二度目の夜を駆ける 三話-江戸 弐-


「どうなっているというのだ」

 突如襲ってきた閃光に眩んだ目が回復したヌラリヒョンは思わず声を漏らした。先程まで斬り合いをしていた悪霊が一体もいない。それどころか居場所さえも変わっている。突然の変化ではあったが、この程度でうろたえるほど若くない。

 まず江戸城の位置を確認すると、先程いた場所よりも中心地から遠ざかっていることが判る。辺りのならされた道には見覚えがある。連れの娘と二人で歩いた街道だ。周囲にいるのは鬼を含めた妖たち。長屋では見かけなかった面々もいる。彼らもまた状況が理解できずに右往左往していた。

「どういうことなの⁉」

 声を荒げているのは鬼斬りだった。鬼斬りもまた今の状況を理解していないようで苛立っている。

 再度地響きが大地を揺らし、巨大な悪霊によって城門と櫓が壊れた。するとまた光の柱が立った。ヌラリヒョンは腕で目を覆って光の波に備えた。人々の気配が一気に増加する。その多くがざわつき、泣きわめき、怒号を放っている。そろそろと目を開くと、今度は人族たちの出現で街道がひしめき合っていた。

「皆の者聞いてくれ‼」

 恰幅の良い男が声を張った。民衆のざわついた声から城主という言葉が拾えた。

「今。江戸に古より仕掛けられた結界が発動した。一度目の光は江戸と人にとって害ある者を結界外に転送し、消滅させる呪術だ」

 ヌラリヒョン含む妖の面々を思い出す。悪霊は滅したのだろう。

「そして先程の二度目の光は、江戸の壊滅が一定に達すると発動する。今度は脅威を江戸の町に閉じ込める為の結界である。一度目の光で転送されなかった者は強力な敵であり、外へ追い出すよりも江戸の全てを犠牲にしてでも捕らえて民を逃がすことが目的だ。呪術は創始者の一人である、高僧が施した強力なもので決して解かれることはない。この間に皆は近隣の村や町へと逃げるのだ。慌てる事はない、役人の指示に従い、落ち着いて行動すれば必ず一族全員が逃げられる!」

 大混乱に陥り騒乱でも起きそうな勢いであったが、城主の言う〝高僧の呪術〟〝役人は事態を想定して訓練済〟〝既に近隣の町や村に術で連絡している〟などの言葉に、人々はぎりぎり理性を保っているようだった。いつ爆破するかは判らない危なげな集団ではあるが、少しでも秩序があれば生存率は大きく高まる。妖や鬼も人族の流れに倣って動き出した。

 俯きがちな人々がひしめき合って移動し、この中から娘一人と巡りあうことは望み薄に思った。

「ふざけないでよ‼」

 鬼斬りは憤慨し、城主に詰め寄っていた。人々はちらりと目をやるだけで、黙々と避難に足を動かしている。

「さっきの説明おかしいよね。僕は一度目に鬼たちとここに飛ばされた。僕は人族なのに。それとも鬼を斬ったから悪人だって? でも僕は人族に頼まれて、人族を守るために斬ってきたんだよ。なのになんで、害ある者として放りだされたのさ」

 鬼のように歯をむき出して今にも噛み付きそうだ。八つ当たりされる城主は、ゆっくりと説明する。

「詳しい基準は城主の私でも判らない。ただ、結界の一段階目はある程度の強さの敵を江戸から遠ざけるものとテンカイ様の書物には」

「……なにさ。ある程度の強さって。敵って。……僕はあの巨大な悪霊よりも弱くて、尚且つ人族の敵だって言うの……」

 呆然としている鬼斬りに城主はそれ以上言葉をかけず、民の誘導に向かった。
 ヌラリヒョンにとってはどちらも興味のない事だ。それよりも探すべき者がいる。

(娘と離れるべきではなかった)

 逃げていく人々とは真逆の方向にヌラリヒョンは走る。左右に頭を振りながら、数日共に過ごした娘の姿がないかと注意深く探した。

(あの娘は己を語れぬ呪いと同時に、何らかの祝福も得ていた。危機が迫ったとて何らかの力が娘を守ると考えた事が間違いだった。無知な娘のことだ、この状況に立ち往生している事だろう。いや、聡い面もある故安全確保を最優先に動いているやもしれぬ。だが迷子の時の待ち合わせ場所は結界内にある。……判らぬ。無知なのは儂の方だ)

 避難列で行進する妖を見つけて話しかけた。

「すまぬが、誰か遠見が出来る者はおるか。娘を一人探して欲しいのだ」
「ああ俺できるよ。じゃあ鏡見て。探したい奴の事考えて」

 指示通り、鏡に映る自分を見ながら娘の事を考えた。

 ちらちらとこちらの顔を窺い話しかける折を見計らう時。
 見えない者と戯れている時。
 年相応にはしゃいで高い声を響かせている時。
 夜目が利かず厠に辿り着けなかった娘の手を引いている時。
 腕の中の寝顔が涙で濡れている時。

 たった数日とはいえ、ヌラリヒョンの中には沢山の記憶があった。草原で拾ってから殆ど付きっ切りで面倒を見てきた。気ままなヌラリヒョンは他人と長い時間共に過ごし続けたことなど数百年以上なかった事だ。

 鏡の中の自分が歪み、年端も行かぬ娘が現れた。江戸の城下で巨大な悪霊に追われている。

「おいおい。これまだ中にいるって事だろ」
「でも城主がさっき脅威を閉じ込めるって、ヤベー悪霊を閉じ込めるって事だろ。じゃあこの子も敵なんじゃねぇの」
「それはない」

 ヌラリヒョンは断言した。

 江戸城の方角へ走るとすぐに灰色がかった結界の壁を見つける事が出来た。術の中心地であろう江戸城からは距離があり、高僧が施した結界は高度で強力なことが判る。ヌラリヒョンの剣をもってしても当然破れない。

「何をしている!」

 役人たちが武器を構えてやって来た。

 ヌラリヒョンは相手を刺激しないように冷静に尋ねた。

「中に子供が残っている。結界は人を守るためのものではないのか」
「子供は当然結界外に飛ばされるはずた。その子供は本当に自分の子か? 悪霊が化けてたんじゃないのか」
「……拾い子だ」
「なら残念だが諦めろ。結界が壊れれば子供一人どころではない多くの者が死に絶える。ここは皆の為に堪えてくれ」

 ヌラリヒョンは黙ってしまった。

「……すまぬ。迷惑をかけたな」

 役人は何度も振り返りつつも、人々の避難誘導についた。

(諦められるわけがなかろう。あの娘は独神かもしれぬのだぞ)

 ヌラリヒョンは先程の妖たちの方へ行った。





 ◇





 走っても走っても、視界に広がるのは赤い世界。蛍のように宙を漂う火の粉たちを振り払う私の後ろで、巨大な悪霊が私を追いかける。まるでここにいるのは私だけとでも言うように執拗に狙ってくる。

 どこを走っても誰もいない。これは夢なのだろうか。……八百万界も夢だっけ?

 最初は妖が消えた。その後しばらくして人も消えた。多分ヌラリヒョンさんもここにはいないのだろう。理屈は判らないがあの光を浴びたら生物は消えてしまう。目を凝らさなければ見えない小さな生物も今はどこにもいない。悪霊だけが私の目や耳を支配する。燃え上がる火の中で私を犯してくる。

「っ⁉」

 真横にあった建物が崩れていく。悪霊の巨大な槍が私を殺そうとして外したのだろう。まともに当たっていたら死んでいた。図体が大きいからか悪霊の命中率は極めて低い。そのお陰で私は今も走っている。

 ヌラリヒョンさんは生きているんだろうか。あのひとの事だから上手い事やっているかもしれない。それだったらいいんだけれど。

 私はここで死んじゃうのかな。
 死んだらどうなるのかな。
 豆の潰れた足を懸命に動かしながら、私は何度も考える。
 死んだらどうなるのかな。
 日本に戻れるのかな。
 だったら死んでもいいかな。
 私はここで死んじゃうのかな。
 死んだらどうなるのかな。

 繰り返し。繰り返し考える事で気を紛らわせている。後ろからの恐怖や足の痛みや、孤独に。

 こういう時にヌラリヒョンさんは傍にいない。
 やっぱそんなもんだよね。赤の他人だし。
 一番怖くて、一番死にそうな時は、元の独りなんだなあ……。

 諦めが何度も頭を過るのに、不思議と足はよく動いた。ヌラリヒョンさんに何度も休憩を要求したこの足は今が人生でピークと思える働きをしている。喉もひゅーひゅーと鳴って奥歯に血の味が広がるが、酸素を懸命に取り込んでいた。

 私は生きようと必死だった。

「そこの子供!」

 周囲を素早く見回すが炭と化した家屋ばかり。まさかと思って上空を見た。鳥のように羽がある人ということは妖族だろう、トビのようにくるくると旋回している。

「こっちだ! こっちまで逃げて来い! ヌラリヒョンがお前を探している!」

 込み上げてくるものを抑えて、判ったと叫んだ。

 捻くれたこと考えてごめんなさい! 疑ってごめんなさい! ヌラリヒョンさんはまだ私の事を考えてくれてたのに。

 私は鳥人の指示に従い必死に走った。
 壊れた建物を飛び越えて、踏みつけて、かき分けた先にヌラリヒョンさんが立っていた。怪我はそれほど増えていない。まずはほっとした。

「すまぬ」

 と顔を曇らせたのがまた安心した。少しでも後ろめたいと思ってくれていることに優越感を抱いた。私の事で良心を痛めてくれることが喜ばしいだなんて、不思議な心地だった。

「ヌラリヒョンさん!」

 私は目一杯両手を伸ばした。今なら飛びついても許してもらえると思った。なんだかヌラリヒョンさんの顔がいつまでも浮かないのは気になるけれど。そこまで罪悪感を抱かれると申し訳なくなるなあ……。

「おいお前! そのまま飛びついたら……‼」

 疑問に思った時にはヌラリヒョンさんの身体にしっかりと腕を回してしまっていた。血の匂いは気になるが、身体はしっかりとしていて心の底から安堵した。

 しかしなんだろう……?
 皆が変な顔をしている。ヌラリヒョンさんを見上げると、これまた抜けた顔をしている。

「……なんですか? やっぱり私なんて死んでおけば」

 続きは言えなかった。抱きしめられたことに息を飲んだ。

「っ……ヌラリヒョンさん……?」

 ヌラリヒョンさんは何も言わない。言葉代わりの抱擁が強くて。
 私は嬉しかった。私の存在を必要として、喜んでくれるひとが八百万界にはいる。
 良かった。

 ……本当に、良かった。

「ヌラリヒョン。その辺にしろよ。その子が通れたってことは悪霊も通れちまうだろ」

 ヌラリヒョンさんはあっさり放したが代わりに手を繋いでくれた。

「通れるって何。普通は通れなかったの? でも皆外にいるよ?」
「強い術師の結界で誰も行き来できねぇんだよ。だから強い悪霊を閉じ込められてんだ。お前が通れたのがおかしいんだよ!」

 ヌラリヒョンさんが言う。

「そのお陰でもう一度其方を抱く事が叶った。悪霊の処置はおいおいで良い」
「良くねぇだろ‼ お前はそりゃ強いから良いだろうよ! でも他のやつはそうじゃねぇんだよ‼」
「儂は一度この手を放した。それが悪霊と共に結界内に閉じ込める結果となった。だからもう二度とこの手を放さぬ」

 痛いくらいに手を握られた。
 周囲が心配している巨大な悪霊は見えない壁に阻まれて宙を叩いていた。両腕の槍を振るうも前に進めていない。

 本当に私だけなんだ。通れるのは。

「おや巨大な悪霊は通れぬようだ。であればもう其方らの心配も不要だろう」

 でも、そうは問屋が許さない。
 誰かが叫ぶ。

「悪霊だ‼」

 逃げている最中だったと思われる集団が急に散り散りになった。アリの行列の途中に石を置いたみたいに。

「お前なんとかしてくれよ‼ 強いんだろ‼ なあ‼」

 私を誘導してくれた鳥人がヌラリヒョンさんに悲痛な叫びで縋りついた。私は手を握ってくれる妖の総大将の横顔を見た。

「儂はこの子を守る義務がある」

 彼は、同族の要求を拒否した。

「たった人族一人守ってどうすんだよ‼ 同族が死んでも良いって言うのかよ」
「先程もずっと其方らの為に戦っていた。この子を見捨ててな。なら次はこの子を守って何が悪い」
「悪い事しかねぇよ‼ くそ‼ やってられるか‼」

 彼は数枚の羽根を落としながら飛び立っていった。服に張り付いてくる羽根はヌラリヒョンさんに対する未練のように思った。

 私たちは惑う集団とは違い、真っ直ぐ走っていく。

「ヌラリヒョンさん。声が聞こえます」
「そうだな」
「ヌラリヒョンさん。痛いって聞こえます」
「そうだな」
「ヌラリヒョンさん。ぼきぼき聞こえます」
「そうだな」

 私は立ち止まり、ヌラリヒョンさんの足を止めた。

「ヌラリヒョンさん。……二転三転して申し訳ないんですが、妖族を助けて下さい。人も神もまとめて助けて下さい」

 ヌラリヒョンさんははっきりと首を振った。

「そのせいで其方を危険に晒した。死んでもおかしくなかった」
「死なないよ。中で追いかけられていた時だって無事だったし。多分運が良いんですよ、私は」

 都合の良いように解釈するのは妖だけじゃない。
 私も同じ。

「私が大型の悪霊を倒します」

 ヌラリヒョンさんは黙り込んでしまった。けれどそれだけじゃ私は揺らがない。

「其方……自分が何を言っているのか判っているのか?」

 そりゃそうだ。私には武器もないし、普通の悪霊と戦った事すらない。

「結界内に出入り可能なのは私だけなんでしょう? あと鬼斬りの手を借りようと思います。あの人とっても強かったから」
「結界があるのだぞ。それに鬼斬りは儂らと同時に結界外へ飛ばされた。つまり江戸にとって害があると見なされた。そんな者が入れることなど万に一つもない、それに其方は儂と同じく奴に斬られかけているのだぞ」
「なんとかなりますよ。多分ね」

 根拠はなかった。なのに不思議と私は打ちひしがれていなかった。一人で巨大な悪霊に追われていた時は死の恐怖で満たされていたのに、ヌラリヒョンさんともう一度会えて、抱きしめられて、一時でも他の誰でもなく私の手を選んでくれたことで、世界に怖いものはないと思えた。

 日本にはいなかった。私の事を想ってくれる人なんて。私の存在を厄介に思う人しかいなかった。けれどヌラリヒョンさんに会って、一緒に暮らして、旅っぽいことをして、当たり前のように隣にいてくれた。自分の生活の中に誰かが深く食い込んでくる事なんてもうずっと何年も無かった。

 あの日受け入れた孤独が、揺らいだ。

 飄々としているヌラリヒョンさんの表情が崩れる事に私が関わっている事が嬉しかった。私の存在が誰かの心にいる事が嬉しかった。他人の中に、自分を見つけて初めて世界に足が着いたと思えた。

 私がいても良いんだと、世界に認められ受け入れられたような気がした。

 八百万界に来れて、本当に良かった。
 日本では叶えられなかった、諦めていた望みを叶える事が出来た。

 だから今の私は何でも出来る。

 ここでの私は、世界だって救える────‼

「……鬼斬りの腕であれば、一か八か可能性があるかもしれぬ」
「じゃあ……‼」
「儂が傍にいなくて良いのか。元々其方の護衛として遠野を出たのだぞ」

 迷うヌラリヒョンさんを私は笑い飛ばした。

「契約書があるわけでもないし、臨機応変ってやつですよ。それにヌラリヒョンさんは皆のことを守りたいって思ってるんだから、自分の気持ちを優先して下さい。って、どうせ私の事なんてーって拗ねてるわけじゃないですよ‼ ただ、ヌラリヒョンさんは総大将と呼ばれるひとだから、あなたが妖の為に剣を振るうだけで元気になれるひとは多いです。私もヌラリヒョンさんに護ってもらっている時、とっても安心出来ますもん。だからお願いします。皆を守って」

 ヌラリヒョンさんは「敵わん」と言うと、表情と口調を引き締めた。

「武術の心得のない其方が唯一持つ武器は鹽土老翁神しおつちおじのかみが与えた塩だ。あれは浄化の力を持っておる。悪霊に敗した者の力が巨大悪霊に通用するとは思わぬが、気休めにはなるやもしれぬ」
「アドバイスありがとうございます! あ、アドバイスって助言って意味です」
「武運を祈る」

 私が「はい」と言うと、ヌラリヒョンさんは悲鳴の上がる集団へ一目散に駆けていった。これで良い。総大将している時のヌラリヒョンさんが好きだから。格好良くて尊敬しているから。

 大勢の人々を押しのけて私だけを守る価値なんてあるのかなって、思ってしまったのもあるけれど。人の上に立つべきあのひとを私の様なただの子供が独り占めにする事は出来ない。

 でも寂しくないしふて腐れてもいない。
 私は私で、宣言通りあの巨大な悪霊を必ず倒す。
 私を受け入れてくれた世界を。
 そこに住まう人々を守るために。



「鬼斬りさん‼」

 何故だか彼は倒壊した家屋の上に座っていた。悪霊とも戦っていない。

「あのどうしたんですか。怪我でもしたんですか」
「ほっといてよ」

 ぱっと見は深い怪我はなさそうだ。多少すすけている程度で済んでいる事は彼の強さを物語っている。

「私、あなたに頼みたい事があるんです。あの巨大な悪霊を倒すことに力を貸して欲しいです」
「あっそ」

 平坦な返しに私は思わず「え?」と聞き返してしまった。

「あの……興味ないんですか? だって倒せばここにいる人族全員を救えるのに」

 一瞬だった。

 彼が立ち上がって私を怒鳴りつけたのは。

「煩いな! ほっといてって言ったの聞こえたでしょ!」

 赤い目を燃やした彼は鬼の形相で走り出した。駿馬の如く駆けていく背を私も必死で追うが時間と共に差が広がるばかり。手足が届かないのならば、声を届けるしかない。

「助けて下さい! お願いします! 今までだって困っている人を助けてきたんでしょ!」
「その人族が! 僕を! 敵と見做したんだろ‼」

 そういえばヌラリヒョンさんが言っていた。妖族と同じタイミングで結界外へ来たって。

「結界だってそんな個別に敵味方判断してるわけないでしょ! 多分別の項目で引っかかっただけでしょ!」
「じゃあ妖と僕を雑に一緒にしたって言うの‼」

 ああ……火に油を注いでしまった。だが速度は落ちている。次第に足を止め、私を睨みつけた。

「僕は今まで困っている弱い人族を助けてきたんだよ? それが何、妖達と一緒に江戸から放り出されて。なのにまた人の為に戦えって都合が良すぎる話じゃないの?」

 小さな体躯の中で膨らんでいく怒りを抑えつけた問いは、私の罪悪感に容赦なく手を入れて掻き回してくる。

 彼の言い分は正しい。

 私だって、彼をただ力の強い人とだけ見て、利用しようとしている。ヌラリヒョンさんを悪意の有無に関係なく利用している弱いひと達と同じく。
 でもだからと言って退いてはいられない。私だってここは譲れない。

「都合が良いのは判っています。でも、あなたの力が必要なんです! あなたほど強い人ここにはいないんだから!」
「君の連れの妖を使いなよ。僕とやって即死しないんだからそれなりに出来るでしょ。……まあ僕よりは下だけど」
「あのひとは、ここにいる全員の為に戦っています。逃げ道を確保するために。巨大悪霊の影響か、結界外にも悪霊がうじゃうじゃ来てしまったので」
「へえ頑張ってるんだね」

 皮肉を煮詰めた冷笑にだって負けていられない。

「彼もまた弱いひとたちに頼られ利用されて、それでも戦っています」
「で、君は? 何してんのさ。僕に頼む前に君が行きなよ」
「じゃあ、私が来たら来てくれますか」
「嫌だね」

 らちが明かない。
 私は今まで漫画でしか見た事のない土下座を行った。

「お願いします! あなたの力がどうしても必要なんです! 結界内には私が入ります。囮だろうが、的だろうがやります。だからお願いします! あなたの力でみんなと江戸を救って下さい‼」
「うざ」

 侮蔑を吐き捨て、去ろうとする足に飛びついた。

「お願いします‼」
「放してよ」
「聞いてくれるまで放しません‼」
「あっそ。じゃあ強制的に放させてあげる」

 彼は身長以上の刀身を軽々と振るった。乾いた音が響き、両手首にパチッと火花が散った。
 恐る恐る指を動かしてみるが、私の意志通りに曲がった。
 それから指の筋肉が緊張しきって動かなくなりようやく、刀が私の両手首を斬り落とそうとしていた事に気づいた。

 刀で斬られることは呆気ないが、それ以上の恐怖だ。包丁で肉をぶつ切りに出来るのだから、刀で手首を斬るくらい造作もないのだろう。斬られる側に立って初めて、刃物の恐ろしさを真に理解した。牛や豚を切るように、人も簡単に肉片になれるのだ。

「……さっきもそう。斬ったはずなのに刃を弾いた。君は何者なの」

 同じ知能を持ち、言葉を交わせる生物を平気で斬り殺せる人に、私は言った。

「私は────。この八百万界を救いたいと思っている一人です」

 ぷっと噴き出して鬼斬りが笑った。

「変なの。刀も握れない君が夢見てどうするのさ。そういうのはもっと強い奴が言うものだよ」
「あなたみたいな……ですか」

 真剣に彼を見据えた。鬼斬りは少し驚いた様子だったが、すぐさま目を吊り上げて睨んだ。

「君、ムカツク」

 自由な足で私の両腕を踏みつけた。靴底の石がじゃりじゃりと私の腕を転がるが、私は悲鳴を呑んで耐えた。

「っ……怖いんです。誰かの悲鳴も怒号も。血も死も何もかも怖いんです。なんで侵略者に私たちが踏みつぶされないといけないんですか。内乱ならともかく、外の人に良いようにされるなんて悔しいです。八百万界が生きるも死ぬも、決めるのはここのひとたちであって、悪霊なんかじゃないです!」

 嘉永六年、六月三日。浦賀沖にペリーが来航した。鎖国下にあった日本で諸大名は開国派と攘夷派で二分し、民は黒船の空砲や半鐘の音から不安と混乱に陥った。その後安政元年、三月三日には日米和親条約、通称神奈川条約が結ばれる。後には日露和親条約、日米修好通商条約が結ばれていくと学校の社会で習った。

 開国によって得られた物は多かった。既に産業革命が起きていた西洋の技術や文化を取り入れることになり、輸出入が拡大し続けた。日本の近代化に開国は必須であった。

 しかし、学生身分の私としては、圧力をかけて開国を迫るような余所者に良いようにされるのは、気持ちの良いものではなかった。はっきりと言えば不快だった。日本は日本人のものであって欲しい。そこに長年住み続けている者たちが決めれば良い。どういう結果になろうとも、選択権は必ずこちらにあって欲しかった。

 鹽土老翁神しおつちおじのかみさんは滅びを受け入れようとしていた。それも選択肢の一つだ。でも私は滅びるなら八百万界の民が大馬鹿な事をやらかしてドカーンと滅びる方が断然良いと思う。過程の問題だ。滅びの理由が得体のしれない黒い集団より、自分たちの方が納得出来るに決まっている。

 悪霊と同じ余所者が何を言っているのやらと思うだろうが、八百万界も日本も似たようなものだから重ねて見てしまうのは仕方ないだろう。

 とにかく‼

 私は事情も知らない他人に好き勝手されるのが気に食わないから、悪霊だけは絶対に倒さなければならない‼

「誰かを守るとか以前にムカつかないんですか⁉ あんな意味判らないものに好き勝手されて、対話すら放棄してくる奴らですよ! 他人に流されてばかりの私でもアレに屈するのはとっても嫌なんですけど‼」

 嫌だ嫌だと喚いていると、鬼斬りは大きな溜息を吐いた。

「うるさいなあ。……そうやって足取られると動けないんだけど。それとも、あの悪霊に暴れさせてやりたいの?」

 鼻で笑いながらも彼の口元は得意げに上がっている。私は彼の足を放した。

「しょーがないな。今日は鬼退治じゃなく、悪霊退治をやってあげる。お供ならちゃんとついてきなよ」
「はい‼」
「返事だけは一人前だね」

 まずは彼と結界の境目に来た。私が灰色の帳に手を入れると彼は小さく感嘆していた。

「へー、結界内に入れるのは嘘じゃなかったんだ」
「ええまあ。あなたも中に入れれば良いんですが……」
「無理でしょ」

 彼が手を伸ばすと壁に阻まれて先へ進めない。巨大悪霊と同じだ。

「一度だけ試させて下さい」
「嫌だね」

 協力してくれるって言ったくせに面倒くさい。許可を得ず、鬼斬りの背を押して無理やり結界内へ押し込んでみた。

「あ。入れましたよ!」

 なーんだ簡単じゃん。と思って手を放すと鬼斬りは身体ごと結界の外へと飛ばされてしまった。

「つまり、中での移動は君に触れられた状態でないと駄目って事ね」

 そのようだ。だが、中に入れると判っただけでも前進だ。

「じゃあ僕が連れられてあげるから、さっさとどこか持ってよ」

 試しに袖口を持ってみたが、こちらは私だけしか入れなかった。服の上からでも良いが身体の一部を鷲掴むか触れることが条件のようだ。

「あれだけ巨大な奴相手に両手を使わず斬り落とせるかっていうと……正直難しいよ」

 鬼斬りの心配と私が抱いている心配は少し違う。

 他人の手を握り続けるのかと。

 触れ合いで一番苦手なのが手で、こんな状況にも拘わらず嫌悪感が頭をよぎる。

「いい? まずは近づくところまでは手を握って。それからは……色々試してみるよ。判った?」

 鬼斬りは真剣だ。先程までとは違い、本気で巨大な悪霊を倒す為に私と向き合ってくれている。
 だから私も、個人的感情は置いておこう。

「肝心の倒し方ですが、鹽土老翁神しおつちおじのかみさんのコレを試してみたいんです」

 松島で貰った塩の塊を見せた。

「海の神様である鹽土老翁神しおつちおじのかみさんのお塩で浄化の力があるらしいです。穢れが払えるって」

「ただの塩にしか見えないけど」

 実の所私もそう思う。でも本人もヌラリヒョンさんもそう言っているからそうなのだろう。

「まぁいいや。今は倒し方も思いつかないし、君の案に乗ってあげる」
「……ご協力感謝致します」

 私は大きく頭を下げた。共に結界内に入ろうとも、策を出そうとも、私が戦わないことには変わりない。実際に巨大悪霊に向かい合って刀を振るうのは鬼斬りだけだ。

「別に君に協力する気はない。僕があの悪霊よりも強いって証明する為に戦うだけだよ。……ほら、ぼけーとしないで。一緒に行くんでしょ?」

 鬼斬りが左手を出した。ぶっきらぼうな出し方は可愛くないが頼もしかった。私も迷わず手を握った。嫌悪感はない。それどころかあの大きな悪霊が倒せることに高揚していた。

「行きましょう‼」

 巨大な悪霊は結界を両手の槍で殴っている最中で近づく事は容易かった。私たちを見つけるとゆっくりと身体を捻った。顎を大きく上げなければ頭部を見る事は出来ない。それほどまでに大きな物体が無力な私を見下ろしている。でも、

────こんなに怖くないものだったっけ。

 火の海の中で私に死の概念を植え付けた悪霊と同じものとは思えなかった。確かに大きいが、それだけだ。

「避けて!」

 右腕の槍が私たちのいた場所を突き刺した。私は鬼斬りに腰を持ち上げられて宙を飛びながらそれを眺めていた。

「重いんだけど‼」

 着地してまずこれである。

「どうもすみませんでした‼」

 やけになりながら謝った。悪霊はゆっくりと槍を地面から引き抜き、再び私たちに向いた。

「で、さっきの塩をどうすればいいの⁉」

 二度目の攻撃を避けながら鬼斬りは叫んだ。

「判りません!」
「ふざけてんの⁉」

 どう見てもただの石ころをどう使えと? 効力だって鹽土老翁神しおつちおじのかみさんからは聞いたのではなく、今日初めてヌラリヒョンさんに教えてもらったのに。

「じゃあ投げてみて!」

 全国体力測定でど真ん中の評価を得ている私が塩の塊を悪霊に投げた! 当てた! 何も起こらなかった!

「ただの石じゃないの‼」
「匂いは塩でした‼」
「役立たず‼」

 割れていないだけ良かった。どうやら、物理的に当てるものではないらしい。

 鬼斬りは私を罵倒しながらも悪霊の猛攻を避け、時に刀でいなしながら塩の塊の落下地点まで私を届けた。拾い上げて確認すると傷一つ見当たらなかった。私の投擲力が弱すぎるせいか、それとも単純に塩が硬いのか、悪霊の装甲がそれほどでもないのか。考えられる可能性は多い。多すぎて何も絞れない。巨大悪霊を知るには数打つしかない。

「お供四! 僕の両手に触るな。出来れば背中……いや、左足首を持って死ぬほど伏せて!」

 何というオーダー。だが、私は彼の身体から手が離れないよう両手を交互に使い、接触位置を足首にまで下げ、身体も大地に張り付けた。

「……」

 鬼斬りは中段に構えた。剣道でも見るスタンダードな構え。巨大な悪霊が槍の右腕を振りかぶろうとも動かない。

 一閃──

 火花だけが宙を漂っていた。鬼斬りは既に刀を振り下ろしている。

「チッ。この程度の衝撃波じゃビクともしない!」

 刀で……⁉ 衝撃波……⁉

 凄すぎてよく判らないが、それでも巨大悪霊には届かないらしい。鬼斬りの両手を使わせたベストな方法だったのに。直接斬れるのが一番だが私は鬼斬りの速さについていけない。こっちは近接攻撃だってのにどうしろって言うのよ‼

「馬鹿!」

 立ち上がろうとしていた時には巨大悪霊が両腕をこちらにむけて突進していた。
 私は「あ」と息を漏らすだけが精々だった。

「……勘違いしないでよね。お供が死んじゃ、まるで僕が弱いみたいに思われるからだよ」

 私の目の前で鬼斬りの横腹が削げていた。大量の血が流れている。刀が持ち上がっていない。
 体勢が整わなかった私を庇ったせいだ。

 両腕の槍は足手纏い付きの状態では刀で払う事も出来ず、多少軌道を逸らせるだけが精々で……それで……鬼斬りが……。槍の先端に引っかかった肉片と赤白のマントの生々しさが私を詰った。

「そんな事より少し距離を取って動きを観察したい。僕の刀で貫けそうな所を探してから仕掛けるよ」

 また守られてしまった。どうして傍にいるのに、鬼斬りごと変な力で守ってくれないのか。どうして私だけ。また弱い私だけが血を流さない。

 打つ手が何も思いつかない。
 焦る。焦る。焦る焦る焦る焦る焦る焦うあせるあせうらせうるあせるうあせるあせる

 鬼斬りは手早くマントを裂いて傷口を抑えるように結んでいる。
 私はそれをぼーっと見ている。思考が停止している。感情だけが走り回っている。

 焦った挙句、私は祈った。縋った。
 穢れを払う結晶に。
 私を守ってくれる得体の知れない加護に。

 どうか鬼斬りを助けて下さい。
 この悪霊を倒す力を下さい。
 守るための力を下さい。

「……それ、光ってるんだけど」

 鹽土老翁神しおつちおじのかみさんから頂いた塩の結晶が淡い光を放っていた。宝石のように角度によって輝きを変えて人の視線を奪う美しさがあった。松島の海面が風でさざめいて白く輝くように。

「鬼斬りさん。これを叩っ斬って。悪霊に当てるように」
「でもそれは無駄、」
「お願いします」

 鬼斬りは悪霊から目を逸らさずに言った。

「……両手でないと、応えられそうにないね。それに君が重い」

 嫌味ではなく、本当にそうらしかった。

「貸して」

 ジャージの袖を捲り上げて、鬼斬りの上から刀の柄を握った。自分の腕に冷たい刀先を当てて、深呼吸をした。

 ────一気に引く。

 一拍遅れて熱い痛みが広がっていった。切れ味が良かったらしく思った以上に出血した。
 鬼斬りは私の一連の行動に引いていた。

「脳味噌忘れてきた?」
「血だって私の一部でしょ」

 鬼斬りの手の甲に私の血を擦り付けた。もう一方の手の甲には花丸を書いた。

「勝利の誉」
「まだ勝ってないけど」
「勝つよ」

 海面の反照のように光る塩を渡した。
 そして彼の身体から手を放した。

「絶対」

 自由になった鬼斬りは刀を握り直しながら笑う。

「ま、僕は最強だからね。勝って当然」

 鬼斬りは瞬時に姿を消した。すばしっこい動きで敵の攻撃をいなし、あの巨体の上でぴょんぴょんと飛び回っている。そのせいで悪霊は無防備である私を狙えず、また両手が槍のせいで鬼斬りを掴む事も出来ず往生していた。

 私は仏教徒であるにも関わらず手を組んで祈った。

 ────勝利を。

「悪霊なんかに八百万界は渡さないよ!」

 頭の上の鬼斬り目掛けて両槍が突き出された。鬼斬りはそれを跳躍で弓なりに躱し、地上へ着地した。塩を上に放り投げると、大地を踏みしめて前へ飛んだ。悪霊と塩が触れた瞬間を刀が切り裂いた。

 パリンッ

 割れた塩は悪霊の身体にずぶずぶとめり込んでいく。
 入り込んだところから紫色の液体が噴出した。消滅時の黒煙も立ちのぼる。

「やった!」

 悪霊は猛獣のように吼えると、背を丸めて勢いよく胸を張った。埋め込まれた塩が四方八方へ、流星群のように飛んでいった。
 悪霊は立ち止まってぐるぐると唸っている。間違いなくダメージは与えられた。

「そんな……!」

 鬼斬りに斬られた傷がずぶずぶみるみる治っていく。
 まさかの超再生能力。漫画じゃないんだから。

 悪霊は奇声を上げて襲ってきた。しかし今までよりの動きとは明らかに遅く、私でも避ける事が出来た。
 だが傷は治り続けている。ここから畳みかけないと。

「あの塩もうないの⁉」

 再生中の部位に刀を振るった鬼斬りであったが、再生を止めることまでは叶わなかった。

「ないよ……あれ一個だよ……」

 飛び散った欠片が落ちている。
 宝石の様な輝き。
 綺麗な分虚しさが募る。
 無駄に壊してしまった。
 これで倒せると思った私が甘かった。
 私の唯一の武器を失ってしまった。

 今になって、刀傷の左腕がひりひりと痛む。

 どうしてこんなこと。
 こんな痛い目にまであったのに、どうして倒れてくれないの。
 どうして。

 鹽土老翁神しおつちおじのかみさん……。あなたの無念を晴らす事も出来ず、ごめんなさい。

「ぐずぐず泣くな! 状況判ってんの⁉」

 巨大な悪霊も鬼斬りも、どうでもよくなってくる。

 いっそもう、このまま逃げたって良いじゃないか。
 だってもう、倒す方法なんてない。鬼斬りの刀は効かない。塩も壊れた。

 私みたいな子供に何が出来るって言うんだ。

 拾い上げた塩の欠片は針状になっていた。鋭い先端が指の腹に刺さり、赤い血が流れる。
 痛い。それ以上に悔しい。

 鹽土老翁神しおつちおじのかみさんに、あなたのお陰で悪霊を倒せたと言いたかった。あなたの力で守れたと言えたら、少しは慰めになると下心があったのに。

 涙が塩の欠片に落ちた。先程よりも強く濃く光る。目が眩むほどの眩い光だ。

「また光って……! 君今何したの!」

 潮の神、浄化の力、信仰。

「……まだいけるかも」

 鹽土老翁神しおつちおじのかみさんは神様だ。神様の力は信仰の強さに由来する。

 そしてこの江戸は海に面する水路の町。日比谷入江を埋め立てて城下を拡張したのが江戸である。
 この地は陸地でありながら海だ。そして水路が町を蜘蛛の巣のように張り巡らされていて海水が濃い。

 極めつけは、ここが日本ではなく、八百万界であること。
 人族、妖族、神族の三種族に分かれた八百万の民が存在する世界。

 遠野の河童狛犬さんのように自然を操れる者が当然いる。

「鬼斬りさん‼ 悪霊を江戸城に誘導して下さい。江戸城の磁場は、」
「理屈はいいから指揮を取りなよ‼ 僕に発破かけたのは君でしょ‼」

 そうだ。私が巻き込んだ。弱くて大口を叩くだけしか能がない私が。

「誘導任せました! 私は他のひとたちに協力を頼んできます!」
「了解!」

 鬼斬りは私の方に悪霊が向かないように足止めをしてくれた。悪霊も私が遠ざかると鬼斬りを標的に定めた。鬼斬りが動けばそちらへ動く。江戸城へは確実に連れていけるだろう。

 自由になった私は結界の境界へ向かって走った。足元には倒壊した家屋が重なって危なかったが、出来るだけ上空を見ながら走るよう心掛けた。

 多分。……多分である。いると思うのだ。

「おーーい‼」

 上の方で滞空する鳥人の妖に呼びかけた。彼は先程ヌラリヒョンさんに愛想を尽かし、そうさせた私の事もよく思ってはいないだろうが、彼は私の方を見てくれた。

 私はまだ壊れていない櫓へ登り、少しでも空中の彼へと距離を詰めた。

「他の妖族や神族や人族に協力して欲しいんです‼ あの悪霊を倒すために‼ みんなの力が必要なんです‼ お願いします‼ 江戸を助けて下さい‼」

「……」

 彼は私の心の奥底を覗くように、じっと見ていた。

 私は気持ちを落ち着けて、彼の目を見た。

「江戸城に誘導した悪霊に、江戸の町に流れている水路の水を、出来れば海の水までを一気にかけて欲しいんです。妖や神は自然に通ずる方が多いと思います。だから……みなさんの力をお借りしたいんです。一緒に悪霊を倒して頂きたいんです。一握りの強いひとではなく、多くの方の力が必要なんです」

 思っている事を素直に伝えた。協力を仰ぎたいからと言って嘘を吐いたり、煽ったりする必要はない。ここにいるひとたちは種族は違えど、思っている事は同じだ。

 あの悪霊を江戸から追い出したい────。

「……。お前らの様子は遠見で見ていた。今もだ。人間の目じゃろくに見えないだろうが、既にみんな動いている」

 ────動いて、いる……?

「妖族はもとより、神族も角のついた奴がまとめて各々が能力を発揮出来る位置についた。人族も城主の指示で地盤の弱い場所や、江戸へ水を流せる場所を妖族や神族に伝えている。特に鬼なんて腕力だけはあるからうってつけだ。どんな地盤も砕くだろうさ」

 上から見渡すと、僅かながら確かに見えた。
 長い列を作っていた江戸のひとたちが、結界外の至る所に散り散りになっていた。
 悪霊はばらばらになった人々に襲い掛かるが、気づいた者達が悪霊を倒して助け合っていた。
 江戸湾に繋がる何本もの川の上流にも誰かがいる。

「そして俺は、伝令の為に来た。お前の号令一つで全員が行動を開始する」

 私が勝手に決めつけた、〝弱いひとたち〟は、弱くなかった。

 みんなが一つになって、江戸を守ろうとしている。

 不安もあるだろう。

 恐怖もあるだろう。

 痛みもあるだろう。

 けれど、みんなそれを呑み込んで、戦っていた。

「……今も私の事みんなには見えているんですよね?」
「見える。お前に賭けた奴ら全員に」

 なら、ぐしゃぐしゃに泣いている私のことも全部見られているのだろう。
 私は痛くない方の腕で涙を拭った。

「皆さん、必ず勝ちましょう」

 返事は聞こえない。けれど、聞こえたような気がした。

「鬼斬りさんには、先程つけた傷を狙って悪霊を斬ってもらいます。それと同時に水をかけてもらいたい。鹽土老翁神しおつちおじのかみさんは潮流を司る神。海の神様で多分塩の神様です。だから私の涙に反応した。彼の力が最も発揮できるのは水であり海です。だから大量の水さえあれば、浄化の力を最大限発動出来ます」

 私は九十度以上腰を折って頭を下げた。

「皆様よろしくお願いします! 勝つことだけを信じていて下さい!」

 私が櫓を下りようとすると鳥人が言った。

「結界を出入り出来るなら俺に掴まれ。江戸城へは空からの方が断然速い」

 盲点だった。
 私はありがたくその申し出を受け、結界外に手を伸ばし彼の手を掴んだ。
 二人で江戸城へ向かう。

 江戸城が建てられた場所は地相が良いとされる。七つの台地に囲まれ、その全ての延長線上が江戸城に交わっている。嘘か本当かは知らないが、江戸城は磁気が通常の倍の数値を示すとかなんとか。

 詳しいことは判らないが、櫓の仕掛けと言い、テンカイという僧は江戸の守護を徹底している。だったら江戸の中心である城の守りは堅牢にするはず。江戸を守るにはきっと相応しい、はず。

 ……恐ろしいことだ。

 こんなに不確定で希望的観測しかしていない私のことを、江戸の人たちが信じている。祈るだけではなく、避難を中断し協力してくれているのだ。

 恐ろしいことだ。

 数えきれない人々の期待を、今私は背負っている。

 恐ろしい。

 ただのビッグマウスで済まなくなった。

 結果を出さなければならなくなった。

 だから信じよう。

 私を信じてくれる人々の事を。

 私に協力してくれる少年を。

 私を大切にしてくれるあのひとを。



 江戸城に辿り着いたので屋根に落としてもらった。水流に巻き込まれないように彼には帰ってもらう。

 江戸城の前で鬼斬りと悪霊が戦っていた。お荷物のいなくなった彼の動きは見違えるようで、負傷を感じさせない。

「鬼斬りさん! 悪霊の傷を狙って下さい‼ そして江戸城へ悪霊を叩きつけて‼」

 戦闘中の鬼斬りさんに聞こえるように大声で指示した。

「指示が雑‼」

 大声で文句が返ってきた。だが、彼は無表情で刀を構えた。悪霊は私の狙いを理解しているのか、傷を庇うように動く。これでは刃が届かないだろう。

「僕は、斬ると決めたものは必ず……斬る‼」

 鬼斬りは大地を蹴った。

下段からの切り上げで傷を隠していた槍を真っ二つに斬ると、続けざまに塞がりつつある傷に刃を突き立てた。バランスを崩した悪霊は大きな音を立てて江戸城へと倒れ込む。

「今です‼」

 私の合図に間髪入れず大波が江戸城を襲った。きっと私たちの映像を見て、江戸から距離がある者達は合図の前には動いてくれていたのだろう。でなければ、ここまでタイミングを合わせられない。

 夏の海のようにチカチカギラギラ輝く海流が水の牢獄となって悪霊を呑み込む。
 あの輝きは、四方に散った浄化の塩の欠片たちだ。
 水の流れに乗って雪辱を果たしに来た。

 ここに、塩と海とを揃えた。
 最後に必要なのは、祈りだ。

 不確かで、不安定で、不誠実で、不出来な人々の感情。

 目に見えないそれが、神様の、いやきっと、八百万界では力になる。

 だから私は祈った。信じた。

 鹽土老翁神しおつちおじのかみさんは強いって。

 江戸のひとたちは強いって。

 鬼族は強いって。

 ヌラリヒョンさんも鬼斬りさんも強いって。

 悪霊なんかに、負けるはずないって。

 ……そして、私も。

 八百万界を救おうとしている私が、この程度の障害をなんとかできないわけがないって!

「いっけええええ‼」

 地上六十メートルの江戸城を呑み込む浄化の潮流は悪霊の身体を錆色に蝕んだ。超再生は働きを止めている。

 水の中での咆哮。
 耳の中がびりびりと振動する。苦しみの音だ。

 悪霊は無事な方の槍を私の方へ突き立てた。

 私の鼻の先で、槍が止まった。
 腐食が先端まで到達して。黒煙となって消えた。

 悪霊を包んでいた海水も役目を終えたように、重力に引かれて落ちていった。大きな水飛沫が上がると、日が傾いた空に星のように瞬いた。

 

 ──私たちは、勝利した。



 天守の瓦に寝転んだ。

 鹽土老翁神しおつちおじのかみさん、あなたの力で勝ちましたよ。

 そのまま目を閉じていると、靴音が瓦を伝って頭に響いてきた。

「休んでる暇はないよ。結界内は片付いたけれど、外にまだ雑魚がいて皆を襲ってるんだからさ」

 鬼斬りだった。大量の水に巻き込まれなかったらしい。

「そうだね。ごめん」

 一度気を抜いてしまった身体は重いが、気合を入れて立ち上がった。

「……ま、弱いなりには頑張ったんじゃない?」

 それは、労っているのだろうか。

「あなたは強かったね。やっぱりあなたに頼んで良かった」
「そのあなたあなたって気持ち悪いんだけど。僕はモモタロウ。さんでも様でもどちらをつけてもいいよ」
「じゃあ、モモタロウくんかな」
「君は相当耳か頭が悪いようだね。で、君の名前は何。さっきはもにゃもにゃ言って聞こえなかったんだけど」

 恒例の名前問題である。

「──。って、多分聞こえないんだよね。そういう術らしくて、私は名前が言えないんです」
「ふうん。じゃ仮にでも名前つけなよ。モモコとか」

 ダサイな。

「一応考えているものはあるので。今はナナシで」
「ダサッ」

 モモコより千倍マシだよ。

 水浸しの江戸城からえっちらおっちら走った私たちが結界外へ出ると、結界は消えてしまった。

「消えた……?」

 モモタロウくんが手を入れるが何も起こらない。彼の手の甲にはもう、私の塗りたくった血は綺麗に消えていた。

「おーい!」

 知らない人たちが手を振って集まってきた。

「あんたたちあれを倒しちまったんだな‼」
「俺たちもちゃんと力になれたんだな」
「やるじゃねぇか坊主。最後の一刀かっこ良かったぞ」
「お嬢ちゃんもスゲーな! 結界内を自由に行き来出来るなんて、創始者様よりも強ぇんじゃねぇか?」

 次から次へと人が集まり、皆口々に賞賛の言葉を放ってくる。囲まれてしまった私もモモタロウくんも戸惑ってしまった。

「ありがとう。貴方のお陰で明日も生きていける」
「ここから離れなくて済む」
「ありがとうありがとう」

 モモタロウくんは同じ人族に感謝されて、さも当然と澄まし顔を見せていたがどこか嬉しそうに見える。
 私は「上手くいって良かったです」と口にしながらも目では別のひとを探していた。

 いた!

 私が大衆から抜けられずにまごついていると、向こうから近づいてきた。

「……お疲れ様」

 倒れかかると当然のように抱き留められた。大鎧が邪魔くさいのも今は落ち着く。
 本当に安心した。
怪我はあったけれど生きてて良かった。
 私もヌラリヒョンさんも。

 …………死んだひとだって、沢山いるんだから。



 そこからはずっと宴だった。

 町は見える部分の殆どが壊れていたが、それぞれが瓦礫の下から使える物を引っ張り出して、それらを飲み食いした。重いものを動かす時には大柄な妖が大活躍し、感覚が鋭い妖は匂いで探せるので重宝された。トドメキさんも腕に埋まった百の鳥目が失せ物探しに役立っていた。……偶に見つけたものを懐に収めていたのは注意したが。今回私自身が関わる事のなかった神族や人族たちも、それぞれ自分の得意な事、出来る事を用いて全員の為に働いていた。

 月が綺麗な夜空をバックに江戸の城主様が言う。

「この江戸は知っても通り、元々は湿地帯で原野が広がるばかりで、到底我々が住める場所ではなかった。江戸湊を埋め立て、山を切り崩しその土で入り江を埋め立てて整備した地だ。何年もかけて人が住めるようになり、一大都市へと発展した。今や八百万界の中でも随一の城下町である。此度の戦で江戸は半壊したが絶望する事はない。また一からやり直せば良い。土地をならすのは先代達の遺産があり、我々はその上の建物を作り直すだけで良いのだ。難しい事はない。もう一度、江戸を、あの美しい街並みを我々の手で蘇らせるのだ」

 歓声が上がると余所者の私まで高揚した。

「今宵は此度の功労者を讃えたいと思う。モモタロウ殿とナナシ殿だ」

 モモタロウくんと私は思わず顔を見合わせた。ヌラリヒョンさんに促されて、前に出て城主様と並ぶ事になった。

「お二人がいなければ、江戸は破壊尽くされて二度と我々が立つ事はなかっただろう。感謝申し上げる。これは江戸の民全員の総意だ。二人が救ったのは民の命と、民の未来だ。感謝してもしきれない」

 再び歓声が上がった。口々に言っているので全ては聞き取れないが、なんとなく褒めてくれているらしい。こんな経験今までにないので恥ずかしくて爪ばかり弄ってしまう。横に立つモモタロウくんもなんだかもじもじしている。

 それは殺し上等の鬼斬りではなく、同級生の男子のようで、さながら今の状況はお遊戯会の舞台と言ったところか。

「ま、まあ、僕は最強なわけだからこれくらい訳ないし。……でも、……守れて良かったよ。はい、次は君だよ」

 照れ隠しにさっさと押し付けられてしまった。
 私が言う事、言う事……。
 皆が私を見ている。私は息を吸った。

「初めまして。申し遅れました。私は独神と申します。八百万界を救うために目覚めた、独神です」

 あれだけ盛り上がっていた大衆が一挙に静まり返った。モモタロウくんもカッと目を見開いている。

「……と言っても、まだまだ力を行使できず今日も結界を出入りしたり、いくらか攻撃が当たらないとかその程度であってとくに役に立つわけではないのですが」

 あははと笑って見せると、大衆がざわつきだした。

「あんな強力な結界に出入り出来るなんて、やっぱり本物なんじゃ」
「確かに悪霊に襲われていたはずなのに傷一つなかった」
「でもあの手の傷は」
「馬鹿。あれは自分でやってただろ。モモタロウ少年が動けるように」
「独神様……伝説は本当だったのか…………」

 がやがや騒いでいるが、流れは悪くない。
 私を偽物だなどと思う者はいないだろう。

「今の私はまだまだ役立たずです。しかしこれからも八百万界を回り、悪霊を倒し、この世界に必ずや平和を取り戻してみせます。……だから皆様、宜しくお願いします」

 ペコッと礼をする。
 すると、ぱらぱらとまばらな拍手から、花火のようにどかーんと盛り上がった。

「これは実にめでたい! 独神様が我々をお救い下さった!」
「救世主様の目覚めに立ち会えるなんて、なんて幸運なんだ」
「ようやく、悪霊に怯える日々も終わるのね……」

 人々は熱狂していた。浮かされていた。
 〝独神〟の言葉にすっかり酔わされていた。

「ほら、独神様も飲んで飲んで!」
「私未成年だからお酒は」
「じゃあ食え。たらふく食って、どんどん悪霊を殺してくれよな」
「がんばりまーす」
「独神様にはやはり世界の加護がついているんですね。だから何者も貴女を傷つける事は出来ない」
「いやー。多分このお守りのおかげですよ。遠野で頂いたんですけどね」

 飲めない私はたらふく食べさせられた。途中吐くか我慢するかの二択で白眼を剥きかけた。

「あ、相部屋の」

 食べ物のない所へ逃げていると、角の生えた神様に偶然出会った。

「こんばんは。またお会いましたね」

 彼の肩にはあの龍の顔した鹿みたいな生物がいた。よく見ると長い髭のようなものが何かに似ている。なんだったっけな……。

「……キリン(ビール)?」

 はっと彼は目を見開いた。

「あなたは私をご存知で」

「え、あ、いや……ちょっとだけ」

 缶のデザインだけ。

「……なるほど、そうでしたか」

 何かを納得されてしまった。

「改めて自己紹介させて頂きますと、私はキリンと申します。独神様」
「はは……。あの普段は独神の名で呼ぶのはおやめ下さい。まだ完璧な独神ではありませんし、それに気恥ずかしくて」
「おや、それは大変失礼しました。……ナナシ、様?」
「様も不要です。私は偉いわけではなく、皆さんと同じ、寧ろ弱い存在ですから」

 体力もなければ知識もない。秀でている所は何一つもない。そしてなにより偽物だ。
 下手に出来る者と思われて、早々に化けの皮が剥がれないようにわざと己を卑下した。

「あなたは随分、遠慮なさるのですね。宿のお部屋をご一緒した時も、あなたは彼らが見えている事を秘密にしておられました」

 肩に乗った麒麟が私の肩へと飛び乗って来た。龍の顔だが怖くはない。寧ろ人懐っこいのかすり寄ってきて可愛い。

「見えないひとばかりだから、見えると言わないようにしているんです。ヌラリ、……妖の知り合いも普段は見えるのに、何故か私にしか見えない子もいるので」
「ああ。お知り合いの方は妖族由来の生命は見えますが、神族由来の生命は見えないのでしょう。私は生命の輝きには敏感なので由来に関係なく見えますが」

 そう言う事だったのか。

「独神様は生命を操る秘術が使えると聞きます。ですから、この世の誰より生命についての感受性が強いのでしょうね」

 そう言う事だったのか。(二回目)

「秘術ですか……。未熟者の私が会得するのはまだ先のようです」

 出来ると嘘をつくことも考えたが、じゃあやってみせてと言われた瞬間終わるのでやめた。

「きっとあなたなら出来ますよ」

 キリンさんは何故か自信ありげに言い切った。

 私のことなんて何も知らないのに。

「ありがとうございます」

 でも私はお礼を言うだけに留めた。

「独神様! こっちのものも食べて下さい! みんなあなたに直接お礼を言いたいんです」

 興奮気味に話しかけた人を見て、キリンさんは、

「私ばかりが独占して申し訳御座いません。失礼します、ナナシさん。ではまた」

 また、と言って、キリンさんは身を翻した。
 よく判らない神様だ。力のあるひとは神も妖も厄介だとヌラリヒョンさんは言っていたが、彼も相当〝厄介〟な予感がする。

「独神様! こちらへ!」

「はい! 今行きます!」

 あれだけ騒いでいた宴も疲れや酒で時間と共に静まっていった。私も何度か目を瞑っていると、独神様を外で寝かせるなんてとても出来ないと言われて、壊れていなかった旅籠へ案内されることになった。私は妖と飲んでいたヌラリヒョンさんを強引に引っ張って二人で部屋を借りた。
 水路が壊れているので入浴は出来ず、汚い身体のまま蒲団に入った。

 ヌラリヒョンさんはずっと黙っている。話しかけるのも躊躇われたので私も同じように黙った。同じ部屋で隣に蒲団を敷いているのに、一度も顔を向けてくれない。
 不安になったが、今日は一日色々あり過ぎて疲れてしまったので、気絶するように意識が落ちてしまった。

 朝起きると、朝飯にしては多すぎる料理を振る舞われた。今日中に江戸を発って次の町へ行くと言うとお弁当まで作ってくれた。勿論二人分だ。

 私が外を通ると、誰もが手を振ってくれる。
 独神様、独神様と声を弾ませる。
 私は小さく手を振って、にこにこと笑った。

 江戸の外に出る時も種族問わず多くの見送りがいた。

「見送りはここまでで。お気持ちは十分に頂きました。皆様は江戸復興を頑張って下さい。私も微力ながら周辺に江戸に手を貸すように伝えながら行きますので」
「独神様はそこまで考えて下さるなんて」

 私の言葉に母親くらいの女性が涙を流した。

「私は独神の使命を果たします。ですから皆様は普段の日常を守り、その日が来たら独神に手をお貸して下さい」

 街道へ出ても私の事を知っている者ばかりで、激励の言葉や感謝の言葉が雨のように降って来た。私は笑顔を絶やさず、メトロノームのように規則正しく手を振った。

 ある程度歩いて、私は小声でヌラリヒョンさんにお願いした。

「……街道逸れて良いですか」
「判った」

 整備された道から外れ、雑草の生い茂る方へと歩いていき、木々が密集する方へとザクザク進む。周囲にいるのは私達と見えざる者たちだけになり、私は座り込んだ。ここなら遠慮なく溜息がつける。

「……其方、とんでもない事をしてくれたな。もう後戻り出来ぬぞ」

 ヌラリヒョンさんは冷ややかに見えた。

「……そうですね。でもタイミングは今だ、と思ったんです。あれだけ私が注目され、発言に力を持つことなんてないから。だったらあの場で独神を印象付けてしまおうって」

「考えていないようで、考えておるから厄介なのだよ……」

 ヌラリヒョンさんはしゃがむと私を見つめた。怒られるのかと構えていたら、頭を撫でられた。

「あのまま遠野に戻っていれば、好きな時に寝て食べて、儂と茶を飲むだけの生活が送れたのだぞ。……それに其方、本物の独神を語るなどと」

 非難めいた言葉を遮った。

「偽物で良いんです。広告活動が出来れば良いんだから。通信技術のない八百万界ですから、独神の顔を皆が知っているわけじゃない。独神の名前だけが広がれば、本当の独神が立ち上がった時、それらが生きる。スムーズに八百万界を統一出来ます」

 私が言い切ると、ヌラリヒョンさんは何故か悲しそうな顔をした。

「其方は判らぬ。……儂には全く理解出来ぬ」
「……すみません」

 相談の一つもしなかったことを謝罪した。

「でも、これ以上ヌラリヒョンさんに迷惑はかけません。今までついて来てくれてありがとうございました」
「お役御免と言う訳か」

 自嘲的な物言いが私の胸を締め付ける。

 私ははっきりと伝えた。

「ヌラリヒョンさんは遠野に必要です。これ以上連れ出す事は出来ません」
「なら丁度良いかもね」

 どこからともなくモモタロウくんが現れた。今まで足音なんてなかったのに。

「剣は抜かなくて良いよ。そういうつもりじゃないし」

 剣を構えたヌラリヒョンさんの前を横切り、私の前に立った。

「君、僕に嘘吐いてたね。立派な名前があったじゃないか、独神っていうさ」
「それは名前じゃないよ」
「でも君の身分を証明する、君だけのものだ」
「いや、私は本物の独神じゃなくて……」

 私はモモタロウくんに全てを話した。

「やっぱり嘘吐きじゃん」

 軽蔑の色を露わにして眉間に皺を寄せた。

「私が嘘でも、独神が八百万界を救えばそれは独神の功績になる。そうなれば身を引けば良いだけだよ」
「独りよがりの正義だよね」
「……そうだよ」

 他者の名を拝借しての売名行為。
 当然許されるものではない。その名を持つ者の名誉を傷つける事も時にはあるだろう。

「でも君の正義の方が正しかった。僕は江戸に阻まれて、君は江戸の全てに受け入れられた」
「あれは、江戸の人達の人が良いというか、お人よしというか」
「僕は今まで誰かの為にしか刀を振るわなかった。でも、僕は必要とされない」

 そりゃあんな殺し方では、悪の幹部にしか見えないし……。とは口に出さないけれど。

「僕と君の何が違うのさ。違いが判るまで僕は君を監視してるから。答えが見つかるまで他の誰かに殺させないよ」

 動機は迷惑甚だしいが、彼の腕は大いに役立つことは明白だ。〝独神一行〟の一人には相応しい。
 嫌な言い方をすれば、利用価値がある。
 ヌラリヒョンさんと別れる口実にもなる。

「と、いうことなので、後のことは大丈夫です。今まで本当にお世話になりました」

 頭をしっかり下げた後は背を向ける。うまく顔がつくれる自信がなかった。

「……ところで、其方ら路銀は大丈夫なのか」

 はぁと、モモタロウくんは呆れて言った。

「そんなのどうにかなるでしょ。追いはぎを斬れば良いだけだし。君だってそれなりに持ってるでしょ?」

 私はふいと顔を背けて答えた。

「……ぜ、ぜろ………。所持金、ゼロです」
「じゃあ今までこの妖に集ってたの? 恥ずかしくないの?」

 恥ずかしいというか、申し訳ないとはずっと思ってた。でも甘えたままずるずると。

「懐が潤ってなければ、蒲団で寝る事も叶わぬし、野宿三昧。それに飯も草や虫だろうなあ」
「それくらい平気でしょ。ねえ?」
「む、虫は……虫は……」
「はああ? 八百万界救うって豪語したくせにそんなみみっちいこと言うの⁉」

 信じられないと繰り返すモモタロウくんに、私は爆発した。

「この世界のひとは平気なんだろうけどさ! 虫なんてゲテモノじゃん! 現代人は虫も木の根も食べないもん‼ 芋虫も食べないし羽化しかけのセミの揚げ物も食べないもん‼」
「悪霊に勝つまで贅沢しません! とか言えないの⁉」
「言わないよ! トイレでしゃがむのだって未だに慣れないのに‼ 落ちないだけ褒めて欲しいよ‼」
「といれが何かは知らないけど、君本当に救う気ある? 大丈夫?」

 やいのやいの言い合っていると、ヌラリヒョンさんがぱふぱふと手を叩いた。

「これでは一日ともたず喧嘩別れが目に見えておる。儂もついて行こう。其方のことを一番判っているのは儂だろうからな」

 目を細めた表情に反して、私はすんなりと喜べなかった。

「でも遠野は……」

 遠野の人たちが喜んで見送ってくれたのは、ヌラリヒョンさんが必ず帰ると信じていたからだ。私はもうこれ以上、遠野からヌラリヒョンさんを奪う事は出来ない。今回の事で身に染みた。ヌラリヒョンさんは強い。腕っぷしだけでなく、彼の存在があるだけで士気が上昇する。総大将の名は伊達ではない。

彼は人々の精神的支柱だ。

「其方が思う程皆やわではないさ」

 そんなことはない。それはヌラリヒョンさんがいてこそだ。不在時にどれほど奮起出来るのか、どれだけ心細いか。私は不安で仕方がない。だからヌラリヒョンさんは遠野にいるべきだと思ったのに、ヌラリヒョンさんはまだ私について来てくれると言う。

「結局この妖もくるの? しょうがないな。妖なのは気に食わないけど、僕のお供その五にしてあげるよ」
「その生意気さは若者の特権だな」

 早くもモモタロウくんと気安くやりとりをして、空気に溶け込もうとしているが私はそれを拒む。

「ヌラリヒョンさん……もう一度考え直して下さい……お願いします」

 ヌラリヒョンさんはじっと見つめると私の頬を撫でた。

「……儂とて、一人気ままに過ごしたい時もある」

 指が目尻を撫でるので、反射的に目を瞬かせた。

「だが、礼を言う。あの地を気にかけてくれて」

 いつもとは少し異なる穏やかな声色だった。
 ヌラリヒョンさんはやはり、遠野が大好きなんだ。それが私にはとても羨ましく眩しく見えた。

「其方のような若者は遠野に固執せず広く物事を見た方が良い。だから儂も遠野に帰るより、其方について行くのが最善であると判断した」

 私はまだ納得していない。
 だが、ヌラリヒョンさんの言う事には頷けた。私の背を押してくれている事にも報いたいと思った。

「……ヌラリヒョンさん、これからも私と一緒に八百万界を救う方法を考えてくれますか?」
「勿論だ。この剣、其方に預けよう」

 私たちは二度目の約束をした。前回とは違い、今度は真剣に彼の力を貸してもらう。遠野への後ろめたさが背に張り付こうとも。

「あ。僕は君に刀を預けたりなんか絶対しないから。そこは忘れないでね」

 …………。

「……あ、うん」

 なんか気持ちが締まらないけれど、私とヌラリヒョンさんの長い散歩に、人族であるモモタロウくんが加わる事になった。足並みが揃うのか不安なことは多いけれど、三人に増えて少し楽しみでもある。

 さて、次は何処へ向かおうか────。




------------------------


◆参考図書
・神崎宣武『江戸の旅文化』岩波書店、二〇〇四

江戸前半の旅籠屋のお話関係の知識はこちらから。
どんな建物で、どんな食べ物を出していたのかもこれを読めば分かります。
女性がどう旅をしていたのかも書かれていて、成程な……と思いました。
江戸時代の女性も、現代の女性と同じようなノーミソしているんだな、とか。


◆江戸

・東洋のベネチア
川や水路が網目のように江戸を巡っていたそうですよ。
東京在住の方は判ると思いますが、水や橋のお名前が町中に溢れているのはそういうことです。
関東大震災や第二次世界大戦やらがあって、多くの川を埋め立てたそうです。
戦後、グリーンベルト思想に通じる「東京戦災復興都市計画」がありましたが、ドッジラインの影響や、GHQの命令もあって、こんな感じになったようなので、違う世界線の東京は自然にあふれたものかもしれませんね。
……この辺を話すとなると、新たに本を読む必要が出てくるのでおわり。


・江戸のソウルフード

蕎麦、天ぷら、寿司、鰻。
江戸の後期あたりから、食に拘れるくらい経済が安定したらしいです。
蕎麦が江戸で定着した後、天ぷらが定着し、天ぷら屋の隣にたまたま蕎麦屋があったから「天ぷら蕎麦」が誕生したとも聞きました。ほんまかいな。

寿司がその辺で売っているって不思議ですよね。
ネタがぬるそう。……あ、そう言えば当時の寿司はおにぎりぐらい大きかったみたいですね。
あと赤酢だから酢飯がちょいと赤い。


・江戸資料多すぎ問題

……今回参考図書は一冊しか書いていませんが、色々なものをパラ読みしました。
私は江戸(東京)に住んでいた事はありますが、山の手周辺はほぼ行かなかったので、土地勘がなさすぎて言葉が耳をすり抜けるのなんのって……。
水路の話も、歴史を踏まえていないと正しく理解できません。
白地図に書き込んで学習する必要があると思いました……。

文化も地形もそう。
本当はちゃんと歴史に沿ったものを書こうとしていました。
小説内に地図も入れてさ、現実と八百万界がリンクするような感じにして。
……相当勉強が必要だし、実際の距離を考慮するとなると、キャラたちがワープする事のないように、綿密に展開を考えないといけません。

なので正確さは捨て、いいとこ取り作戦でいきました。
〆切(25日)と自分の筆の遅さを考えると間に合わないなー……って。
特に今回は、慣れない戦闘シーンや初同人誌・初イベントがあったので何もかもは無理でした。


◆公式キャラクター

・トドメキ

超絶可愛いなあ!!!
彼女は人間臭いところが好きです。
ただあの価値観だと、あのゲーム、あのゲームのファンには合わないかも……と思っていたり。
ネットで発言するような人の意見しか可視化しないのでよく判らんのですが、良い子や判りやすい子の方が好まれる印象なので。

私は欠点や汚点を削ぎ落としたキャラに魅力を感じないので、トドメキにはあんな感じでいて欲しいですね。
現実だと「両親の財布から金を抜くような奴だけれど、俺が困ってたら助けてくれるし、一緒にいて楽しい」みたいな。
社会的に許されない事はしているけれど、でも憎めないってあるじゃん……じゃん。
社会の敵かもしれんが、俺の味方なんだよ……的な。


・キンシロウ

台詞だけ登場。
私自身はキンシロウをゲームで使っていません。忍ゲーだったもので。
伝承相手に着流ヌラやテンカイやゴエモンがいたのでその話は見ていますし、保存しています。
なので親愛ボイスと元ネタを見て、改めてキャラクターについて考えましたが……。
酸いも甘いも経験している彼は、”酸い”経験を一回読者に提示すれば、グッとキャラがしまってかなり良いのではないかと思いました。
ですがそれを今回の話に入れると話が飛んでしまうので、深入りはしませんでした。
舞台が江戸だったので、どうしても彼の生きている姿は入れたかった。無理やりだけどつっこんだ。

……バンケツファンにはガチで知識がある方もいるので、じゃあ「ホクサイ」はどうしたよ、ってつっこみたくなった方がいると思います。
彼の住まいは二ヵ所判明していて、更に住処の殆どが墨田区の両国付近ですもんね。北斎通りありますもんね。

正直言うと、ホクサイは出したいので江戸では出さない。です。


・テンカイさま

名前しか出ない高僧です。そのうち本人を出したいですね。
江戸が特別なつくりをしていることについて、色々な書物にあったのでそれらをかいつまんでお話の中に取り入れさせてもらいました。

江戸編前半の百鬼夜行が降下していく場面。
あれは、テンカイさまの結界による影響で妖たちが能力を抑えつけられた為、ヌラリヒョンは何かを感じ、百鬼夜行も落ちていきました。
本文中でわざわざネタ明かしに文字数を割く必要はないと思ったので描写しませんでした。

江戸に入る時のチェックが甘いのもそれが理由。
ある程度の選別や能力低下がテンカイの呪術で常に行われているので、役人の目視だけで入国できます。
イコール、モモタロウは100%のヌラリヒョンとは戦っていないんだなあ。


寿司の話をもう一度しますが、屋台の寿司を食べる事が江戸では粋な食べ方と言われていたのであれば、
テンカイさまもクソデカ寿司を立ち食いして暖簾で手を拭いて帰ったのでしょうか!?
テンカイさまは公式シナリオ見る限り、江戸大好きさんですから。
……世が世なら、べらんめぇなテンカイが暴走するトンチキイベストもあったのかもしれないな。
(別ジャンルですが、ヒプノシスマイクの神宮寺寂雷先生が酒で酔ったシーンを聴くと、中の人が同じなのでイメージしやすい)


・モモタロウ

八傑で一番入手が遅く、入手数も少なくて凸れず、思い入れがないキャラです。
本編やイベントには登場していましたが、数年本殿にいなかったので個人的な思い出が全くありません。
だから今まで他の作品では出さなかったのですが、今回の作品は自本殿話ではありません。
自分の好きなキャラ、シチュを見てみて! の個人的感情ではなく、「八百万界」という一つの世界を凝縮、提示する事に重きを置いているのが今回の長編です。
ライター視点で考えた結果、八傑の中で一番知らない子を敢えて出しました。
この話の主人公(独神(仮))と同じように、私自身も少しずつ彼を知っていく方が自然な描写になりそうで。

執筆の為に親愛台詞や元ネタからキャラクターの輪郭を抽出する作業はとても面白いです。
ゲームがないので、使ってたら愛着が湧いた……なんて事はもう起こりません。
ですが、こうして二次創作をする事で、原作ゲームがなくなってもキャラへの愛着が形成できます。
「書けば好きになる」の法則。
そんでもって、私がチマチマ形にして公開する事で、この世の知らない誰かも「このキャラ意外と良かったんだな」と思ってもらえるのが理想です。

……って、今回のモモタロウは親愛度0なので読み手に好まれる要素がありませんが。
これからね、親愛度増やしましょうね。


◆まとめ -遠野・仙台・江戸-

大体十万文字です。ラノベ一冊分。
文庫本単位で話の構成を考えていたのもあって、江戸編は絶対に盛り上げる必要がありました。
商業本を例に出すと「スレイヤーズ」なら「赤眼の魔王《ルビーアイ》シャブラニグドゥ」を文庫本一巻の後半で倒しています。
魔王まではいかないにしても、私も何か大きな障害を用意しなければなりませんでした。
それが、巨大な悪霊です(単純すぎて申し訳ない。だって一発目から私創造の敵だと、読者は想像しにくくない!?)

執筆において私が得意なのは、江戸編前半のヌラリヒョンと上旅籠に泊まった時のやりとりみたいなやつなんですが、後半は長所を全て捨ててラノベ的な盛り上がり重視で書きました。
アニメで言うなら、11話、12話です。ご都合主義が許されるだけの勢いとノリが必要な場面です。
……と、頭では判っていますが、読んでいる方的にアリだったのか、ナシだったのかは判りません。
なんとなく、それっぽくは出来たかなーとは思います。
未熟だとしても、現状だとこれが私の限界です。
戦闘シーン(エンタメ?)の勉強が必要ですね、はい。


◆あとがき

ここまでお疲れさまでした。
書く方も大変ですが、読む方も大変だなあとつくづく思います。
限りある貴重なお時間をここで使って頂けるというのは、創作者的には嬉しいことこの上ないことです。
エンタメに溢れ、情報の海で溺死させられる今の世で。

次回は西へ向かいます。
……で、私は中部地方は  未  知  です!!
車中泊で日本一周しようぜ! となった時に、ちょこちょこっと降りたくらいです。(結局一周出来なかった)
本はとっくに借りてきていますが、文庫本二巻全体をどういうテーマ、どの地域、どのキャラ出すとかあまり決まっていません。

中部で好きだなと思ったのは、岐阜と長野です。
岐阜は名古屋(愛知)の属国ゾーンを抜けてからが良い。匂いがね。好き。
自然が多くて私はとても肌に馴染む心地がした。
生きるにも死ぬにも良いなって。




◆こっそり宣伝

◇紙の本について

話の大筋は弄っていませんが、色々と加筆修正しています。
遠野は執筆後時間が経過しているのもあって、かなり直しています。1Pから修正しまくりです。
(早割に目が眩んで)カバーから入稿したせいで、ページ数が増やせずオマケページはありません(馬鹿すぎて結構凹んでいます)
価格は500円となっていますが、これはイベント時の特価でイベント終了後は1000円になります。

セールスポイントは、文庫本サイズであること。カバーがラノベ風なことでしょうか。富士見書房風。
それと自分なりに丁寧に作っています。英字と日本語でフォントを変えたり、ルビをつけたり。
初の同人誌制作なのもありますが、自分が満足いくものをと思って出来栄えはともかく一生懸命作りました。
気になった方は6/25以降にBOOTH(orイベントの購入ページ)へアクセスしてみて下さい。
(2021.6.11)