だけは違った。私はそれを一瞥したがそれだけ。言葉は要らない。

執務室に戻る。
そして訪問者が途切れる時間帯を見計らってそのひとはやってくる。

「こんにちは、アメノワカヒコ」
「忙しい時にごめんね」

お茶を出そうとすると固辞された。

「……」

大丈夫。もう心の準備は出来ている。
何を言われても平静でいられる。

「それで、私に何か言いたいんでしょう?」

こくりとアメノワカヒコは頷いた。
私はぐっと腹に力を込めて、背筋を伸ばした。
独神の役割は感情の全てを受け止める事だ。

「主殿、本当に申し訳ありませんでした」
「……え?」

その言葉は予想していなかった。拍子抜けである。

「俺は主である方に歯向かって、」
「ちょっと待って! あれは意見。ただの意見でしょ」

しん、と静まりかえった。アメノワカヒコは首を横に振る。

「……ううん、あれは口答えだよ。だって俺は……主殿の考えを知ろうともせず、自分の感情を優先させたんだから」
「でもあれはアマツミカボシが危険だったからでしょ。友人なら当然の事じゃない」
「あの時は純粋に彼を想っていたわけじゃないよ」

アメノワカヒコは目を伏せた。

「主殿と彼の事を考えると、急に落ち着かなくなって……。あの時だって、妙な恐怖感が襲ったんだ。
 主殿がアマツミカボシを強く信じる姿に、俺は反抗する事でしか自分を落ち着かせられなかった」
「何を言っているの? あなたは心配していただけ。私なんてただ戦局しか見てなかったのに」
「そんな事はない。撤退させないと言っていた事を伝えられたアマツミカボシは何て言ったと思う?
 頭は俺をよく知っている。……そう言って笑ったそうだよ」

笑う? 撤退するなと言ったのに?
負傷した彼を戦場に閉じ込めたのに?

「それを聞いて俺は、目の前が真っ暗になったようだった。
 俺よりも主殿の方が、彼に詳しいなんて……」
「そんな事ない。私なんて、アマツミカボシに私には理解されたくないとはっきり言われてる。
 それにあなたといる方がずっと楽しそうで……」

お互いの顔を見た。
眉尻の下がった情けないくしゃくしゃの顔はまるで鏡を見るようだった。
私は白状した。

「……私、あなたに嫉妬してる。昔から仲が良くて、わざわざ二人で話す時間を取るくらい親密で特別な事。
 独神の私じゃ到底そんな関係にはなれない。
 あのアマツミカボシが心を許している事……私では一生追いつけないから苦しかった」

私が吐露すると、アメノワカヒコもまた永く深い溜息と共に語った。

「……二人で話す時、アマツミカボシがあなたのことをよく話すようになった。
 最初は微笑ましくて、馴染めて良かったと思ってた。
 でも日に日に主殿の話が増えて、どんな時でも何をするにも主殿の名前が出るようになって。
 俺はなんで彼の隣にいるのか判らなくなった。彼にとっての俺はなんだろうって。
 毎朝一番に会いに行くのは主殿。怪我をしたって会いに行くぐらい……欠かさない事。
 アマツミカボシが主殿の為に進んで討伐に行くことも、従っていないと言いながら従う所も、凄く……嫌だった」

私が口元をひくつかせていると、アメノワカヒコも不格好な顔で笑った。

「あなたそんな事思ってたの?」
「まさか立派な主殿がそんな事を思っているなんて想像してなかったよ」

力が抜けた私たちは二人で熱いお茶を淹れて、常備している来客用の高級茶菓子を摘まんだ。
二人してどんな事が嫌だったか、不安だったかを遠慮なく言いあった。

毎朝私と一緒に食べる姿を見たくなくて、毎日背を向けて座っているだとか。
討伐の時にアマツミカボシと相性が良い英傑と思った時に、一番に思い浮かぶのが嫌だとか。
しょっちゅう目で会話しているのが嫌だとか(実は私が一方的に怒られているだけ)。
私と話していても、アメノワカヒコが視界に入った途端に私をおざなりにするのが嫌いとか(曰く、実際はおざなりにしていないらしい)。

会話を重ねていると、アマツミカボシよりもアメノワカヒコの方が数十倍、数億倍話しやすいひとであると気づく。
真面目なアメノワカヒコに変な姿は見せられないと常に言動に気を配っていたのに、意外と感情的で共感を覚える。

「独神の私が嫉妬なんて変だよね。あなただって仲間なのに」
「それだけ、主殿はアマツミカボシを愛しているんだよ」
「あなたもアマツミカボシの事が本当に大切なのね」

私たちは再び無言になった。
アメノワカヒコが何を考えているかは判らない。
私の頭の中は、アメノワカヒコの言葉が繰り返し繰り返し流れている。

「かし──、アメノワカヒコか」

突然部屋にやってきた噂の彼は、私ではなく友人の方に目を向けた。

「どうした。貴様も少なからず疲労が残っているはずだ、こんなところにいるのではなく身体を休めろ」
「心配しなくても十分休んだよ」
「馬鹿な事を。休息の重要さを俺に説くのであれば、貴様が体現して見せろ。
 おい、頭。討伐があれば俺が代わりに行く。アメノワカヒコは休ませろ」
「ただお話していただけだよ。安心して」

やはり目にすると胸が痛くなる。孤高の神が誰かを特別扱いしているのは。
それに、こんなって、なんだ。こんなって。
こんなところで悪うございました。

「……なんだ頭。文句があるなら俺に直接言え。それとも、昨日の討伐を気に病んでいるのか。
 だとしたら杞憂だ。言ったはずだ。俺の戦いを貴様が背負う必要はない。
 俺が斬ったのは俺の意思。貴様は無関係だ。貴様はただ勝利のみを見つめていろ」

強い瞳が私に有無を言わせない。支配的なのにひどく優しい。

「ありがとう。でも大丈夫。反省すべき所は反省して次に生かすことが大事だから」
「ならいい」

満足そうに笑う姿がとても綺麗だ。
つい見惚れてしまう。

「さっきの事だけど、アマツミカボシは今日も休んで。アメノワカヒコも。
 流石にあの規模の戦いの後すぐに戦に出す気はないから。
 二人とも”こんな”とこにいないで、気分転換に外でも行っておいで。
 あ、湯呑は用事がてら私が片付けるからお気遣いなく」

そう言って無理やり二人を外へ追いやった。
アマツミカボシは何やら言いたげだったが、気にする必要はないだろう。

「ふう……」

いつもの事だが一人きりで溜息を吐くと安心して私個人に戻れる。
さっきのやり取りを思い出しながら、物思いに耽っていく。

アマツミカボシはアメノワカヒコの事は当然大切にしているが、私の事もそれなりには大切にしてくれているのだろう。
その証拠にじわじわと身を焦がしていた嫉妬心が落ち着いている。

アメノワカヒコが私と似たような事を考えていたのには驚いたが、
それよりも、驚いたことは。

「愛している、なんて」

私が、アマツミカボシを?
独神が、英傑を?

ばかばかしい。そんなのあるはずがない。
私にとって大事なのは八百万界で、一個人に心を砕き過ぎてはいけない。
私が守るべきものは沢山あるのだ。何かに執着している場合ではない。
視野が狭まれば、沢山の命を指から零れ落してしまう。
愛しているはずがない。好きでもない。
そうだ、好きなんかじゃない。

「私は、アマツミカボシの事なんて…………好き、じゃないです」

口にしてて恥ずかしくなった。
頬を触ると熱い。いやに心臓がどきどきする。
アマ、いや──某英傑と、例の二文字を並べると、途端にむずがゆくなる。
私以外誰もいないと言うのに、人の目が気になってきょろきょろと辺りを見回してしまう。
何故だろう。意味もなくにやけてしまう。

これが、愛なのかどうかは判らない。
でも好意を持っている事は……多少、認めざるを得ないかもしれない。

────やはり、駄目だ。
独神は民を等しく愛していなければならないのに。
私は独神であって『個』ではない。
やめよう。
考えるのはよそう。
そんなことは許されない。

駄目駄目駄目。

それなのに、どうしてだろう。
たった二文字の言葉が、私の中から消えてくれない。







「おはよう」
「……ああ」

毎朝一番に瞳に映るひとがアマツミカボシである事がこの上なく嬉しい。
昨日とは同じようで、少し違う笑みを浮かべてしまう。
昨日はつい世迷言に惑わされてしまったが、私たちは変わらない。
私は独神で、彼は英傑だ。
アマツミカボシを戦場に派遣する事は止めないし、彼もまた必要であれば私を戦場に引っ張り出す。

こんなものだ、私達の関係なんて。
悪霊という共通の敵がいて、だからこそ同じ屋根の下にいられる。
それがなければ私たちは会う事はなかったし、話すことも無かった。
今はこの小さな偶然に感謝しないと。

「ねえ、アマツミカボシ」
「なんだ、頭」

最初は私を斬ろうと憎しみに満ちた目で見てきたのに、今は随分柔らかくなった。
と言っても、一般的に見れば十分睨みつけていると言える。
でも怖くはない。こういう時の彼は怒っているわけではなく、僅かに訝しく思っているだけだと知っているから。

「呼びたかっただけ」
「は?」

この反応は、心底呆れている時。

「駄目?」
「駄目だ」

そんなむきにならなくとも。
だめ、笑ってしまう。彼は揶揄われたり笑われるのが嫌いで、こういう時は判りやすくむっとする。
調子に乗ると剣を抜くほど怒ってしまうので、決してやりすぎてはいけない。

「ごめんね。ありがとう」
「……何故そこで礼の言葉が出てくる」

まともに相手にしてもしょうがないと諦めた顔をしている。
でも、さっさと踵を返さないという事は、一応まだ近くにいようという意思があるという事だ。

私、だめかも。
たったそれだけのことが嬉しくて。
涙がでそうになる。
こんな些末な事にどきどきしてしまう。

ごめんね。
あなたのこと好きみたい。

心の中で呟いた言葉は、じんと胸に溶けていく。
すきなんだ。
そっか。
私はこのひとのこと、好きなんだ。
好き、なんだ。

「……」
「なんださっきから。言いたい事があるならはっきりと言え」
「言いたいこと……」

訳が判らないと苛立つアマツミカボシを見ながら、私は答えた。

「今日もいい日だなって」

馬鹿馬鹿しいと言ってそっぽを向いてしまった。
でもやはり立ち去る事はなく、私が朝食を食べに行く準備が出来るまで辛抱強く待っていてくれる。
……そんなことされちゃうと、もっと好きになっちゃうかもしれないよ。







「…………」

隣の赤毛の神様は、惜しげもなく不満げな顔を晒して朝食を食べている。
今日は部屋に来た時からずっと落ち着かない雰囲気を纏っていて、私は最低限の言葉だけで済ませた。
昨日の朝と夕に言葉を交わした時は普通だったのに。
だから多分私が原因ではない。

八つ当たりされない分ましだが、もう少し気持ちを抑えてもらえればと思う。
周囲が怖がっている事が判るだろうに。
そんな事を考えながら別れ、その後フツヌシに剣を振るったと別の英傑から報告を受けた。
私闘を禁止しているので、何かしらの罰則を言い渡さなければならない。
フツヌシに注意をすると、ずっとにこにこと笑っていたので、いつもの度が過ぎた冷やかしだろう。
アマツミカボシの方に聞くと「罰は受ける。それでいいだろう」と言って何も語らず。
私は彼に一日掃除をするように言いつけた。一人で作業して入れば少しは気持ちも落ち着くだろう。

しかしそうはならなかった。
それから数日間、アマツミカボシの機嫌が直ることなく、他の英傑も遠巻きに見ていた。
私も同じく必要最低限の会話に留めている。
一応朝には来てくれるし、食事だって隣で食べている。
だがいつも以上に気難しい顔をしていて、誰も寄ってこない。
確かに私は、皆が来るようになって少し寂しいとは思ったが、来ない方がもっと悲しい。
アマツミカボシは本当にどうしてしまったのだろう。
聞けば答えて…………いや、絶対に言わない。
まずは遠い所から情報を集めるべきだ。それとなく、アメノワカヒコに聞いてみた。
しかし私の予想に反してアメノワカヒコも判らないと言う。

「そもそも夜に会ってないんだ。少し前に暫く来られないって言って、そのまま……」
「そうなんだ……」

英傑たちは毎日討伐や見回りには出ているが、自由時間がないわけじゃない。
アメノワカヒコとの雑談は十分可能だ。

「俺はアマツミカボシが言ってくれるまで待つことにするよ」
「私も一応待ってみるつもり。でもこのままだと色々支障をきたすからあまり待てないけどね」

何か判ったら情報共有をと約束したが、私もアメノワカヒコも何の情報も得られなかった。
討伐や遠征には行ってくれるが、私を含めた周囲は常に腫物扱いを強いられている。
編成を組まれた英傑はやる気を削がれ、討伐へ及び腰だ。
これ以上は待っていられないと、逆上覚悟で聞く事を決心し始めた頃、
夜の執務室にアマツミカボシが現れ命令した。

「明日の晩。空けておけ」
「…………え!?」

ぱしゃん。障子が勢いよく閉められた。

「……返事すら聞かないっておかしくない?」

思わず口にしてしまったが、独り言は彼の耳には入らない。
だがこれは願ってもない申し出だ。
当然、明日は早めに準備を整えておかなければ。

夕方には食事を済ませ、執務室には入室禁止と札を貼り、私はそわそわしながら待っていた。
あのアマツミカボシが誘ってくるのだから、相応の覚悟が必要だろう。
もしかしたら戦闘に巻き込まれるかもしれないと、私はいつも通り悪い方向に物事を考えていた。
廊下が軋み、私は背筋を伸ばして居直った。
黒い影がそうっと障子を開ける。

「頭、準備は良いな」
「勿論」

万全の状態にしていると、大きく頷いた。

「早速で悪いが、龍脈を使用してくれ」
「どこへ?」

アマツミカボシは執務室の壁に貼っている地図を指さした。

「ここに一番近い所だ」

東……オノゴロ島から随分遠い。龍脈であれば距離は関係ないが。
私はアマツミカボシを伴い、本殿にある龍脈を開いて指定の場所──常陸国へと飛んだ。

アマツミカボシが指し示したのは、町でも山でもない平野だった。
────平野になってしまった、が正確だろう。
草すら生えない枯れ果てた土地で、地面がところどころ抉られている。
僅かではあるが嫌な臭いもする。悪霊が使用する武器の匂いだ。
彼らの武器は八百万界側が使う物とはまた違っていて、火薬や術を使用すると暫くは匂いが取れない。
何度か雨が降れば流れていくものだが、ここは以前悪霊との大規模な戦場となってしまったので、奥の奥まで染みついてしまっているのだろう。
気分のせいかもしれないが、死体や血の匂いまでもが漂っている。
アマツミカボシは何故、ここに連れてきたのだろう。
少し離れた位置で立ち尽くす彼を見つめると、彼が小さく手招いたので傍に駆け寄った。

「ここは昔、俺が支配していた場所だ」

淡々と告げた言葉を抱いて、私はもう一度辺りを見た。
星神の寵愛を受けた土地とは思えない酷い有様だ。

「美しい場所だった。中でもここは星がとてもよく見える場所だったのだ。
 俺が知る中でも指折りの星見場所だった」

大地を見続ける彼とは逆に、私は空を見上げた。
重苦しい雲が速く流れている。深夜、または早朝には風を伴う雨が降るだろう。

「八百万界に産み出されて日が浅い貴様は知らんだろうが、
 俺がここにいた時分には、今とは違い八百万界を支配していたのは夜の方だったのだ」

とある出来事から夜昼転換期が起こり、今のように太陽が上がる時間に活動し、太陽が沈むと同時に寝るような生活が一般的になったと聞く。

「あの頃の八百万界を貴様にも見せてやりたい所だが。……所詮、過去の事だ」

失われた景色が戻る事はない。
私は彼の目蓋の裏に映る八百万界を見る事は一生ない。

「今だって星は綺麗だよ。昔と変わらないよ」
「当時を知らない貴様が何を根拠に」
「綺麗だよ。絶対」

黙ったアマツミカボシは左手に剣を出現させると、天空へと掲げた。
雲が四散し、晴れ渡った夜空には星々が煌めいている。

「ここでは草木や湖面にも星々が鮮明に映し出されていた。
 視界の上下左右全てが星に支配される唯一の場所。
 だが、この死した地では、天の星の輝きを受け止める事はままならない」

星が光を放つほど地上での惨状を鮮明に照らし出す。
そして禿げあがった大地は星の輝きには応えない。

「……綺麗だよ。やっぱり」

上空の星を指さした私は、彼に思うままを伝える。

「地上でなにが起きたって、天に住まう星々には無関係だよ。
 だから、この先もずっと綺麗なまま。変わらないよ」

今度は大地を指さす。

「この地上だって今はまだ動けないのが現実だけれど、生命が住める土地に戻すよ。
 私が守るものは自立した命だけじゃない。八百万界そのものだから」
「例え貴様が尽力してこの地に生命を呼び戻せたとして、それは俺の知る場所ではない。
 俺の景色は滅んだのだ」
「大地は勝手に蘇らない。私たちの手で復活させるものだよ。
 独神の私と、英傑のあなたで」

その為に私は産まれた。そしてあなたを産魂《う》んだ。

「あなたがその綺麗だと言う景色を一緒に創り上げようよ。
 そして今度はその景色を私に見させて。あなたの隣で」

八百万界は今、創り替わっている最中だ。
八百万界は生きている。私たちと同様に生命を灯して時を刻んでいる。
私たちが成長し、衰えていく中で。

「しっかりしてよ。希望を忘れた生命に望む未来は一生来ないんだからね」

自分で口にしながら笑ってしまう。よくもまあいけしゃあしゃあと。
見失ってたくせに。
私の原点。私の生きる意味。

────私がこの八百万界を救済するって気持ち。

「……よくもまあ恥ずかしげもなくほざくものだ」

どんな言葉を吐き捨てられようと、私は怖くなかった。
間違ったことは言っていない。
おかしなことも言っていない。
他人の言葉で曲げられてしまうようなか弱い自信なんかじゃない。
やると言ったらやるのだ。
やりたいと願ったから、叶えるのだ。
未来は私たちの手の中にある。
独神だからこそ、私はそれを知っている。

「貴様のその、無根拠でありながらも理想や希望を臆することなく抜かす姿は、まあ嫌いではない」
「好きってこと?」
「普通寄りの嫌いだ」
「嫌いなのね……」

そこそこ傷ついていると、アマツミカボシはくつくつと喉を鳴らして笑い出した。

「今日ここに頭と来たのは正解だった。俺は悲観的になり過ぎていたようだ」

彼は夜空を見上げた。
その横顔の美しさには、四方から伸びる闇如きでは太刀打ちできまい。

「俺はあの平定の後の記憶がない。という事はつまり、あの時に俺の命は一度終わったのだろう。
 次の記憶はあの鶺鴒台だ。アマテラスと、貴様と、ジライヤがいた」

私たちが出会った時の事だ。

「過去の記憶は混濁としていてはっきりとはしないが、多分、今日がこの地が奪われた日だ」

そして星神が没した日。

「そしてヤツらは夜も奪っていった。星神を信奉する者達も残らず殺したのだろう。
 俺から何もかも根こそぎ奪っていったのが、今日という日だ。
 もうきっと、当事者達にも殆ど忘れられてしまった、色褪せた過去でもある。
 この八百万界で、あの忌々しい日を昨日の事のように覚えているのは、俺だけだろう」

勝利した天津神側からすれば、昼夜逆転の日など永久の生においてさほど重要な日ではない。
膨大な過去の中のたった一日。多少騒がしかった日でしかない。

「だが俺が覚えてさえいれば、あの日が消える事はない。
 あの時失った者達の生きている様を覚えている限り、ヤツらは俺を通して生き続けられる」

痛みを忘れるな。と私に告げた、アマツミカボシの心が垣間見れた気がした。

「……頭。少し、貸してくれ」
「どうぞ」

アマツミカボシは私の両肩に手を置くと、次は頭の上に額を置いた。
彼はじっとしていて動かない。きっと、私には計り知れないほどの感情と邂逅しているのだろう。
大切なものを失った日。
仇を討った所で八百万界の昼夜は覆る事はないし、彼を信じた者達も、この土地も、蘇る事はない。
過去が変えられない事を、アマツミカボシは痛いほど知っているだろう。
変わるのは未来と、自分だけ。
理屈では判っていても自分の心に蹴りをつけるのが、一番苦しくて難しいのは、私も知っている。
でも、私は彼じゃない。
どんなに共感しても知った気にしかなれない。
だから、私は。

現在《いま》のアマツミカボシを掴まえるように、小さく丸まった背中に手を回した。
私に出来るのはここまでだ。

指先から感じる命の鼓動を聞いて、彼の吐息を聞いて、静かすぎる夜の音を聴いた。
虫の声がないとそれだけで、まるでここが世界の最果てのようだ。
一度は散った雲たちも再び集結し、わずかな光さえも地上から消えていった。
辺りは夜闇に支配されて四方八方何も見えない。
頼りになるのは互いに相手に触れた部分だけだ。
肩にじわりと食い込む指先の痛みが心地よい。
好きなだけぶつけてくれていい。
彼の心が少しでも軽くなるのなら。
私はいくらでも差し出せる。

「頭《かしら》」
「なあに」

掠れた呼び声に出来るだけ優しく返答した。
頭の上の重みが軽くなり、肩に乗っていた手も離れていく。

「帰るぞ。共に、本殿へ」

晴れやかな声に私は力一杯頷く。

「うん」

今日だけ。今日だけは。
闇の中で迷い子になりそうな彼と手を繋いだ。
彼は嫌がるどころか、堅い指で優しく握り返してくれた。

「行こっか」

龍脈を使いすぐに帰還した。オノゴロ島上空は晴れやかで星がよく見える。
私たちは誰にも見つからないように素早く本殿に上がり込んだ。
アマツミカボシは部屋まで送ってくれようとしたが、私は首を振った。
代わりに私が彼の部屋までついていった。

アマツミカボシの部屋の前に来ても、なかなか手が離せなかった。
アマツミカボシも離そうとしなかった。
私たちは立ち尽くし、横並びで暗い部屋を見つめていた。

「さっさと次もってこい!!」

怒号と共に酒瓶が割れた音がした。
夢心地な気分が呆気なく吹き飛ばされてしまった。
このまま朝を迎えるわけにもいかなかったし、丁度良かったのかも、しれない……。

「あの……」

でも。まだ手を放す決心は出来ない。

「頭……」

何を考えているのか判らない顔をしたアマツミカボシの指先が僅かに動いた。

「……心配せずとも明日、いつも通り迎えに行く」
「……待ってる」

私たちは。
少なくとも私は。
名残惜しいながらも彼の手を放し、最後の抵抗で爪の先まで往生際悪く触れてから、元の一人に戻った。

部屋に戻った私は、敷布団を敷いてすぐ倒れ込んだ。
アマツミカボシの全部が忘れられなくて、なのに詳細は全く覚えていない。
このまま寝てしまうのが勿体ない。

「すき……」

明日も会いに来てくれる事を想像すると緊張するけれど、早く明日が来て欲しいと願った。
どんな顔で会えば良いのだろう。

────そんな心配は杞憂に終わる。

「頭! 今日もわざわざ俺が出向いてやったのだからさっさと片付けろ」

なんだ朝っぱらから強引傲慢な人物は。
私が抱いたきらきらふわふわした感情は戸惑いの洪水に押し流されてしまった。

「なんだぼさっとして。手を借りたいならばそう言え」
「いえ! 大丈夫です! 終わってます!」
「ならさっさと行くぞ」

アマツミカボシの背を追いかける。いつもと逆だ。
歩幅が違って早歩きでないと距離が開く。
懸命に足を動かしていると、アマツミカボシは少し速度を落とした。

「速いならそう言えば良かろう。貴様はそうすぐ黙るが美徳でもなんでもない。覚えておけ」

足が速いなんて些末過ぎて言う気が起きなかっただけだ。
そんなことより何より、アマツミカボシこそ昨日と人格が変わっていないかと言いたい。
元々変なひとではあったが、大概にしてもらいたいものだ。
誰このひとと思いながら朝食を食べ、アマツミカボシに用事を言いつけて体よく離れると、背を向けて食べていたアメノワカヒコに話しかけた。

「おはようございます。あの、アマツミカボシの事なんだけど」

かくかくしかじか。今朝の奇行を余すことなく伝えると、

「あはは、それは気に入られてるんだよ。随分機嫌が良いと思ってたけど」

変なひと……。でも照れ隠しと思えば納得がいく。
それとも多少の事で相手に嫌がられる事はないという感触を得られたという事だろうか。
私が彼に対して思ったように。

この変化はきっと、彼の心に許されたのだろう。
私はそれが嬉しかった。少しでも理解し合えたのなら。
他でもない私に何かを望んでくれるなら。
彼の中に、少しでも私の存在があるなら、私は。
────幸福だ。