ヌラリヒョンと私


〇十一月二十一日

真夜中過ぎても、私は眠れなかった。
おやすみと言ったは良いが、寝返りを繰り返してひどく落ち着かない。

ぬし

小声でヌラリヒョンが呼ぶ。
そうだ。最近一緒の部屋で寝るようになったんだった。
気配が無さ過ぎて忘れていた。

「儂と夜中の茶会でもどうかな?」

うん。と頷いた。
起き上がって、明かりに火を灯す。
蝋燭の揺らめく炎が部屋を優しく照らしてくれる。

「冷えるから何か羽織った方が良い。その間儂が用意しよう」

そんなの悪いから、と立ち上がる事を阻まれた。
何もするなと。私は指示に従い、布団の上に広げていた長羽織に腕を通す。
この時期は綿入りのものばかり着るので着ぶくれして肩がこる。
長火鉢にも火を入れた。こうしておけば湯を沸かせるし蒸気で部屋を温まる。

「主。待たせたな」

ヌラリヒョンは薬缶やかんを火鉢にかけ、持ってきた湯呑や茶筒を置いた。

「寒い寒い」

そう言って、蒲団に足を入れてる私の横にやってきた。
冷え切った足裏が蒲団に潜りこみ私の足に触れた。あまりの冷たさに私は小さく声を上げる。

「ははっ。すまないな。廊下は冷たくてな」
「ううん。いいよ。好きなだけ温まって」

滑らかな肌が私の足にすり寄ってくる。
私も足先でちょこんと彼に触れると、彼もまたそれに応えた。
素足のじゃれ合いをしている間にヌラリヒョンの体温も上がってきた。

「そろそろ頃合いか」

薬缶のお湯でお茶を淹れてくれた。
礼を言って受け取ったのだが、あまりに熱くてお盆の上に置かせてもらった。

「主の柔肌では持てぬか。なら冷めるのを待とう」

寒い部屋だ。多分すぐに冷えることだろう。
ヌラリヒョンは私の腰に手を回した。

「良いか。其方は真面目に考えすぎる。
 もっとのらりくらりとして良いのだぞ。
 この儂のようにな」

頷けなかった。頭では理解しているのだが、私はいつも考えすぎてしまう。
そして足が竦んで動けなくなる。

「世間で何があろうとも儂がいる。これは変わらぬ」

黙っていると湯呑を渡された。もう冷めている。
飲むと喉の奥が温まり、お腹までがぎゅっと熱くなる。

「今日は同じ布団で供に寝よう。朝まで傍についている。
 大妖怪と呼ばれるこの儂がな。
 ……だから、安心しておやすみ」

湯呑をお盆の上に片付けた。
火鉢にはまだ暖が残っている。
ヌラリヒョンは長羽織を脱がせ、少し身体が軽くなった私を抱きしめそのまま蒲団へ倒れ込んだ。
何かを言おうとすれば、彼は小さく口付けた。
私が飽きるまで戯れに付き合ってくれた。

「好き」

ヌラリヒョンに耳打ちすると、私の中のもやがすっと消えていった。



〇十一月二十二日



仕事へのやる気がない時だってある。
そういう時、ヌラリヒョンは一言「仕事は良いのか?」と言う。
咎めているわけではないのだが、なんとなく居心地の悪さを感じる為、私は黙って作業に取り掛かる。
黙々と作業を続け、区切りがついた頃に、ことりと湯呑が机の上に置かれる。

「お疲れ様。休憩にしよう」

茶菓子も当然用意してくれている。
私が好きなもの。ヌラリヒョンが好きなものではなくて。
食べていると、ヌラリヒョンが私の頭を撫でた。

「よく頑張ったな。主はやれば出来ると儂は知っておるよ」

すべき事をするのは当たり前。
でもその当たり前を褒めてくれるヌラリヒョンに私は少し恥ずかしくなった。
そんな私を無言で撫で続ける。優しいをくれるばかりの大きな手が、好き。





ヌラリヒョンは話好きだ。
話せば長くなる、とよく言うが本当に長い。
生きている時間が長い分所持している話題が多すぎるのだ。
だからと言って、自分ばかりが話して聞いてくれないわけではない。

「あのね」

きっとヌラリヒョンが興味のない事、知っている事。
そんな事ばかり話す私に、ヌラリヒョンはいつもうんうんと頷いた。

「そうやってなんでも儂に教えておくれ」

私は素直になんでもヌラリヒョンに話す。
下らない事、オチのない話、前にも言った話。
なのにヌラリヒョンはいつも、優し気な眼差しで私の話に耳を傾けてくれるのだ。

「そういう所……好きだよ」





「今日は鍋か。良いな鍋は。大勢で騒げるし、何より身体が温まる」
「ヌラリヒョンは何が好きなの?」
「何でも食べるが……葉物はよく食べるな。この時期畑に沢山出来るから儂に限らずよく食う事になる」
「じゃあ春菊あげる」

取り皿に入れると、ヌラリヒョンは少しだけ顔をしかめた。

「……嫌いだった?」
「いやまあまあだ」

その後そっと観察していたが、自分から入れる事はなかった。
子供は苦手な者も多い春菊であるが、あの独特な味わいが大人になるにつれてくせになる。
と、思ったのだが、ヌラリヒョンはそうでもないらしい。
時々、彼が子供に見える。



〇十一月二十三日



「みんな遠征に行っちゃったね」

随分本殿が静かだ。こんなことは珍しい。
戦に限らず、収穫や祭り、復興、遊び、修行等、様々な理由で英傑は外出する。
それでも、執務室までひとの声がしないのは極めて稀有な事なのだ。

「つまりそれは、二人きりという事だな」

何気なく放たれた言葉に私は意識した。

「……そう言われると照れるね」
「照れさせてしまったか」

してやったり。そんな表情を浮かべているのが見ずとも判る。

「……すきって……言っても良い?」
「勿論だとも。遠慮するでない」

私は顔は伏せたまま、目だけヌラリヒョンを見た。

「好き」
「儂も其方が好きだ。共にい続けよう」
「うん。ありがとう」

不思議と視界が揺らぐ。
じわりじわりと浮かぶ涙をヌラリヒョンの妙に若々しい指が拭う。

「泣き虫な主も嫌いではない。だが、儂の前だけでな」

うんと頷いた。
ヌラリヒョンの前では私はただの小娘になる。





少し気になる事があった。
英傑達の報告の中で、なんとなく違和感を覚えるもの。
風呂に浸かって折角温まった身体が冷えていくことに構わず情報を確認していた。

「確認してどうだった」

ヌラリヒョンは身体から熱を発しながら尋ねてきた。
毛先から落ちる雫を拭ってやりながら、私は「なんとも」と答えた。

「儂がいれば其方にそんな想いはさせぬのだがな」
「ううん。こうやってお話してくれるだけで本当に嬉しいよ。ありがとう」

この討伐にヌラリヒョンは一切関与していない。
私たちはなんでも話すが、それでもやはり全ては話していない。
こと討伐において、混乱を避ける為に敢えて言わない事もある。
ヌラリヒョンは毎度私の様子を観察し、聞くか聞かないかを判断している。
今回は聞かない。
私が黙って執務に取り掛かった事にも何も言わなかった。

しばらく執務を行い、眠気を意識した頃に止めた。
ヌラリヒョンは自分の蒲団でぼうっとしていた。

「そろそろ寝られそうか」
「うん。おやすみなさい」
「おやすみ。また明日其方に会えることを楽しみにしておるよ」

私たちは同じ部屋で別々の蒲団に寝る。
寒い時期は一人ずつで寝た方が温かいし、就寝時は一人でいたいので私たちは自然とそうしている。

私は隣の蒲団に声をかけた。

「好きって聞きたい」

もぞもぞと蒲団が動き、私の方へ顔を見せた。

「愛している」

息が止まりそうになった。

「ありがとう。私もあなたのこと大好き。だからずっといてね。傍にいてね」
「無論だ。儂を傍に置いておくれ」
「大好き」
「ああ。儂もだ」

急に目が冴えてきた。胸だけがとくとくと早鳴る。
私は自身の蒲団を抜け出し、ヌラリヒョンの蒲団に足を滑らせた。
ヌラリヒョンは私を抱きしめながら蒲団をしっかりとかけてくれる。
二人でも、温かい。



〇十一月二十四日



「おはよう。今日は何をする予定だ?」
「掃除。気分転換も兼ねて」
「なら、儂は面白そうな相手を探してくるとしよう」
「いってらっしゃい」

ヌラリヒョンを見送り、私は身の回りの掃除を始める。
掃除は義務ではない。外で軽々しく「部屋汚いな~」と言えば誰かがやってくれる。ありがたいことに。
だが私はいつも執務室と自室(寝室)は自分で掃除をする。
外に出ず身体を動かせる掃除はちょうどいいのだ。
だからヌラリヒョンも手を出さず、邪魔にならないようにどこかへ行ってくれる。
頼んだわけでもないのに。いつもそうやって察してくれる。

書類をまとめたり、座布団を外に出したり、硝子を拭いたり、箒で塵を飛ばしたり。
ああそうだ、蒲団も干しておこう。
そうやって無心で掃除をしていると、影でずっと見ていたかのように丁度いい時にヌラリヒョンは顔を見せる。

「進捗はどうだ」
「今終わったところ」
「偉いな、主は。茶でも飲むか?」
「うーん……。もうちょっと。もうちょっとだけする」
「主は働き者だな。では、儂はここで待たせてもらおう」

少し気になった所だけをさっさと片付けていく。
ヌラリヒョンは何をしているんだろう。
ふと気になって目を向けると、だらりと胡坐をかいて机に肘をついていた。
目が合う。私はすぐに逸らして作業に意識を戻す。
早鐘を打つ胸を落ち着かせるために、ふっと息を吐く。
急に作業が億劫になったので、ぱっと見だけを整えてヌラリヒョンの前で膝を折った。

「終わったよ」
「お疲れ様」

撫でてくれると私の瞼は少しずつ重くなっていく。





届いた瓦版に目を通していると、全く共感できない納得できない記事があった。
意見は自由。社名を背負って名前を出して発言するのであれば何を言って良いと思う。
最終的に責任の所在がしっかりしているのならば。
それでも、独神としては納得いかなかった。
呼吸が浅くなっていくのが判る。こういう時は感情に呑まれる。
耳に入る音に集中し、自分の思考や感情から意識を逸らす。

「主」
「なに」

中途半端に怒りを滲ませてしまった。失敗した。

「儂ならいくらでも聞いてやるぞ。儂は其方を独神と見る事も、見ない事も出来るからな」

立場を気にして発言を制限しなくて良い。
ヌラリヒョンはよくそう言う。
私は、思ったことを全部吐き出した。
冷静さの欠けた感情論を吐露した。多角的に物事を捉えず私だけの視点で詰った。
きっと醜い顔をしていただろう。
しかし、ヌラリヒョンは涼しい顔を一度も崩さなかった。意見も言わなかった。
ただひたすらに頷いて、促して、聞いて、それだけで。

「……ごめんね。でも聞いてもらって落ち着いた。ありがとう」
「この耄碌が其方の役に立てたのならなによりだよ」
「うん。ありがとう。好き」
「好きだぞ、儂もな」

いつもいつも大木の様な揺ぎ無い姿に私はいつも寄りかかっている。
私が支える時は……ないように思う。





「日が落ちるのが早いね」
「夜の帳が下りるのが早いのは妖としてはなによりだが……如何せん寒さがな」
「風邪ひかないようにね」

老体だろうし、とは一応黙っておく。

「十分注意しておるよ。其方に心配をかけてはならぬからな。
 ……だが、其方に看病される様もまた、少し想像してしまうのだよ」

病気の時くらいは私でも力になれるだろう。
日々の感謝を返す良い機会だ。でも。

「私はあなたが元気な方が良いよ。でももしもの時は任せて」
「頼んだぞ」

そうは言ったものの、弱ったヌラリヒョンの姿も見てみたいなと思ってしまうのであった。





「何が起きようとも関係ない。儂と其方の間に一切の障害はないのだ」

ヌラリヒョンは揺れる私に対していつも断定する。

「……ヌラリヒョンってすぐかっこいいこと言うね」
「白々しかったか?」
「ううん。言い切ってくれる方が私は落ち着くよ。
 だって他でもないあなたに肯定されるんだもん。元気にだってなるよ」
「ふふ、そうか。其方にとって、儂が支えになるのであれば、これほど嬉しいことは他にない」

いつもいつも、尽くしてくれる。

「すき」

最近の私は何も考えずに二文字を転がす。
軽い気持ちではなく、込み上げた時にだけ言うのだが、ヌラリヒョンがいつもかっこいいせいで毎日何度も言ってしまう。

「くすぐったいな」

微笑を絶やさないヌラリヒョンが、本当に照れる時はいつもより若干口元が緩む。
今日はそれを見られた。

「だって好きなんだもん」

嬉しくて続けて言った。

「儂は幸せ者だ。其方にこんなにも愛されて」
「私も。あなたに会えた事が生きた中で一番の幸せだよ」

照れる。照れる。二人で、照れる。



〇十一月二十五日



「おはよ」
「おはよう。今朝は随分と目覚めが良いようだ」
「うん。昨晩特別早く寝たわけでもないのにすっきりしているよ」
「ふふ。では今日も一日ゆるりといこうか」

気持ちの良い朝。仕事日和。
……のはずだったのだが。

「ああ! 新刊が出てる!」

最近町で流行りの読み本を回してもらったのが悪かった。
いや悪くはない。悪いのは自分だ。自制心が無かった。
英傑達の報告は聞いたが、それ以外は本に手を伸ばして字を追いかけた。
走って走って、時に涙しながら、走り続けた。

「面白かった!!」

完走してすぐ、同じ部屋にいるヌラリヒョンに勿論報告した。

「うむ。良かったな。……して、主よ」

いつもの微笑みが、私に後ろめたさを生んだ。

「……はい。仕事に取り掛かります」
「判っているのであれば良いのだよ」

そう言って自分はお茶を飲んでいた。
ヌラリヒョンは怒らない。怒らないが怖い。
悪霊相手の時は顔も声も怖いが、私の時は顔も声も怖くないのに同じくらい怖い。
こういう時は大人しく仕事をするのだ。
呆れられる事、見放される事が、私にとって一番の恐怖だから。

「終わった!! 大変だった! 褒めて!」
「はっはっはっ。お疲れ様、よく頑張ったな」

自業自得の私を優しく撫でてくれた。

「ありがとう」
「儂は何もしておらぬよ。其方が頑張った結果だ。よくやった」
「嬉しい! 好き!」
「ははっ、其方は本当に愛い子だ」

調子に乗ってもいくらでも付き合ってくれる。
私には勿体無いひと。



〇十一月二十六日



報告を受けて私は仰天した。
何故って。
フツヌシの装いが変わって、神剣を携えていたからだ。
いつもとは違った真剣な眼差しに戸惑いながらも、私もまたそれに見合う主にならなければと決意した。

「おや。どうした主。随分呆けているが……?」
「新たな装いのフツヌシがかっこよくて」

あ。つい口が滑った。
だが、ヌラリヒョンの事だからこれくらい何とも……

「ほう」

……って事も無かった。

「あの、いや、ヌラリヒョンもかっこいいよ」
「も」
「それぞれかっこよさが違うんです! ヌラリヒョンの事は本当にかっこいいんです!」

必死に伝える私を、ヌラリヒョンが噴き出して笑う。

「少し揶揄っただけさ。厭世的な雰囲気と相まって見目が良いことは認めておるよ。
 それに、神剣を使うのも気になるしな」
「そうなの! 剣を使いだしたってびっくりしたの。いつも拳で戦うひとだったから」
「タケミカヅチと並び双璧と呼ばれた軍神だ。主、こっそりあの者と討伐を組んでくれぬか?」
「いいよ。絶対気づかれないだろうし、組んで困ることもないしね」

────揶揄っただけ、とヌラリヒョンは言っていた。
でも本心からの言葉とは思えず、私は二度とヌラリヒョン以外の容姿を褒めない事を誓った。





「主。何かあったのか? やっと本殿に帰還した所でなにやら喚かれたぞ」
「……あ。話の流れでヌラリヒョンの事褒めたよ。好きなんだ、って。
 それでいつも通り、惚気るなって怒られたんだよねえ……」

笑って誤魔化すとヌラリヒョンは珍しく表情を崩していた。

「これはこれは。面映ゆいな。実に照れくさい。……ははっ、部屋が暑くなってきたな」

今日の気温は十二月並みである。

「面と向かって好きと言うのもいいけど、やっぱり外でも言いたいよ。だって好きだもん」

惚気るなと言うが、惚気たつもりはなかった。
ただ思った事を言ったまでで。

「儂は其方の好意を知っておるからここだけで良いのだが。
 ……ふふ、しかしこれもまた良いな。心が浮足立つ」

いつも通りの穏やかな口調で、浮足立つようなふわふわとした感じはない。
しかし、いつの間にかお茶を用意され、お茶菓子も高価な限定物で、お茶自体も香りがとても良いので。
……これは本当に浮足立っているのかもしれない。





独神は八百万界の事、悪霊の事だけに心を痛めるのではない。
一緒に住む英傑達としょうもない事で言い合いにもなるし、喧嘩だってする。
対等な友人として本気でやりあうのだ。
英傑達は総じて腕力が強く私との喧嘩は出来るだけ口だけにしてくれるのだが、それでも双方引っ込みがつかないと時に手が出る。
こうなると私が十割負けるのだが、無駄な足掻きと判っていても突撃して終いには乱戦と化す。

今回も徹底的に負けた私は執務室に帰って、ヌラリヒョンに泣きついた。

「……主。遊戯とは楽しめたのならそれが一番なのだよ。
 だから主が楽しいと思って行った事であればそれが正しいのだ。
 誰にも糾弾させぬよ。この儂が心無い言葉から其方を守ってやる。
 儂は楽しそうにする其方が好きだぞ」

下らなくて申し訳ない。
慰めさせて申し訳ない。
でも私は何かあった時、ヌラリヒョンに泣きつく事を止められない。

「涙が落ち着いたら。謝っておいで。または……もう一度立ち向かうか」

私はガシガシと袖で涙を拭いて言った。

「もう一回頭突きしてくる」

ヌラリヒョンはお腹を抱えて笑い出した。



〇十一月二十七日



「ヌラリヒョン……出来たよ」

早朝からの作業が終わった。

「お疲れ様。……と言って良いのかは判らぬが、其方の努力は評価するぞ」

含みのある言い方。だがそれも仕方あるまい。
私が今日やっていた事は、他の英傑達には言えない事だ。
平和の為、八百万界の為、私は時々手を汚す。

「判ってるよ」

汚れ仕事は、英傑や自分にやらせろと言うのだ。
それを、私は断った。
独神だけを穢れのない置物にしないで欲しい。
私はやれることをやるだけだ。その事に文句は言われたくない。

「……主は、いつも一生懸命だな」
「皮肉みたいだね」
「それは其方がそう受け取るからだ。儂はただ感想を述べただけの事」
「……。判ってるよ」

お互いに譲れない事もある。
私は口元を締めて執務を行っていると、ヌラリヒョンはいつの間にかいなくなっていた。





それでも、寝る時にはヌラリヒョンはここに帰ってくる。
私もその頃には大分気持ちが落ち着いてきて、いつも通りに接する事が出来た。

「駄目。興奮して変な感じ」

被っていた蒲団を跳ね飛ばすと、ヌラリヒョンも半身を起こした。

「よほど嬉しかったようだな」
「そうだよ……。だって、上手くいきそうなんだもん」

ちょっとした企みが成功しそうで、今から楽しみなのだ。
これで少しはまた界が救われる。
それに、ヌラリヒョンに怪我をさせずに済む。

「其方がやり過ぎぬことを祈る。後悔せんようにな」
「うん。大丈夫。これでも一人でいる間に随分落ち着いたよ。
 失敗した時にどう動くかも考えられた。大丈夫、自惚れすぎてないよ」

ヌラリヒョンは小さく息を吐いた。この答えでは不服なのだ。

「其方はすぐに無茶をする。見ていて心配になる。年寄りをあまり困らせないでおくれ」
「判ってるよ。深入りはしない。調子に乗らない」

いつでも退けるようにしているのに、ヌラリヒョンは信用してくれない。
蒲団から出てきて私の傍まで寄ってきた。
私の手を取り両手で握る。

「主。……儂から離れんでくれ。良いな」
「うん。ここにいるよ」
「其方が望む限り、儂はいつまでも共にいる。忘れてくれるな」
「うん。判って、」

唇にほんのりと柔らかなものが触れた。

「頼むぞ。儂の望みは其方とこうして穏やかに過ごす事なのだ」

判ってるよ。同じだよ、私だって。
私の気持ちは言葉にはならなかった。
言葉で心を通い合わせる為の唇は今、別の事に使われている。
その温かさ、柔さが、実体のない心を私に教え込もうとしていた。
今晩もとても寒いのに、どんどん着物が乱されていく。なのに身体の火照りが止まらない。
獣じみた声を漏らしながら、あなたの顔を何度も盗み見る。
私の上に乗ったあなたは、いつもの威厳は何処にもない。
ただの小娘を思い通りに動かせなくて焦って、頭を悩ませて、弱り果てているあなた。
そうやってあなたが余裕を失ったその時に、あなたの愛情の深さに気づくの。

大好き。

って、今日はあなたに言えそうにないね。