チョウチンビと金魚


空を見上げれば鰯雲が橙色の海を泳いでいる。
鳥の声が減るにつれ虫の声が辺りを満たし、チョウチンビたち一行も早々に山から引き揚げなければならなかった。
しかしながら「たすけて」の声が聞こえてしまっては探すより他ない。

「崖下もよく見て!」

此度の討伐で大将に任命されたツナデヒメが大声で指示する。
チョウチンビとベンケイは手分けをして救助者を探すが一向に見つからない。
草根の分けている間にも「たすけて」の声は次第に小さくなっていく。

「大丈夫! 僕たちが必ず助けるから! 大丈夫、大丈夫だから!」

身軽なツナデヒメは木の上から鵜の目鷹の目でか細い声を手繰るがそれでも見つからない。
容赦なく地に頭垂れる太陽を背に三人に焦りが生じる。

「鬼火たち、オラが行けない所をもっとよく探してくれ!」

主の命令に従いふよふよと浮いた拳ほどの鬼火たちが、高いところへ低い所へとすいーっと散らばっていく。

「……っ! いたのか!?」

鬼火の声なき声を聞き取ったチョウチンビは鬼火が示す方向へと駆けた。
だが辺りには誰もいなかった。一匹の金魚を除いては。

「オラが探せって言ったのはひとであって魚なんかじゃないぞ」
「た、たす……」

口をぱくぱくとさせて苦しみ喘いでいる金魚にチョウチンビは慌てて竹水筒を開けて中の水をかけた。
真っ赤な金魚が荒い呼吸を繰り返す。

「ありが、と」

金魚が礼を言った。

「チョウチンビ殿見つかったのか! 誰もいないではないか」

苛立ちを滲ませた声色に慌てて弁解する。

「違うって。なんかこの金魚が助けてとか言うから」
「金魚、と。貴方はそう言ったのか。そんな下らない事を口にする間にも民が事切れるかもしれないというのに」
「喋ったんだって! ほんとだって!」

嘘吐きと思われないために、ぐったりとしている金魚に「頼むよ! 頼む! 何か言ってくれ」と必死で促した。

「……金魚だって、喋るわよ」
「なんだと!? ……これまた面妖な」

眉を潜ませるベンケイのすぐ横にツナデヒメが着地した。

「どうしたの。報告して」
「助けの声はこの金魚みたいで……」

ツナデヒメは陸地にあがった金魚をしげしげと眺めると目を瞑った。

「……うん。確かにさっきまであった声は消えたみたいだね」
「だからオラは最初から嘘なんて……」
「とりあえず、その金魚を持って帰還しよう。急がないとここから一気に視界が悪くなるよ」

チョウチンビは袖を広げて金魚を包んだ。そして気づく。
周囲には湧き水などが見当たらず、木々が所狭しと生えている。地面にも余計な草が多く、誰かが入って手入れしている風には見えない。この金魚はいったいどこからやってきたのだろう。

「なあ」

尋ねてみるが金魚はまたぱくぱくと弱々しい動きを繰り返す。見兼ねたベンケイが己の竹水筒を水平に切り落とし、中に金魚を入れてチョウチンビに渡した。金魚は狭い筒の中でぷかぷかと浮いている。

「(魚には水。……そんな当たり前のことがオラはすぐ出来なかった……)」


本殿に着く頃にはすっかり日が落ちていた。
英傑達が食事や風呂をと疲れを癒している中、執務室には独神が朝と変わらぬ様子で机に向かっていた。
金魚を見つけたチョウチンビが報告係となり、自身の体験を詳細に語った。

「なるほどね……」

顎に手をやりながら独神は竹筒をじっと見つめた。

「確かに界力を殺界炉に吸い上げられた結果、八百万界の生態系に異常が発生し、今までにない事が起きるのはあり得る話だ。金魚が喋るくらい珍しくもないかもね」

本殿を仕切る独神の見解は非常に楽観的で、チョウチンビも胸を撫で下ろした。しかしお伽番のフウマコタロウは呆れて果てている。

「独神ちゃん、本当にそれで良いの?
 ねえ知ってる? 生物を利用した忍術。ただの動物を忍者に仕立てあげるんだ。愛玩される為に産まれてきたような可愛い動物を送り込む。そして愛情たっぷりに接している所を殺しちゃうの」

淡々と、だがどこか楽しげに言うのが気に入らないチョウチンビは反論した。

「そんな事ない! この金魚はそんな事しない」
「あんたが拾ってきたんだっけ? 助けた手前可哀想なのかもしれないけど、だったら後は僕に任せなよ。あんたじゃどうせ駄目でしょ?」

冷ややかな薄笑いでこちらを愚弄しているのは明らかだ。しかし言い返す前に独神が制止した。

「コタロウやめて」

間延びした返事をしてフウマコタロウは黙った。ふざけた男ではあるが、独神の命令にだけは忠実だった。

「勝手に話を進めるものじゃないよ。金魚ちゃんにまだ話を聞いてないじゃない。ね?」

チョウチンビが持つ筒に向かって、独神は話しかけた。

「君はどうしたい?」

するとぴちょんと筒から飛び出した金魚はフウマコタロウの所まで泳いでいくとぺしりとヒレで叩いた。

「あなたっていぢわるだわ」

三人が黙って見守る中、金魚はまた筒の中へと戻っていった。

「……オマエ空中を泳げるんだな」

運んできたチョウチンビもこれは呆気にとられた。
お陰で山中の水のない場所に放り投げだされていた事に合点がいく。水辺から一人で宙を泳いでいるうちに身体が乾いたのか、疲れたのかで力尽きていたのだろう。

「アタイはどこだって泳げるかしら。今回はちょっと失敗しちゃったけど、なんでも一人でできるわ。食べ物だって探せるもの。でもそうね、この人にアタイの世話係と任命してあげても良いかしら」

「オラ!?」

当然とばかりに金魚は言った。

「拾ったひとが責任もって育てるって、知らないかしら?」

金魚の立場で言われると、うんと素直に頷けない。

「じゃあチョウチンビがお世話してあげて」
「世話というと飼われているみたいで嫌になっちゃう」
「さっき自分で言っただろ」

と、コタロウが呆れて口を挟む。

「じゃあチョウチンビが先輩として教えてあげて。よろしくね」
「え、主、でも」
「なら早速先輩、教わってあげるから部屋まで案内して欲しいかしら」

金魚は水から飛び出しくるくるとチョウチンビの回りを泳いだ。
断ろうにも独神はチョウチンビに任命してこの件は終わったと思っているようで、フウマコタロウも全く別の事を独神に提言している。

「判ったって……」

断れるような雰囲気ではなく、渋々とチョウチンビは了承した。

「その筒じゃ狭いだろうから、金魚ちゃん用の水鉢はその辺のなんでも使っていいよ」

独神に言われて仕方なく我楽多置き場まで行って透明な鉢を拾い上げると中に水を入れ金魚を落とした。
「もっと優しくなきゃやよ」と言われたがいい加減に聞き流す。
足取りの重いチョウチンビと違い、金魚は物珍しそうに辺りを見回していて呑気なものである。
観光気分であれやそれやとヒレを指して笑う金魚に溜息をつきながら自室に向かっていると、ネコマタとすれ違った。
鬼火ではないものを連れている事に当然ながら気づく。

「ニャ! 夜食用かニャ!」
「違うよぉ……」
「そうよ。アタイを食べようとするなら、ぺちんてするわよ」
「ニャニャ!? 金魚が喋ったニャ?!」
「当然よ。アタイ賢いのよ」
「んー、くんくん、魚クサイニャ」

妖の匂いがしないと言いたいのだろう。だとすると人か神か。それともやっぱりただの魚か。

「失礼ね。ひとの身体を無遠慮に嗅ぐなんて」

ネコマタの小さい鼻をぺちりと叩いた。不愉快だったのかチョウチンビよりも前に出て歩みを促した。

「行くわよ。早く部屋で休みたいかしら」
「なんで偉そうなんだよぉ……」

面倒だから誰にもすれ違わないで欲しいと言う願いが通じたのか、自室に至るまでは後は誰とも会わなかった。

「ごちゃごちゃした部屋ね」
「なんでオラ文句を言われるんだ……この辺で良いだろ」

そこそこ重かった水鉢を入口横に置こうとすると金魚が抗議した。

「床なんてだめよ。あぶないじゃない。それに振動が伝わって酔っちゃうわ」

ふよふよと泳いで部屋を物色すると、金魚はすーっと下降した。

「ここがいいわ。へんなおきものがあるけど、賑やかしにはなりそうだもの」
「そこはオラがおやつ食べる時の台……」
「うそよ。こんなにきたないなんて使ってないでしょ。ならアタイに使われた方がしあわせよ」

偉そうに言いのけられて一言言いたくはなったが、しかし指示通りに置いてやった。
水鉢が来たことで小間物屋で買ったかっこいい人形や独楽が押しやられてしまった。

「アタイ、しらないこばかりでつかれちゃった。もうねるわね。くれぐれも足音はやめてね。ほこりたてるのもやよ」

ぽちゃんと水鉢に入った金魚は底でじっとしている。目はぱっちりと開いていてチョウチンビと目が合う。

「本当にこれ寝てるのか?」

何も言わない金魚の口からはぷくぷくと小さなあぶくが浮かんでいった。





次の日にはチョウチンビが奇怪な金魚を拾ってきた事は広まっていた。
本殿では小さな変化であっても殆どが筒抜けである。日々生死を共にするせいかお互いの距離が近いのだ。

「チョウチンビ殿、喋る金魚とやらを見せてくれないか?」

と普段会話のないシュンカイが部屋を訪れた。

「チョウチンビー聞いたよ。その金魚うちで雇ってあげよっか? 海水だけど」

と普段関わりのないオトヒメサマがチョウチンビに声をかけた。
かつてないほど注目されたチョウチンビは気分が高揚していた。

「(こんなにオラに話しかけててくれるなんて)」

金魚に対して抱いていた面倒な気持ちなど吹き飛んでいる。
もっと注目してもらいたいチョウチンビは嬉々として金魚を水鉢ごと連れて行こうとするが、

「いやよ」

すげなく返される。

「アタイは見世物じゃなくってよ。そう伝えてちょうだい」

だがチョウチンビだって折れはしない。
金魚を持つだけで注目してもらえるのだから。

「ご、ごはんとかどうすんだよ」
「水草とか、なんでもいいから入れてよ」
「お、オラは金魚のことなんて、判んないし……と、とにかく自分で見て選んでくれよ!」

不器用ながら食らいつく姿に金魚も諦めたのだろう。

「……まあそうよね。ここには金魚はアタイだけみたいだから」

ちゃぽんと水面から飛び出した。

「いくわよ」
「(やった!)」

食堂にチョウチンビが現れた瞬間、ばらばらに座っていた英傑達がわっと集まってきた。
チョウチンビは緩む口元が抑えきれず、勿体ぶって座卓の真ん中に水鉢を置いた。
意気揚々と口を開くチョウチンビ。……ではなく、英傑達は水鉢の金魚に一斉に話しかけた。
声音の大きいイッシンタスケがまず金魚に質問した。

「聞いたぜ! てめぇは魚だってのに空を泳ぐらしいじゃねえか! 呼吸どうしてんだ、乾燥は?」
「息はどこにいてもくるしくないわ。でも乾燥はあまりよくないわね」
「あら、金魚ちゃんも乾燥が嫌い? ならワタシの加湿器を貸してあげるわ」

ツクヨミの言った聞きなれない「かしつき」に金魚は身体をことりと倒した。

「加湿器って常に水蒸気を出す物で湿気が一定に保たれるのよ」
「それは素敵かしら。チョウチンビ、加湿器を設置して。いますぐに」
「え!? オラが!?」
「だってアタイのヒレじゃうまく持てないもの」
「いいわよ、金魚ちゃん。ワタシが持って行ってあげるわ」
「ありがとう。えっと、……おなまえは?」
「ツクヨミよ。月の化身であり三貴神のひとり。この本殿で主ちゃんの次に偉いからよーく覚えてなさい」
「わかったわ。つくよみちゃん」
「嘘だぞ。金魚だまされるなよ」
「はぁ? 嘘じゃないわよ!」

ツクヨミにちくちくと文句を言われ、失敗したと思いながらもチョウチンビは何も言えずはいはいと頷いた。

「聞いたぞ。君が噂の金魚だな。なんか困ったことがあったら遠慮なく言えよ」

国造りの神で浮いた噂が絶えなくて商売上手でお金持ちで頼りがいのある、チョウチンビが逆立ちしても敵わないオオクニヌシが金魚に話しかける。

「アタイのおうちがほしいの。寝るときもチョウチンビに見られてはずかしいのよ」
「見てないよ!」
「なるほど確かに女性の寝顔が常に晒されている良くないな」
「あら、あなたっておじょうずね」
「(ただの魚だぞ……)」

あからさまなお世辞にぷくぷく笑う金魚を見れば見るほど面白くない。

「金魚も酒って飲むのかねえ」

オオクニヌシの相棒、酒蔵の神が腰に付けた酒瓶を掴むと水鉢へと傾けていく。

「飲まないって! 金魚に変なことやめてくれよぉ! 何かあったらどうすんだよ!」

酒瓶を取り上げるとスクナヒコはあっけらかんとして笑う。

「冗談だって。でもマジで魚なのか? 妖じゃなくて?」
「多分……。オラもだけど、他の奴も妖の感じがしないって、神の感じもないし」
「アタイは金魚よ。金魚のなにがわるいの? 魚はすごいのよ。水の中を泳げるの。
 でもアタイはもっとすごい。なんたって空を泳げるんだもの」

水鉢を飛び出した金魚は二百人が入れる食堂内をすいすいと泳ぎ出す。金魚の元へとわざわざ来なかった英傑達も紅色の魚が空を泳ぐ様子を物珍し気に眺めていた。

「すげーな。ほんと。これ見るだけで酒が進むってもんよ」
「オマエはいつもじゃないか……」

英傑達の視線を思いのまま操る金魚に、チョウチンビはすっかりふてくされてしまった。

「(あんなの、ただの金魚じゃないか……。ただちょっと言葉が話せて、空を飛べるだけの。ただの……ただの……)」

チョウチンビの名が呼びつつも用があるのは金魚にだけ。
そんな面白くない日々が続いた。
しかしながら、物珍しいお喋り金魚も時が経てば特別もてはやされることはなくなった。
本殿に住む赤い魚は日常と化して、チョウチンビは穏やかな気持ちに戻った。

「落ち着いてきてよかったわ。ねえ、赤太」
「なんだあ、あかたって」
「このこのおなまえよ」

人形だ。水鉢のせいで押しやられた人形と硝子ごしに会話をしている。

「アタイとおなじ赤色なの。お揃いよ」
「お揃いっていうか、ただ赤いだけだろ……」

呆れるが、気にせず金魚は人形に話しかける。

「ねえ赤太、今日のごはんはぱんというものだったのよ。
 とってもふわふわしてかさかさしていておくちの中がかわいてぱくぱくするの。
 苦しいって思っていたら、汁椀の水に入れられるの。みんなおかしいわよね。自分たちはおふろの水をのまないくせにアタイには自分の身体の入った水を飲むものだと思っているのよ。
 でもアタイは金魚だからそのままこくこくとのんだの。空気を飲むよりずっとおいしいわ」

金魚の感覚はチョウチンビにはよく判らない。

「じゃあ赤子は水のなかでご飯を食べればいいじゃないか」
「いやよ。水がよごれるじゃない」
「そういうもんか……?」

鬼火の妖怪にはやはりよく判らない。

「ねえ、赤子って、なに。もしかしてそれ、アタイのおなまえ?」

あっと気付いた。チョウチンビは慌てて取り繕う。

「あ、いや、赤太って呼ぶから、じゃあオマエは赤子だなって……」

チョウチンビは用心深く、目の開ききった魚の様子を伺った。

「……赤子。ね。いいわね。赤って。アタイきにいったわ」

金魚はぴょんとはねて空中をくるりと一回転した。

「ねえ、よんで。アタイのこと、赤子ってよんで。あなたの声で。おねがいよ」

改めて言われると気恥ずかしさが沸き上がり、金魚相手だというのに赤くなってしまう。
金魚がどうしたのと言う。もしかしてと続けられて急いで言った。

「あ、赤子!」

声が裏返ってしまった。赤子はけらけらと笑っている。顔から火が出そうなほど恥ずかしい。

「赤子。アタイは赤子! 赤子なの。赤子なのね!」

くるくる回る。空中で。水中で。

「うふふ。アタイは赤子。とても綺麗よ。素敵な名前をありがとう、チョウチンビ」

泳いで跳ねる赤子はまるで踊っているように見える。

「……どういたしまして」

悪い気はしなかった。自分が名付けた名を連呼してぷくぷくと笑う赤子を見るのは。
チョウチンビも赤子につられて笑った。





「以上が報告だ。俺とチヨメ、そしてサイゾウの」

サルトビサスケの報告に眉間を揉みながら独神は溜息をついた。

「君たちの前に、コタロウやモモチからも聞いた。報告内容は概ね君たちと同じだ。
 悪霊は私たちへの変装が各段に上手くなっている」
「ああ。以前ならば言葉や振る舞いで見破れた。だが、最近の悪霊は俺たちの言葉に遜色ない。細やかな抑揚さえも完璧だ。まるで忍のようにな」
「うん。彼らも学習したんだろうね。そして変化した。この世界を、界力を手に入れる為に」

独神は笑った。

「全く困ったものだよ。だが学んでいるのはあちらさんだけではないよ。
 だからこうして、君たちが情報を持ち帰れているわけだしね」

不敵さを滲ませる独神に思わずサルトビサスケの仏頂面も崩れた。


「……と言う事で討伐に行って欲しいって。主君が」

ニギハヤヒは自室にいたチョウチンビに独神からの言伝を伝えた。

「討伐?! もちろん、行くけど……」

水鉢で尾ビレの手入れをする赤子を見た。

「とうばつ?」
「ああ、悪霊が出たからオラは行かないと」

だから留守番をしてくれと言うつもりだった。

「アタイも行くわ」
「留守番、ってええ!? 無理に決まってるだろ。悪霊っておっかないんだぞ。赤子なんてぺしゃんこになっちゃう。焼き魚になるぞ!」
「あら、多少の日焼けは女を美しくみせるかもよ?」
「馬鹿なこと言ってねぇで、おとなしくしてろって」
「いや! いやよいや!」
「我儘言うなって……」

嫌だとばかり繰り返す赤子にほとほと困ってしまった。気弱なチョウチンビは女という感情ごり押し魔の扱いには慣れていないのだ。

「……で、それか」

敷地を覆う結界の境目で立っていたキンシロウは、金魚を連れたチョウチンビを見下ろした。

「ご、ごめん」
「うちのチョウチンビがごめんなさい」
「我儘言ったのは赤子だろ?!」

誰のせいで頭を下げる事になっているんだと思いながらも、今回の討伐に参加する者達にぺこぺこと頭を振った。

「まあ、しょうがねえな。元々お前は援護専門だからなんとかなるだろ。金魚をしっかり守ってやれよ」
「金魚じゃないわ、赤子よ」

キンシロウ、ニギハヤヒ、そして一番後ろにチョウチンビと赤子。
雑談に盛り上がる前方とは対照的にチョウチンビは溜息を吐いていた。

「赤子が我儘なんて言うから」
「だって、アタイチョウチンビが何してるかしりたかったんだもの」
「そんなの面白くもないよ。だって、戦いなんて……。それにオラは……」

先程から豪快に笑って楽しそうにする前方の二人とは違うのだ。
だがそれは赤子に言う気にはなれず黙りこくった。赤子もまた何かを感じとったのか水を入れた竹筒の中でだんまりとしていた。
三人と一匹が一、二時間ほど街道を歩いていると十数体の悪霊の部隊にぶつかった。

「さぁて、行くぜ! 皆気合入れてけよ!」

先陣を切って飛び出したのはキンシロウだった。いつも敵を恐れず誰かが躊躇う「一歩」を平気で踏み出していく。

「ははっ、おれの手柄分は残しておいてくれよ」

物腰の柔らかなニギハヤヒも戦闘の時はきりりと空気が締まる。敵に対して容赦がなく刀に迷いがなかった。

「わあ! みんなかっこいいわね」

竹筒から出た赤子はのんびりとした口調で戦闘を眺めていた。

「赤子!! 下がってろ!」

緊張感のない金魚を懐に入れたチョウチンビは笛を取り出して曲を奏でた。

「(アイツらはとにかく硬いんだ。武器がなかなか通らない。吹き続けないと。オラの曲ではアイツらを倒せない。オラが出来るのは援護を音を止めない事だけだ)」

勇んでいったは良いが、悪霊の数はなかなか減らなかった。
相手の体勢を崩した所を狙っても、別の悪霊が飛び出して仲間を庇う。キンシロウが果敢に攻めていけば負傷度外視で悪霊が輪になって潰しにかかろうとする。
悪霊はしっかりと仲間同士で連携していて一筋縄ではいかなかった。

「くそ。こいつら、敵ながら見事なもんだぜ、って……チョウチンビ! そっちへ行ったぞ!」

キンシロウとニギハヤヒに背を向け、チョウチンビの方へ武器を振り上げた悪霊が近づいてくる。

「(駄目だ、悪霊が! 赤子!)」

懐に入れた金魚を抱くように身体を丸めた。

「左よ、チョウチンビ!」

赤子の声。チョウチンビは何も考えずに左へ飛んだ。
悪霊の攻撃が空を切ったのが見える。

「吹いて! 今よ!」
「っ!」

慌てて笛を落としそうになりながらも唇にあてて音を吹いた。
音は空気を裂き、やがて槍になって飛んでいく。それは悪霊の頭部中央へと突き刺さり、悪霊の身体が黒いもやと溶けていく。
塵は風にのって全てが消えていった。チョウチンビの攻撃が悪霊に届いたのだ。

「ぼんやりしない! 次よ!」

赤子の怒鳴り声にチョウチンビははっとして仲間を守るための曲を奏でた。



「すげぇじゃねぇかチョウチンビ!」

無事悪霊を殲滅するといの一番にキンシロウがチョウチンビの肩を抱いた。こんな事は今までに一度もなくチョウチンビはすっかり照れてしまった。

「オラじゃなくて赤子が。赤子言ったんだ。オラはその通りにやっただけで」
「またまたご謙遜をー。もっと馬鹿みてぇに調子乗って良いんだぜ」
「本当だって。な、赤子」
「そうなのかしら。アタイ、ちゃんと役に立ったの?」
「そうだよ。赤子。きみのお陰でチョウチンビだけでなく、おれやキンシロウも助かった。ありがとう」

高貴な者が浮かべるような笑顔を浮かべてニギハヤヒは賞賛した。
誇らしくなったチョウチンビだったが、赤子はふふと小さく笑みを返しただけだった。

本殿へ帰還すると、キンシロウはチョウチンビと赤子を執務室へ引っ張り、独神の前でチョウチンビと赤子がいかに優れていたのかをつらつらと語った。
自分の事を底なしで誉めたたえられる状況が嬉しくも恥ずかしく、すわりが悪く、チョウチンビは不格好な笑顔を浮かべたままもじもじと爪をなぞった。

「へえ。それは凄いね。お疲れ様だね、チョウチンビ、赤子ちゃん」
「お上よぉ、もっと褒めてやってくれって。チョウチンビが最後にばしっと倒したとこ、見せてやりえてなあ!」

お世辞ではなく本気でそう思ってくれているのは明らかだ。明るくて勇敢で自分の意見をはっきり言えるキンシロウに少し苦手意識があったチョウチンビも、ここまで褒めちぎられると評価が覆るというのものだ。

「凄かったんだね、チョウチンビ。君の勇姿をこの目で見れなくて残念だよ」
「主……」

尊敬している独神の褒め言葉がじわじわと心に広がっていく。自分の行いは凄い事だったと素直に認められる。

「でも、オラが凄いんじゃなくて赤子のおかげだ。だから赤子の事、褒めて欲しい」
「すげーぞ、金魚! いや赤子! 大したもんだ!」
「赤子ちゃん凄いね。初出撃、初勝利だ」

賞賛の先が赤子にあると、不思議とチョウチンビは嬉しく思った。自分と同じように。もしかしたら自分以上に、嬉しい。
なのに赤子は水の中でぷくぷくと言うだけだった。いつもなら「当然だわ!」とでも言うだろうに。

「どうした赤子。せっかく皆褒めてるのに。もっと喜んで良いんだぞ」
「アタイ、十分喜んでいるかしら」

ぴちょんと、水面からくるりと飛んで見せた。

「さて、少し聞きたいことがあってね。赤子ちゃんは予知でも出来るのかな?」
「違うわ。判っただけなの。だって悪霊がそう言っていたもの」

赤子以外が声を漏らした。独神の顔も険しく引きつっていた。すぐに元に戻ったが。

「君、悪霊の言葉が判るのかい?」
「ええ。…………ねえ、どうしたの? 皆だって判るでしょう」
「これはたまげたな」

とキンシロウが零すが、チョウチンビも驚いていて言葉を失っている最中だ。

「なるほど。言葉が判る、ねえ……」

何かを考え込んだ独神であったが、ぱっと笑顔を見せる。

「今日はお疲れ様。とくに赤子ちゃんはよく休んで。初の戦闘体験だからね、チョウチンビもよく赤子ちゃんを見るんだよ」

二人は真っ直ぐに部屋に戻った。赤子はぴちゃんと水鉢に戻って、オオクニヌシが作った家の中に入った。

「……赤子、どうした。元気ないよな。どこか痛いのか。オラ、ちゃんと守ってやれなかったか」

返事はない。やがてくぐもった小さな声が聞こえた。

「ちがうわ。チョウチンビはちゃんとアタイを守ってくれた。危ないときにアタイのことをちゃんとかばってくれたの、服の中でも判っていたわ」

ぶくぶく。ぶくぶく。
あぶくが上がる。

「アタイはこわかったの。みんなが戦っているのを見て怖くなったの。
 だって、もしあれがあたったらみんなはしんじゃうのよ?」

チョウチンビは沈黙した。
ぶくぶくぶくぶくあぶくぶく。

「だって、もしよ。もしあのままチョウチンビがあたってたら、チョウチンビはしんでしまうのよ。
 こわいわよ。こわいにきまってるじゃないの。だいじなひとがしんじゃうの。こわいとおもうのはとうぜんかしら」
「そりゃ判るけど……。だからオラたちは何人もで戦ってて。協力して戦って」
「何人いたって関係ないわ。しぬの。一歩まちがったらしんでしまうのよ。金魚とおなじでぷちゅっとしんじゃうのよ」

ぶくぶくぶく。ぶくぶっくぶくくくぶく。
もしかしたら、これは泣いているのかもしれない。金魚流には。と、チョウチンビは思った。

「そんなこと言ったって仕方ないだろ。八百万界を守るには戦うしかないんだから」

ぶくぶくと続く。チョウチンビは何も言わずに部屋を出た。

「(オラだって、いつも怖いさ。痛いのだって嫌だ。でも、しょうがない。しょうがないんだ。
 誰かがやらないと、八百万界は滅んでしまう。だから主と一緒に戦ってる。
 金魚は心配をすれば良いだけだけど、オラたちは違うんだ。
 戦わないと駄目なんだ。英傑は、戦わないと……怖くても……戦わないと)」

次の日。
赤子は家から出なかった。

「赤子。ご飯どうすんだ」

応えない。

「……水鉢ごと運ぶからな」

よっこいしょと持ち上げていると、目の前には長身の忍が立っていた。

「丁度良かった~。ねえ、あんたと金魚来てよ。独神ちゃんのとこ」

返事もしていないというのにフウマコタロウに無理やり執務室へと連れていかれた。

「おはようチョウチンビ、赤子ちゃんも……何か困り事?」
「え、主が呼んだんじゃ」
「僕が連れてきただけだよ。独神ちゃんもいないとあんたはついてこないだろうと思って」

嫌な感じがした。人族であるフウマコタロウは、なんとなく苦手だった。
人当たりはそれなりに良く、チョウチンビのいたずらにも手を貸してくれる。
しかし、なんとなく言葉に出来ない嫌な雰囲気があって、チョウチンビはどうもそれだけは慣れなかった。

「金魚を使おうよ、独神ちゃん。これがあれば人里にとけこんだ悪霊も判るでしょ」

かっとなって声を張り上げた。

「赤子は使うものじゃない!! オマエたちと一緒にするなよ!!」

言い過ぎたと気付いた時にはもう遅い。
フウマコタロウは気に留めた様子はなく笑っている。

「独神ちゃん。金魚の力で民草はもーっと平和に生きられるんだよ。
 悪霊に騙されて家族を皆殺しにされる事もない。
 悪霊の甘言にのせられて村を裏切らなくていい。
 裏切った後にまわされて殺されることもないよ。
 ねーえ、独神ちゃん。金魚一匹で救える命の方が多いんじゃないかと僕は思うんだけどなあ」

恐ろしい事を言う。水鉢を持つ手が震える。落としそうになり抱きしめた。怖い。
独神を見た。縋った。独神は、……独神も同じ事を言うのだろうかと。

「なるほど。君の言いたい事は判るよ、フウマコタロウ。
 ……だが私は赤子ちゃんを利用する気は毛頭ないよ」
「主……」

胸を撫で下ろした。やはり主はこんな人でなしとは違う。

「猫の手を借りたいとは常々零しているが、金魚のヒレを借りるほどではないよ。私はまだまだ働けるからね」

笑っている。

「独神ちゃん。本当にそれで良いの」
「いいよ。ちなみに何度も言わされるのは好きじゃないよ」
「じゃあ先日僕らがみつけた基地はどう攻略するつもり。それ、教えてよ。あんたの考えを聞かせて」

基地が何か、チョウチンビは知らない。

「引き続き他の方法を探そう。赤子ちゃんをわざわざ危険に晒す事はない」
「確かにね、使い捨ての僕らがいくら傷ついても構わないだろうさ。僕だって承知しているし文句はない。
 でもね実際問題僕らは攻めあぐねているんだよ。その間にも悪霊が増えていくし、新しい武器も開発されているかもしれない。
 それらが牙を立てる先は独神ちゃんの身体だ。対処が遅くなるほど首が絞まっていくのは独神ちゃんなんだよ?」

必死の形相での訴えにチョウチンビはぎょっとした。先程までの悪人面とはまるで違う。
独神の事を心配した姿は自分とは相違ないように思えた。けれど、だからと言って肯定は出来ない。
チョウチンビも同じく、この小さい金魚が大切だから。

「気遣いは嬉しいけど焦らないで」
「独神ちゃんはもっと焦ってよ!」
「のんびり屋なもんで」
「独神ちゃん!」

目の前のやり取りが遠いように思う。
チョウチンビがは独神に助けてもらう事はあっても、助ける事は殆どない。
見回りをして、何体か悪霊倒す程度。討伐で誰かを援護をして、悪霊を倒してもらうくらい。
ほんの少しだけしか独神の役にたつことが出来ない。けれど、赤子は……赤子は違う。

「(オラが赤子だったら、主を守ることだって出来たかもしれない)」

悔しくて情けなくて、チョウチンビはうつむいた。

「あてっ!」

水鉢から飛び出した赤子はチョウチンビに頭突いた。
そのまま宙を浮いてヒレをびしっと伸ばす。

「いいわ。どくしんちゃん、アタイが手伝ってあげるかしら」
「話が判るじゃん金魚ぉー」

嬉しそうなのはフウマコタロウだけだった。

「いや、私は困ってないよ。気遣いはいらない」

独神は笑顔ながら言葉は強かった。

「そっちこそ、かわいくないわよ。ひとの好意は素直に受けとれって知らないかしら。アタイ魚だけどね」

渋い顔は変わらない。

「君は脆い。金魚には危険だよ」
「大丈夫よ。でも強そうなひとに守ってもらいたいわね」

自分ではない誰かを求めた赤子にチョウチンビは耐えきれなかった。

「赤子を守るのはオラで良いだろ!」
「いいえ、チョウチンビはお留守番よ。アタイのおうちのこけをきれいにしてて」
「留守番は赤子のほうだ!」
「うるさいわね」
「赤子こそ金魚のくせにうるさくて」
「じゃあ二人で良いんじゃない?」

フウマコタロウがそう提案すれば、

「だめ」

と二人同時に言った。

「赤子は行かせられない」
「チョウチンビはいかせられない」
「なら二人とも行かなければいいでしょ」

独神があっさり言う。

「ふたりとも留守番。本殿の方を手伝ってあげて」

にこりと笑みを浮かべる。

「互いに相手が心配なんでしょ。なら二人でここにいなさい」

フウマコタロウが口を開こうとしたその時、ロクロクビが慌ただしく執務室に現れた。

「主さん! 大変、基地が動き出した! 悪霊が出てきてるの」

独神は顔を歪めて舌を打った。

「独神ちゃん、僕が行く」

そう言い残したフウマコタロウは迷わず出陣した。
チョウチンビを顔を引き締める。

「主、オラも行ってくる。主を守らないと」
「アタイもよ、どくしんちゃん。チョウチンビもあなたもまもってあげるわ」
「……すまない、苦労をかける」

独神が深く頭を下げると、赤子はふわふわと浮いて、額を押し上げた。

「りくくさいわよ、どくしんちゃん。
 みんな世界のために戦っているのでしょう。アタイだってここの仲間なんだもの。手伝うのはとうぜんのことなのよ。頭なんてさげるものじゃないかしら」

独神は眉を下げながらも、ほんの少し笑った。
チョウチンビと赤子はロクロクビに場所を尋ねて、基地とやらへ向かった。

「赤子、本当に良いのか?」
「いいの。アタイはおうちでおとなしくチョウチンビの心配をするより、いっしょにいってるほうが安心よ。だってチョウチンビにはアタイが必要だもの」
「そうだよな……赤子がいたからあの時だって」
「おばかね。また自信なくして。そうじゃないのよ。
 アタイのかわいいこのヒレじゃ、悪霊とは戦えないもの。チョウチンビがいないと、アタイはぺしゃんこよ。焼き金魚かしら。
 チョウチンビは強い子なんだから。こわい悪霊にたちむかえるゆうかんなこなのよ。だからもっと胸を張ってちょうだいな。あなたは赤子のことを守ってくれた素敵なひとよ」

赤子が言う言葉にじわじわと目頭が熱くなる。でも泣かない。胸を張った。

「赤子、よろしくな。オラを守ってくれ。オラも赤子を守るから」

ぷくぷくと赤子は笑った。

案内された場所は森の中。
木々以外何もないように見える。しかし一歩足を踏み入れると八百万界にはない建物が一瞬で視界に現れた。
施設周囲は悪霊たちが巡回している。周辺に遮蔽物は殆ど見当たらない。
隠れて進むことは困難だろう。それで忍が手こずっていたのだ。
先に着いていたフウマコタロウが息を潜めて言った。

「金魚には悪霊の会話を聞いてもらいたい。この巡回も交代制なんだ。そこまでは判っている。それ以上の情報が欲しい。施設の目的、配置された悪霊の数。なんでもいい。情報を得るにはあんたの力が必要なんだ」

真剣に言うフウマコタロウは本殿とはまるで違った。

「任せてこたろうちゃん。赤子はやればできる金魚かしら」
「頼もしいね。まずは僕が赤子を抱いて悪霊に近づく」

反対だった。赤子をフウマコタロウなんかに任せるのは。だが真剣すぎる横顔から一度は信用する事にした。

「赤子」

赤子はひょいとフウマコタロウの手の上に乗った。
二人を見送りチョウチンビは隠れながら祈った。赤子が無事でありますように。
ほどなくしてフウマコタロウが帰ってきた。

「赤子!」
「やあね、心配しすぎよ。でもわかったわ。ここは研究施設なの。悪霊をつくるための研究。だから最近言葉がとけこんでいるっていうのは、研究結果による改良型みたいなの。
 でもまだ大量生産までは至っていないみたい。要所に配置して社会に潜り込むと言ってたわ。それに研究データを──悪霊の作り方ね──それを別の研究所に渡したいそうよ。でもその情報を持った物がなくなったみたい……。だから今はちゃんとしたものは作れなくて生産が止まってるって」
「なくした? ……今が好機じゃないか。生産所自体を潰して、後からその作り方を悪霊より先に見つけて抹消すればいい」
「でも、作り方って何なんだ。なくすって……」
「そこは僕も引っかかる。そんな重要なもの無くさないよね。まだ僕らは襲ってもいないのに」

悪霊は交わりがなくとも増えるらしいとはチョウチンビもなんとなく知っている。
しかし料理のように作り方があるのはよく意味が判らない。紙にでも書いているのだろうか。

「二人とも急いで! 悪霊がこっちに来るかしら! 生体反応って言っているの!」
「やはり目に見えない侵入者対策をしていたか」

舌を打ってフウマコタロウが飛び出した。
チョウチンビも行こうとするが赤子は止める。

「違うわ。囮になりに行ったの。アタイたちは逃げなきゃ」
「でも置いていくなんて」
「言ってたの。情報は必ずどくしんちゃんに伝えなさいって。それがアタイたちの役目だって」
「っ……判った」

────人族の忍は嫌いだ。
そうやってすぐ自分を囮にする。自分だったら怖くてそんなこと出来ない。なのにいつも奴らは迷わず危険に飛び出していく。
同じ英傑でも自分はそうなれない。囮も殿《しんがり》もどちらも震えてくる。
赤子を懐にいれて逃げだした。
一心不乱に走る。────しかし

「チョウチンビ! 悪霊が!!」

どこから現れたのか判らない悪霊がチョウチンビを襲う。

「逃がす気はないって!」
「わかってらあ!」

赤子を守るために笛を拭いた。自分の守りを強化する音色で、相手を音で裂く。
だがこれといって効果はない。相手の装甲に多少傷が入った程度だ。

「オラなんかじゃ」
「今は逃げるのが目的かしら。倒すのが無理ならそれでいいのよ。どくしんちゃんならそう言うかしら」
「うう~」

赤子も嫌いだ。言葉にしなくても何もかも読まれていて。
チョウチンビが弱虫なことを知っていて、だから戦うより逃げる方が重要だと言うのだろう。

「チョウチンビ!」

懐からよじ登ってきた赤子が首をぺしんと叩いた。

「落ち込むのはあと! アタイたちは早くどくしんちゃんの所へ行くの!」
「判ったぁ……判ってるって!」

気が強くてこんな時でも冷静で。しかし赤子は震えていた。それでもチョウチンビを元気づけた。
チョウチンビももうぐだぐだとは言っていられない。赤子を守らなければならなかった。災いが降りかかるかもしれない主を守らなければならなかった。

「……え、どうして」
「どうした。アイツら何だって!?」
「逃げた・実験動物だ・成功例だ・捕らえろ」
「捕らえろぉ?」

追いかけてくる悪霊たちがいつのまにか増加していた。大群はチョウチンビにばかり向かってくる。

「ひええ!? フウマコタロウは!?」

後方で悪霊が爆殺されている。近くにフウマコタロウがいるのが判った。

「チョウチンビ! 突然こいつら君に標的を変えたんだ! 何をした!?」
「知らないよぉ!!! オラはただ逃げてるだけで」

代わりに赤子が叫んだ。

「悪霊はアタイを狙っているの! 実験動物だって! 成功例のアタイが新型悪霊の作り方そのものなの!!」

二人は驚いた。先にコタロウが目を細めた。

「了解。ならあんたたちを必ず逃がす。二人は真っ直ぐ走れ、振り返るな、絶対に」

チョウチンビの傍から離脱。辺りには煙幕が広がった。
背後から悪霊の悲鳴が聞こえ、木々が倒れる音もする。
だがチョウチンビは最後まで走った。赤子を抱いて走った。
フウマコタロウの事を考えないように。走った。



本殿に着いた時にはへとへとだった。
途中からやってきた援軍と合流出来、二人の帰還を助けてくれた。
そして独神に全てを報告した。

「……なるほど」

とだけ言った。独神の考えは判らない。

「どくしんちゃん、アタイはすぐにここから出ていく」
「なんで!? 赤子が狙われてるんだぞ! ここで大人しくしてろよ」
「だからだわ。アタイがいなくなれば少なくともここは狙われないかしら」
「駄目だ! そんなの駄目だ! 忍と一緒だ! 自分だけ犠牲になればいいって、そうやって弱くて駄目なオラを守ろうとする! そんなの絶対に駄目だ!」
「我儘を言うものじゃないかしら。……」

赤子は水の中から飛び出す。が、独神に捕まえられる。

「早まるねぇ」
「どくしんちゃん放してちょうだいよ」
「いいや、拒否するね。君もずいぶんおばかなことをするもんだ。泣かしちゃ駄目だよ」

赤子が見るとチョウチンビは泣いてた。鼻をすすって、大きな目からは大量の涙がしたたり落ちる。

「チョウチンビ……。でも駄目。皆を危ない目に合わせられないかしら」
「その“皆”とやらに自分を入れないのは、金魚も人も同じだねえ」

独神はのんきに笑う。

「同じ屋根の下で生活している全員が私の庇護下にある。君は災いを運ぶ実験動物ではない。皆を守る金魚英傑さ。……心持ち次第でね」

ぽちゃん、と水の中に赤子を戻した。

「私は皆に幸せになってもらいたいんだ。皆の力で、皆を守ろうじゃないか。互いに互いを守っていけばなんとか無事でいられるんじゃないかな」
「まーた独神ちゃんが意味の判らないこと言ってる~。理想論が過ぎるよ、ほんと」
「フウマコタロウ! 無事だったのか!?」
「当たり前でしょ。風魔の頭領だよ? 君たち足手まといがいなくなれば僕の独壇場さ」
「こたろうちゃん……」

赤子が水から出てきてフウマコタロウの目の前まで泳いできた。

「ありがとね。チョウチンビとアタイを逃がしてくれて、ありがとね」
「君たちを走らせた方が生存率が高いと判断しただけさ。情報もこうやって届けられたしね。
 戦場二度目の初心者金魚と違ってこちとら数千の戦を生き抜いた腕利きの忍だよ?」

得意げに言う。

「君こそ、金魚の癖によく頑張ったね。鬼火の彼より英傑してるよ」
「う」

痛い所をつかれる。

「そんなことないわ。チョウチンビはアタイが潰れないように守りながら運んでくれた。立派な英傑かしら」

赤子の褒め言葉にどうしていいか判らなかった。

「さて、とにかくお疲れ様。二人は休憩だ。ゆっくり休むんだよ」

部屋を出ると、フウマコタロウと独神が何やら話している。適当に頷いている独神が廊下から見えた。
きっと赤子の事を話しているんだ。
そう思うと足取りが重かった。でも竹水筒の赤子が黙っているから部屋に連れて行った。

「赤太、ただいま」

竹から飛び出した赤子は、水鉢へ飛び込みくるくると泳ぐと硝子越しに人形に挨拶した。

「独楽夫もただいま」

独楽に話しかけている。すっかり赤子の家族だ。

「赤子、大丈夫か」
「平気よ。でも少しお腹がすいたわね。おやつにとっておいたぱんをいれてちょうだい」

ぱんを千切ってぱらぱらと入れてやる。
水の中にはいたからからのぱんはじわじわと水を吸ってふやけていく。はむはむと赤子は食べた。
まるで金魚のように。

「チョウチンビもおやつでも食べると良いかしら。甘いものって良いそうよ。
 落ち着くってオツウちゃんが言ってたの。
 討伐で怖い思いをしたらゆっくりお茶を入れてゆっくりおやつを食べるの。本殿に帰ってきたって身体に教えてあげるの。
 そうしたらだんだんと怖いのでいっぱいになるって」
「……うん? いっぱいになっちゃ意味ないんじゃないのか」
「いっぱいになったら、他の子とお話しするんだって。
 お着物のお話をしているとね、自分が今は日常にいるんだって刷り込むことが出来るんだって」

オツウもチョウチンビと同じく戦闘が得意な英傑ではない。だが弱音を吐くことは殆ど見た事がない。
こんなことを思っているとは思いもしなかった。もう慣れたものだと思っていた。
自分たちは英傑で、戦うのが当然のことだから。

「チョウチンビ」

赤子はふよふよと浮いた。

「お話、してちょうだいよ。おにびちゃんも隠れてないで出てきていいから」

鬼火が影から出てきた。赤子が来てから乾燥させないように鬼火には距離をとらせていた。
好奇心旺盛な鬼火は赤子が気になっていたが、自身のせいで焼かないようにと不用意に近づかなかった。
でも赤子はそんな事もちゃんと見て知っていたのだ。

「オラ……話は上手くなくて……」
「いいのよ。噺家じゃないんだから。チョウチンビの好きなものの話でいいの」
「オラが好きなもの……。やっぱり人に驚いてもらえた時だな」
「変な趣味ね……」
「そ、そう言われたって、オラは人を襲う妖ではないからな……。
 恐怖は糧にならないし、オラはあの驚いた瞬間、意識が途切れて出来たスキマにオラの存在が入り込むのが好きなんだな」
「……チョウチンビって変なひとなのね」
「変じゃないって! 妖なんて皆そんなもんだって!」

妖はそれぞれの出自によって思考も嗜好も全く違う。ひとりとして同じ個体はなく、他者と違う事が当たり前の種族だ。

「や、ヤマオロシだって毎日ネギネギ言っておかしいだろ?」
「ネギが好物ならしょうがないかしら」
「なんでそれはしょうがないなんだよ。ほらツチグモなんてそのへんの奴襲ってんだぞ」
「でも妖ってそういうものじゃないの?」
「そうじゃねえって! アイツがおかしいからな! 物騒だ」
「物騒ねえ……」
「ハンニャだって変だろ? いっつもいっつも恐怖ばっか探して。おっかないことばっかりで」
「でも彼女は何か悲しいことがあったのでしょう? しょうがないわ」
「なんでだ!? そうだ! 天狗なんて辛い修行ばっかやってておかしいだろ? 法力求めて何になるっていうんだ」
「修行で己を律することは悪くないと思うかしら。位の現れなのでしょ、法力がものさしなのだわ」
「ミコシニュウドウなんて大きくなって脅かして食べるんだぞ!?」
「お腹が減ったら赤子だってなんでも食べるわ。そういうものでしょう」
「なんで!?! オラ以外の方がよっぽどおかしいのに」

ぷくぷく笑う赤子。

「チョウチンビは素直ね。大丈夫よ。赤子の方がよっぽど変よ。だって喋る金魚だもの」

声が小さくなっていく。

「悪霊が作った……実験動物なのだもの……」

ぷくぷく。

「どくしんちゃんは言ってたわ。それでも心持ちで違うんだって。
 でも今のアタイはただの金魚だわ。皆に迷惑をかけるだけの実験動物なのだわ」
「そんなことない!」

ぷくぷく。

「赤子は悪霊の言葉を聞いてオラに指示をくれた。悪霊の言葉を聞けるのは赤子だけだし、赤子は特別だ。特別な金魚なんだ。オラよりも、」

チョウチンビは少し、考えた。
赤子がいつもいっていた。チョウチンビは立派だと、勇敢だと。
ここで自分が否定したら赤子がやっていることと同じだ。
だから、自己否定の言葉は呑み込んだ。

「いや、オラと同じく、主に仕える英傑だ」

手を出した。

「一緒に主と、この八百万界を守っていこう!」

鬼火たちもぽすぽすと跳ねている。

「……アタイは立ち向かえるかしら」
「出来る。これまでも出来てた! だから自信持て」

そう言うが、黙りこくる金魚を見ていると自分の発言に自信がなくなってくる。

「……オラだって自信はない。ここには強い奴が多くて、オラなんて全然。弱くて、逃げ腰で、庇ってもらってばかりで。
 ……でもそんなオラを赤子は勇敢だと言ってくれた。オラはこんなだからさ、赤子が元気づけてくれると助かる。
 代わりに赤子が元気ない時はオラがいくらでも元気づけてやる。だからオラの為にも一緒にいてくれ」

頬の熱を感じた。自分が恥ずかしい事を言っている事にそこで気づく。
赤子もぷくぷくといって、水鉢に入った。

「赤子……」

駄目だったのだろうかとチョウチンビは不安になった。

「……赤太、独楽夫、チョウチンビったら変なのよ。とっても変。
 アタイを必要としてくれるの。ただの金魚で実験動物のアタイを。
 ほんとに変よね。趣味が悪いわ。いたいけな金魚を口説くなんて」

「くど!?」
「でもそうよね。どくしんちゃんも言ってたわ。互いに守りなさいって。助け合うってこういう事よね。適材適所ってやつよね。多分ね」

水鉢から出てきた赤子はわざとらしく溜息を吐いた。

「はあ。チョウチンビにはアタイがいてあげないとね」

更に続ける。

「……アタイにも、チョウチンビがいてあげなきゃ駄目なのよ」

身体をこてっと傾けながら赤子は言った。多分「小首を傾げる」真似をしているのだ。金魚に首などないというのに。

「そうだな。オラがいないとな。赤子を運ぶのはオラの役目だもんな」

透き通る胸ヒレを右の人差し指と、左の人差し指でそっと掬い上げた。まるで赤い衣を纏った少女の両手を握るように。





「おはよ、赤子ちゃん」
「おはようかしら」
「お、赤子。今日もいいつやしてんな」
「当然かしら。でもありがとう」
「赤子さん、気をつけないと
「ありがとう。やさしいのね」
「赤子ちゃん、おはよう。ちょっとヒレを借りたいんだけどいいかな?」
「もちろんよ、どくしんちゃん」
「さっすがだな赤子は」
「今日もありがとな」
「いいのよ。役に立ててうれしいわ」

そらとぶおしゃべり金魚は、すっかり本殿の一員だった。

「……赤子、大丈夫か」

赤子が部屋に戻ると、チョウチンビが正座をしながら赤子をじっと見つめた。

「なに。嫉妬?」

ころころと笑って赤子は水鉢へ飛び込んだ。

「そんなのじゃないって。赤子最近疲れてるなって」
「どうして?」

砂利の敷物の上に寝そべる赤子は尋ねた。

「……最後に赤太と話したのはいつだ? 独楽夫と話したのは?」
「チョウチンビがいないところで話してるわよ」
「赤子、最近飯あまり食べてないだろ」
「お菓、」
「おやつも食べてない」

……。
ぷくーっと大きなあぶくを吐いた。

「……ここの生活は嫌いじゃないわ。でも。きっとこうしている間にもアタイみたいな金魚が生まれるのよ。
 アタイは偶然助けてもらった。けど他の子はどうかしら」

赤子以外の喋る金魚は見つかっていない。赤子を逃がした実験施設以外の施設もまた今のところ発見されていない。
八百万の民に溶け込む悪霊に悩まされる事も減少傾向にある。

「……また虱潰しに一つ一つ倒していけば」
「そうよね」

同意、とは言い難い呆れを滲ませた返答である。

「……アタイは金魚。でも喋ることが出来る。だから特別なの。特別目をかけてもらってるの。
 でも普通の魚は、魚でしかないのよ。皆にとって護るべきものは神であり妖であり人であり。
 ……その中に魚はいないのよ」
「で、でもオトヒメサマとかは……」
「そうよね。魚を大事にしてくれるひともいるわ。でも……それって一部よね。魚を心配しているのはアタイだけなのよ」

当然だった。魚は守れたらいいな、であって、絶対的守護の対象ではない。
チョウチンビにとって魚とは食べるもの。金魚とは池で見るもの。
唐突に突き付けられた価値観の違いに堪えきれず、チョウチンビは何とか言いたくて仕方がなかった。

「でも。でもさ……でも……」
「ううん。みんなを悪いとは思っていないの。だって、みんなは魚とお話出来ないもの。……そうね悪霊もそれはいっしょね」
「一緒なんかじゃない!!」

魚は魚。
悪霊は悪霊。
別のものであって、一切の繋がりはない。あってたまるかと否定する。

「でも、言葉が通じない相手は仲間とは思わないでしょ。思ったとしても一部の固体だけよ」
「……赤子、どうしたんだよ。なんでそんな難しい事考えてるんだ」
「ここにきて考えたの。いっぱい。あれいちゃんが本の内容を教えてくれたこともあった。それで思ったの。
 アタイがやりたいことはなんだろう。アタイにしかできないことってなんだろうって。
 だって実験動物なのよ。アタイのせいで皆が守らなきゃならなくなって、アタイが生まれて成功しちゃったから皆は悪霊の変装が見破るのが難しくなったのよ」
「……」

何か言いたいのに、やはり言えなかった。
赤子の言ったことは全て事実だったからだ。

「だったらアタイは自分が生まれた償いとしてもっと役に立たなきゃ。ここで楽しく過ごすだけで良い……なんて駄目よ……そんなの」
「良いに決まってるだろ! なんでそんな余計な事考えるんだ」
「余計な、こと?」

赤子がまぶたのない瞳でじっと見る。

「チョウチンビは胸が痛まないの? 例えば自分と同じ妖族が今もどこかで苦しんでいる事」
「い、痛いに決まってる……。遠征でオラと同じように力の強くない妖はいっぱい見てきた。死んでるのも、沢山……」

同族が血を流して地に伏す光景を思い出すと、不思議と気分が落ち着いてきて、言葉が自然とこぼれ落ちていく。

「……思ったさ、皆を救いたいって。だって悲しいし、それに救えたらかっこいいからな。
 でも、ここに来て主と一緒に戦ってたらそれが難しいのが判った。手も足りない、目も足りない、オラたちの身体は一つしかない。
 だったら、出来る事だけをした方が良い。ここにいれば出来る事を無理のないように主が指示してくれる。
 オラたちはそれに従えば良いんだ」
「……本当に、それでいいの。どくしんちゃんに全部任せて……いいの?」

水の中に手を突っ込み、袖が水に濡れるのも構わず赤子を両手で掴んだ。

「なら言ってやる」

チョウチンビは顔を歪めて泣いていた。

「ここには頑張ってる奴が沢山いる。頑張り過ぎて怪我をした奴もいっぱいだ。
 知ってるか、新しい悪霊が出始めた時。
 民も皆も助けなきゃって飛び出していた奴ら、それも皆オラなんかよりずっと強い奴らなのに大怪我して帰ってきた。
 いや、帰ってこれなかったのをオラたちが運んだんだ。
 息も絶え絶えで今にも死にそうだった。血が汗みたいにだらだら流れて、身体の肉が崩れたり、指や手足がない奴だっていた。
 怖かった。地獄だと思った。
 それを全部主やアカヒゲやスクナヒコやフクロクやジュロウ、ショウキ、ヒエダアレイやヤヲビクニ、他にも大勢がろくに寝ないで治癒していったんだ。
 治すってどんなものか判るか。薬を塗って包帯を巻いて終わりじゃないんだぞ。
 あの時は本当に誰かの血や肉の為に、皆が自分の血肉を差し出したんだ。
 怪我した奴と同じぐらい痛い思いも苦しい思いもして、全員を治療して助けたんだ」

ぼとぼと、チョウチンビの手や顔から水が落ちていく。

「一人で飛び出したって駄目なんだ。手柄の為でも主の為でも。
 ちゃんと笑ってただいまとおかえりが言えないのは絶対に駄目だ!
 傷ついた分、ここの奴らはそれ以上に傷ついても助けるから。誰かのためにも自分は無事でいないと駄目なんだ。
 もし赤子が死にそうになったら、オラたちはどうすると思う?
 魚だからほっとくのか? それとも、一か八かでも方法があるなら無理して助けるのか?
 オラだったら……例え悪霊の根城にだって治す方法を探しに行くに決まってる」

両手での拘束を解き、チョウチンビは袖で顔をごしごしと拭いた。
真っ赤な顔を更に真っ赤に染めるチョウシンビを赤子はふよふよと眺める。

「……変なひとたちね。金魚はそんなに……仲間の為にそんなことまでしないかしら。弱肉強食が常なのだもの」
「変かもしれない。オラだって痛いのも怖いのも嫌だ。討伐で逃げた事だってある。
 ……でも、本殿の奴らが苦しんでたら助けなきゃって思うし、思ったら、怖くても……泣きながらでも、足が動くんだ」

真っ赤な目をして真っ赤な顔して、まるで金魚のようになったチョウチンビは大きな瞳で赤子を見据えた。

「誰かに心配されるような事は間違いだ。やりたい事があるなら、オラに秘密にすることのないような、心配されないようなことをしてくれよぉ……」

またぶわっと出てきた涙を、ごしごしと袖で拭った。きりっと決めてもまたじわじわ涙が出る。

「……ちょっと、一人にして欲しいかしら」

チョウチンビは「判った」と頷き部屋を出た。その晩、遠慮がちに話しかけてきたバクの部屋で眠った。
朝になってすぐ、チョウチンビは蒲団を片付けて自分の部屋に戻った。
水鉢は空だった。
頭のてっぺんが熱くなり、すぐさま部屋を出た。廊下を全速力で走っていると思い切り誰かにぶつかった。
痛いと同時に何やら柔らかい感触もあって一瞬気が削がれた。

「おっと、チョウチンビか。走ると危ないよ」

独神だった。肩には赤子がいる。

「赤子!」
「なんだ、彼女を探していたんだね。彼女も君に話があるそうだよ」

赤子はすいーっと独神の掌に乗った。

「チョウチンビ……やっぱりアタイはここを出ていくわ」
「なんで!? オマエ昨日オラが言」
「待て待て。まずは聞いてからだ」

独神に宥められ大人しく黙った。赤子はうんと一回頷いた。

「罪悪感抜きでも、アタイはやっぱり他の金魚や魚を助けていきたい。
 アタイは魚も人も悪霊の事もわかる特別な金魚だもの。きっと出来るわ。
 けど、無理はしないかしら。どくしんちゃんと連絡して、チヨメちゃんの仲間や各地の英傑ちゃんたちに沢山助けてもらうつもり。
 戦わない代わりに情報だけ探っていくのよ。ちょうほういんってやつかしら」

ふふっと赤子が笑う。チョウチンビの顔は険しい。

「でも一人で、もし水のないところへ行ったら」
「行かないわ。一匹では水辺のあるところしか行かないの。水のない所はちゃんと誰かの手を借りるわ」
「でも戦に巻き込まれたら」
「戦は突然勃発するものじゃないわ。ちゃんと予兆がある。情勢は念入りに調べてから行動するかしら」
「でも。魚一匹だ」
「一匹じゃないわ。皆に助けてもらうの。どくしんちゃんにも全部伝えるもの」
「でも…………オラは…………オラが寂しいじゃないか」

一番の理由をかっこ悪くても言った。引き止められるなら恥なんていくらでもかけると思った。
手のひらにいた赤子がぴろぴろ泳ぐとチョウチンビの顔をぺしっと叩いた。ヒレの平手打ちなんて全く痛くない。

「今生の別れでもないのに大袈裟かしら。チョウチンビはアタイを大事にし過ぎて困っちゃうかしら」

赤子はまた笑った。声は震えているのに。

「ほんとにばかね。アタイは死なないわ、死なないのだわ。
 だってアタイをこんなに大事に思うひとがいるんだもの。
 チョウチンビ言ったでしょ。
 笑顔でただいま、おかえりが出来なきゃだめよと。だからアタイちゃんと約束を守るわ。悲しい思いはさせないかしら。
 だって、だって、大事なひとを泣かせるのは、悲しいもの。アタイのことでなかないで、笑ってほしいかしら。
 すぐに帰ってくるわ。アタイが笑顔でただいまって言ったら、チョウチンビ、言うのよ。おかえりって、笑顔を忘れちゃ駄目かしら。
 絶対よ、約束よ」

赤子が涙を流したように見えた。金魚には瞼も涙腺もないのに。

「……金魚の癖に、オラよりもずっと考えていて、オラはなんでこんなに、金魚の赤子より小さいのかなぁ……」
「ばかね。ただ闇雲に走るだけが偉いわけじゃないかしら。
 怖い気持ちも、嫌な気持ちも、ちゃんと自分の声に耳を傾けるチョウチンビはとっても偉いかしら。
 流されているわけじゃなくて、ちゃんと自分で泳ぐ方向を決めていて偉いのよ。
 心配かけないように、自分を大切にして生きるのって大事よ。……これ、アタイの命の恩人の言葉よ、とってもとっても優しいひとの言葉よ。
 アタイ一生忘れないかしら」



────金魚はいなくなった。
チョウチンビの部屋には水のない水鉢がある。周囲にはどこで買ったか忘れた玩具の人形に独楽が置いている。
最近赤べこが増えた。こけしも新参者だ。まるで飾り棚のように我楽多たちが水鉢を囲む。

「チョウチンビ、また赤子ちゃん見てるの?」
「シラヌイ!? なんで勝手に入って来たんだ!?」
「ええ!? だってさっきから何度も呼んでたのに……」

チョウチンビは水鉢に目をやった。

「赤子は今、越中にいるって主が。魚が採れないって漁師が嘆いているのを聞くと複雑だって言ってた……って、オオワタツミが言ってた」
「遠征で会ったんだね」
「ああ。元気にしてたって」
「チョウチンビは、会わないの。主様に言えば遠征先で会えるよね?」

沈黙。シラヌイが謝ろうとすると、突然笑い声があがった。

「今日の遠征、加賀に向かえって言われたんだ」
「加賀? ……あっ!」

シラヌイはくすくす笑った。

「会ったらまずどうしようか悩んじゃうね」
「いいや。もうやる事は決まってる」

にっこりと笑顔を浮かべた。

「オラすっごく楽しみだ!」